ガリラヤ湖
イスラエルとキリスト教会❽〜新約聖書での「イスラエル」用法について
契約神学という流れにある人々は、
新約聖書で教会が新しいイスラエルになったのだと言う。
この二つの用語が相互に交換できるものであるとしている。
果たしてそうであろうか
新約聖書では73回、
イスラエルという語が出現している。
聖書の各書に出現している、代表となる聖句を一つずつだけ取り上げてみる。
Matthew 2:20
「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。
幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」
:家族がイスラエルの土地に帰って来たという地理的な名称に過ぎない。
Mark 15:32
「キリスト、イスラエルの王さま。
今、十字架から降りてもらおうか。
われわれは、それを見たら信じるから。」
また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。
:イスラエルの王としてイエスが嘲弄された
Luke 4:25
わたしが言うのは真実のことです。
エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、
全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、
:エリヤ時代のイスラエルにいたやもめに対する歴史的な言及である
Acts 2:22
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。
神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で
力あるわざと不思議としるしを行われました。
それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。
これは、あなたがた自身がご承知のことです。
:ペテロは不信仰なユダヤ人会衆に対して呼びかけているもので、
これが教会であるはずがない
Romans 9:6
しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。
なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
:パウロは二つのイスラエルを対照させている。
一つはイスラエル全体であり、
もう一つがその一部である信仰のイスラエルである。
1 Corinthians 10:18
肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。
供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。
:「肉の」イスラエルとは、国家的・民族的イスラエルのことである
2 Corinthians 3:7
もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、
モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、
イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
:モーセ時代のイスラエル人の子供達への歴史的な言及である。
Galatians 6:16
どうか、この基準に従って進む人々、
すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
:「神のイスラエル」とあるこの箇所が、
契約神学にある全ての人達に共通して
教会がイスラエルと呼ばれる根拠であるとしている。
Ephesians 2:12
そのころのあなたがたは、キリストから離れ、
イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、
この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
:「イスラエルの国」とは、「異邦人」と区別され、
「新しい一つの人」=教会とも区別されている。
Philippians 3:5
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、
ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、
律法についてはパリサイ人、
:パウロの出身の言及であって、民族的イスラエルのことである。
Hebrews 11:22
信仰によって、ヨセフは臨終のとき、
イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。
:民族的イスラエルの歴史的な出エジプトのことである。
Revelation 7:4
それから私が、印を押された人々の数を聞くと、
イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、
十四万四千人であった。
:これは、イスラエルの12部族のことである。
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