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イスラエルとキリスト教会❾その2

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イスラエルとキリスト教会❾その2

ガラテヤ6:16

「どうか、この基準に従って進む人々、
すなわち神のイスラエルの上に、
平安とあわれみがありますように 」

この聖句にある二つの組織体・グループとは
異邦人信者とユダヤ人信者の二者であり
二つのグループに祝福を述べたものであると解釈できる
大きな理由は次の通りである。


①解釈学の原則から

新改訳聖書のようにギリシャ語Kaiを「すなわち」と訳すのは
文法上誤りではないが、それは圧倒的に稀なケースである。

ほとんどの場合は、ANDと訳されるのである。

「釈義や神学上の明らかな矛盾がない場合で、
通常訳出される語句が意味をなすものならば、
より稀な語句を訳語として採用してはならない」

この解釈学の原則に立つなら、ANDと訳出されるのがふさわしいことになる。

もし契約神学者が言うように、
「神のイスラエル」が「基準に従って進む人々」と等しいとするなら
パウロは、Kaiをここで記さなかったはずである。

その方が文法にかなっている。
だが、事実は明記されているのである。


②用法と文脈に照らしての釈義から

先ず、用法について検討してみよう。

聖書記述の中で先回確認したように、
「イスラエル」が「教会」の意味として使われたことはない。

「異邦人」は、ノンクリスチャンを指して使われた言葉でなく、
ユダヤ人以外の人々を指したものとして聖書の中では一貫して使われている。

「使徒の働き」書の中では「教会」と「イスラエル」とが調和をもって扱われている。

誕生したばかりの教会は、
歴史的イスラエル のすぐ隣に存在していたのであり、
両者は明確に区別されていた。

契約神学者の一部は、
ローマ9:6をもって霊的なイスラエルがクリスチャンのことである
と主張するのであるが、

注意深くここを読むならば、
信者であるユダヤ人と
信者ではないただの民族的ユダヤ人とが
「霊的」と言う語によって区別されたものである事が分かる。

 「6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。
なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、
「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。」
(Rom 9:6-7)

次に文脈を再度確認して見よう。

パウロはユダヤ主義者によって誤った福音が導入されたガラテヤの教会を
矯正するためにこの書簡を書いているのである。

彼らはモーセ律法に従い、
割礼を受けなければ救われず、
救いの維持もないと教えて、
大きな混乱を与えていた。

パウロはその点を論ずるに当たって、
当時のイスラエルと異邦人という
明確に区別されていた民族グループを
意識しないでおくことはできなかったのだ。

恵みの選びによって教会内にレムナントと呼ばれるユダヤ人信者があった。

パウロは、ユダヤ人とギリシャ人、
女性と男性、
自由人と奴隷、
こうした区別を教会内で認めているし、識別している。

パウロが言っている「キリストにあって一つとなる」というのは、
性別や社会的相違を同化する事でなく、霊的な事柄であったはずである。

同様に、異邦人とイスラエルの民族的相違は歴然と教会時代も存続するのである。


③神学的理由から

イスラエルが教会と同一と見なされた記録は
どこを探してもAD160以前には
一つも発見されていない歴史的な事実がある。

パウロ時代から1世紀も経ているのに、
それらが同じものと考えられていた形跡が無かったことになる。

「神のイスラエル」との表現はおそらく
「肉によるイスラエル」(1コリント10:18)
と対照となっている語であると言えるのではないか。

つまり信仰のイスラエルと
不信仰のイスラエルが対比であり、

ローマ9:6でパウロが論じている二つのイスラエルである。

両者は共に民族としてのイスラエルではあるが。

この見方は文法上の理由から支持される。

Kaiは通常順接接続詞として「〜と」と訳されるべきものであり、
その一般的な用法を無視しなくてはならない理由はここにないのである。

さらに釈義からも支持される見方である。
「イスラエル」の語は、
パウロにとって常に自己を包含している民族的な概念である。

ここでパウロが攻撃型の激しい論調調子の書簡を締めくくるにあたり、
その結論もまた、鋭くユダヤ主義者たちを意識したものとなっている。

彼の通常の書簡の締めくくりには出現する感謝の言葉が
ここで忘れ去られているほどである。

同時にパウロは
忠実な信仰のイスラエル人への祝福の言葉をも忘れることはなかった。

彼らは、
人の功績が何ら役に立たず、
ただ神の恵みのみが贖いを完成させると理解していて、
巧妙なユダヤ主義者に追従し負けることの無かった人々であった。

彼らこそ偽りのイスラエルでなくて、
「神のイスラエル」であり、
他の箇所では
「恵による選びゆえのレムナント」
(ローマ11:5)
とも呼ばれる人々である。

神学的に見ても、
一つの神の民の中に二つの要素(異邦人とユダヤ民族)
があると教えていることから支持され得るのである。

ローマ11章はこの二つの組織体の相互関係を扱ったものであった。

族長達と交わされた偉大な無条件契約が
今日までどのように推移して来て
将来にどのように完成されるかが記されてあるところである。

こうしてみるならば、
ガラテヤ6:16には、
二つの組織体が意識されたものであると結論できる。

つまり、
「この基準に従って進む人々」=異邦人信者
     (と=KAI=AND)
「神のイスラエル」=ユダヤ人信者
の二つである。


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