「宮きよめ」
マタイ21章12~ 17節
~マタイ福音書連続講解説教59~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/1217-59
受難週の二日目、月曜日の出来事である。
主は商売をしている人たちや両替商などの世俗的利益で働いていた者たちを
神殿から追い出した。宮きよめと言われている所以である。
公生涯での最初の過越の祭りにも同様の宮きよめをされているが、
今回の記事は2回目の出来事となる。
宮きよめにはどのような意義があるのだろうか。
❶イエスご自身のメシア宣言であった
主は神殿のことを「わたしの家」と呼ばれた。
ここにご自分が神に等しい存在であるとの宣言がある。
当時のユダヤ教は、パリサイ派による逸脱した形骸化宗教であり
また神殿においては大祭司たちの懐を温める特権ビジネスと化していた。
「強盗の巣」にしていると主が弾劾したのは、
大祭司達が生贄の動物を認証する権限を利用して
金儲けに走っていたからである。
彼らの認証なしに動物を捧げることができなかったし、
シェケル銀貨でしか献金が許されていなかったので
両替商もまた大祭司一家のビジネスとなってぼろ儲けをしていた。
「異邦人の庭」と呼ばれる境内が占拠され、
到底祈りに集中できる場でなくなっていたのである。
主は、宗教を借り物にした偽善や貪欲に激しい怒りを向けられた。
ここでもう1つ注目したいのは、
そのように堕落したユダヤ教であったとしても
その神殿での礼拝を神聖なものと認めておられることである。
主イエスは聖書的ユダヤ教の流れの中に位置付けられ、
連綿と続く預言者たちの系譜に属するお方であると言える。
❷権力者たちとの論争の火種となった
ニサンの月の10日に過越用の羊が選り分けられると、
14日に屠られるまで傷や欠損がないか吟味された。
同様に主は10日のエルサレム入京時に選り分けられた。
そして14日夜の最後の晩餐までの間、
様々なグループから「傷のない子羊=メシア」であるかを吟味されることになる。
その吟味とは、ユダヤ教の各派閥からの論争であった。
その原因を作ったのがこの時の神殿での激しい主の行動であった。
主はすでに金曜日に十字架で処刑されることご存知であられたが、
それに向かっての着実な布石であったともいうことができる。
つまり金曜の午前9時に神殿では過越しの羊が捧げられる時間に、
神の子羊であられる主が十字架に付けられなくてはならない、
そのゴールを定めた歩みがすでに始まっていたのである。
❸預言の成就のために
商売人たちが追い出された後の広大な神殿域には、
「盲人や足の不自由な人々」がみもとに来て、癒されたとある。14節。
こられすべてを見ていたのが子供たちがいた。
彼らは「ダビデの子にホサナ」と言って、
メシアとして主を歓迎したのであった。
それは詩篇8:2の成就となった。
「幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された」(16)
幼子は時に鋭利な直感で真実を見分け、率直に表現する特徴がある。
一方、大人たちは権力者・サンヘドリンにはばかって無言を貫いていた。
イエスを認める人は、必ずしも教育があったり力のある人たちではなかった。
幼児のような純真な信仰のあるものによって主は称えられたのだ。
やがて到来する神の国も、このような者たちによって建立されることになる。
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