モーセ律法
⑴序論
本日からしばらく、モーセ律法についての論考を書きたく思う。
私がどこへ行き、何を食べたかという、いつものお手軽な執筆はしばらくはお休みとなる。
キリスト教の専門性の高い話題となるが、読者の皆様にはお忍びいただきたい。
ここに著す多くの部分は、
アーノルド・フルクテンバウム博士による
"The Remnant Of Israel (Ariel Ministries)"
によるところが大きい。
フルクテンバウム博士は、
イエスを信じているユダヤ人団体の世界的権威であられ、
これまでにその講演や著作を通じて開眼を与えられて来た。
博士の聖書に対する姿勢は、
私の聖書信仰を試し、
揺さぶるものであった。
博士の聖書解説は、
私の聖書観の根底を変えた。
説教のスタイルまで変えるものとなった。
今後、博士の著作から学んだことを紹介して行きたく考えているが、
特に私自身が「目からウロコ」の衝撃的な経験となった、
聖書の深堀から探し当てた宝をお分かちしたいと思う。
紀元前2千年以来の重厚なユダヤ文化の内側から聖書を読み解く視点は、
我々異邦人が逆立ちしても追いつけないものだ。
第1回目シリーズとして取り上げたいトピックスは、
モーセの律法についてである。
我々クリスチャンと旧約聖書の関係、と言い換えることもできる。
モーセ律法は、狭義としては旧約聖書の最初の5つの書で、
創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指している。
これらはモーセが著作であるとの伝承があり、
旧約聖書39巻中、最も権威ある書である。
それゆえ、ユダヤ人においては「モーセ律法」は
広義的に旧約聖書全巻を指す言葉としても用いられてきた。
新約聖書においても、そのような扱い方が見られる。
さて、このモーセ律法、つまり旧約聖書は
どの程度現在のクリスチャンに拘束力を持っているのだろうか。
今も有効な権威の書なのであろうか。
このような疑問を巡る背景には、
私達が西洋神学から受け継いできた2つの考え方がある。
一つは、モーセ律法を道徳法、市民法、祭儀法の3つに分類する考え方。
市民法と祭儀法はすでに過去のものとなり、
私達が守るべきものでないが、
道徳法は今も将来も有効な権威であるとするものである。
旧約聖書の道徳的な教えは、今も守るべきと考える信者は多い。
もう一つは、
モーセ律法を十戒とその他のすべての律法とに分けるもので、
十戒だけは現在も有効であるとするものである。
モーセ律法は613の命令からなるが、
603が無効となったとするクリスチャンも多い。
十戒は有効であると主張するその人が、セブンスディ・アドベンチストの信者に
「安息日を守れとのモーセ律法の第4戒をあなたは守っているのですか」
と問われると、たちまち返答に窮してしまう。
土曜日が安息日であった当時の暦を守っている彼らから見れば、
日曜に礼拝をしているクリスチャンはモーセ律法に従っていないことになるからだ。
このように新約聖書時代に生きるクリスチャンが
モーセ律法とどう折り合いをつけていくのか、
という点は大問題である。
ところが、ほとんどのキリスト教会でこの問題に整理ができていないままであるのが実情でもある。
モーセ律法について聖書自体が何と言っているか、
今後検証して行きたい。
結論だけを先に言えば、先述の二つの考え方は大ウソである。
それらはユダヤ的背景を離れたキリスト教が、
異邦人神学者によって勝手に分類したものであり、
聖書本来の指向とはかけ離れたものである。
新約聖書と旧約聖書との関連付けというテーマ、
この基本中の基本概念も、
ユダヤ的な視点を持たずに紐解くことはできない。
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