ベーリンハムにある入江沿いの公園にて
芝の手入れはさすがに見上げたものである
今年になって2回目の芝刈りをした。
裏庭は毎日長男とのサッカーゲームに励んでいるため
ほとんど芝は伸びていない。
むしろ土が剥き出して茶色くなっている箇所があちこちにあるほど。
それにゴールとしているゲイトの隣に垂直に伸びる雨樋が
シュートの直撃弾を何度も浴びて、ついに破損してしまった。
表庭には、たわわに伸びるタンポポ。
昨年は根から掘り起こしたのだが、今年もまた実ってくれた。
「めんどうだな~」
「なんでそんなに強い繁殖力があるんだ?」
黄色い花が咲いているときに根からの駆除をするべきだった。
すでに白い種となっている今、それに触っただけで種は飛んで新たに子孫を作る。
中学校の3学年のときだったと思う。
学級目標なるものを皆で考えて、
教室正面に張り出すことがあった。
「雑草のようにたくましく」
とかいう文句があったのを思い出した。
そう、たかが数度の失敗にくよくよするな。
これまでが不毛不作だから何だというんだ。
人生はまだ折り返し地点を回ったばかりではないか。
9回裏の逆転満塁サヨナラホームランだってあるんだ。
雑草のたくましさからの雑感。
「 6 イエスはこのようなたとえを話された。
「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。
実を取りに来たが、何も見つからなかった。
7 そこで、ぶどう園の番人に言った。
『見なさい。三年もの間、やって来ては、
このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。
これを切り倒してしまいなさい。
何のために土地をふさいでいるのですか。』
8 番人は答えて言った。
『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。
木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
9 もしそれで来年、実を結べばよし、
それでもだめなら、切り倒してください。』」
(ルカ 13:6-9)
いちじくの主人の言葉、
「これを切り倒してしまいなさい。
何のために土地をふさいでいるのですか。」
とは、一見厳しくて愛のないように思える。
ところが冷静になれば
それは一般社会で常日頃見聞している
もっともなことであろう。
そのもっともさに対して
あえて反論をしているのが
その番人である。
「ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。
木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。」と。
その番人こそ、忍耐の限りを尽くしている主イエスである。
だからこんな私でも生きていける。
信仰者の端くれとしても、引っかかっていられるのである。
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