モーセ律法は有効か〜その1
9月
13日
と教えていることに疑問の余地はない。
換言するなら、
モーセ律法は新約時代を生きる現在の誰に対しても強制力を持っていない。
今後、このことを新約聖書自体の7つの証言から検証して行く。
❶ローマ7:1〜6
「1それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか
--私は律法を知っている人々に言っているのです。--
2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。
しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。
3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。
4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、
律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
6 しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」
夫が死亡すれば妻は未亡人となり、
「夫に関する律法」から自由になれる(1〜3節)
その女性は自由に再婚できるようになり、
姦淫の罪を犯すことにはならない。
なぜなら、夫の死は夫に関する律法から彼女を解放したからである。
この説明を終えたあとでパウロは神学的適用に入る。
その適応でも、ある人の死が話題となっている。
それは、メシアの死である。
信者はメシアの死によって、
「キリスト(メシア)のからだによって、律法に対しては死んでいる」者
と見なされているのである(4節)。
前章でパウロは信者はキリストと合一された者だ、
キリストの死と葬り、また復活に与った者なのだと言っている。
「3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。 」(ローマ 6:3-5)
ゆえにキリストの死は、
私達信者を死んだ者とするという理屈である。
何に対して? 律法に対して死んだものとするのである。
「そのように思いなさい(計算しなさい)」ローマ6:11
と結論付けられている。
ここで死んだ者とされるの相手は「律法」でなくて「罪」であると書かれている。
しかしこの文脈では「律法」が「罪」を意識させる、つまり生じさせると論じられているので、同格扱いにできる。
罪の性質は、
それまでのように律法を活動拠点として働けなくなっている(5節)。
罪は律法を橋頭堡のようにして私たちのうちに侵入し、
やがて私達を完全制圧する、と言うのが
罪に至る人間心理を巧みに描写しているパウロ神学の真骨頂である。
「7ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
11 それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。 」(ローマ 7:7-11)
上記の聖句に2回ほど現れる「機会」という原語は、
「アフォルメイ」というもので、
それは"Base of Operation"(橋頭堡)を意味する軍事用語である。
こうして厄介な「律法に対して死んだので、律法から解放されている」(7:6)
との結論に至る。
人は、律法かメシアかのどちらかに結ばれなくてはならず、
両方と結ばれることはできないのである。
モーセ律法の下に生きるか、
新しい契約によってメシアの律法の下に生きるかの
どちらかである。
二者択一は、この結婚の例えから明白である。