モーセ律法の統一体
9月
12日
聖書はモーセ律法を一つにまとまったものとして扱っていることを
確認することから始めたい。
「律法」を意味するヘブル語は「トーラー」である。
もしそれがモーセ律法を指す場合、
聖書では必ず単数形で用いられていて、例外はない。
モーセ律法には613の命令があるが、必ず単数系で使われている。
新約聖書で律法を意味するギリシア語は「ノモス」であるが、
同様にして必ず単数形で用いられている。
モーセ律法を道徳法、市民法、祭儀法と3分割するのは、
多種多様の命令を理解する勉強の助けにはなるだろうが、
聖書自身にそのような分類はなかったし、ユダヤ教ラビの伝統にもなかったことだ。
多くのクリスチャンが信じているように、
613ある命令から十戒だけを取り出して、
これだけは今も有効であるとする主張にも何ら聖書的根拠がない。
613の全ての命令が集合して、モーセ律法という統一体が成立しているのである。
聖書自身の証言を見てみよう。
「 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、
その人はすべてを犯した者となったのです。
なぜなら、「姦淫してはならない」と言われた方は、
「殺してはならない」とも言われたからです。
そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、
あなたは律法の違反者となったのです。」
(ヤコブ2:10-11)
ここで言わんとしていることは明白である。
613ある命令のどれか一つにでも違反したら、
モーセ律法全てに違反したことになる、との教えである。
これはモーセ律法が統一体であることを前提にして初めて成立する論理である。
市民法のどれか一つに違反したら、
その人は祭儀法にも道徳法の全てにも違反していることになる。
分かりやすく説明してみよう。
もし人がイカの寿司を食べたとしよう。(鱗のない魚は食物規定に違反する)
その時、その人は十戒の全てを犯したことになる。
十戒は寿司について何も言っていないが、
律法は分割できない一体性のものなので、
613の一つを破れば全ての613の違反者として責められるのである。
これは通常の世界にはない事例であるかもしれないが、
それがモーセ律法に対する聖書の論理である。
モーセ律法と我々信者の関係を論ずるには、
聖書が見るように律法を理解しなくてはならない。
つまり、律法のある箇所を指して
今でも有効なところ、別の箇所は無効となっている箇所だ、
というように分割できない統一体として見るということである。
また十戒のように律法の一部だけを取り出して、
これは他の603とは別格で今日でも有効であると主張することもできない。