お客様は神様か??
4月
19日
皆さん、こんばんは。
今日もお元気でお過ごしでしょうか。
先週、サンフランシスコでは多くの友人たちとの出会いがありました。
今日はそのお話です。
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■ 日本式接客法
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その日も、サンフランシスコ・ユニオンスクエアで
ビジネスを営む友人たちから大歓迎を受けました。
ところで、
「お客様は神様です」
そのように日本では言われてきました。
神様にに対するように恭しく丁重にお扱い申し上げて
たとい理不尽な要求があったとしても
腹にグッと抑えて笑顔を絶やさず……
お客様は、福をもたらす神様なのだから。
そのような接客倫理が一般的にまかり通ってますね、日本国内では。
いやはや、この米国でも実は日本人の運営する商売の現場は、そのようなものがまかり通っているのです。
時には、国内よりもハッキリとした色彩を帯びるほどに。。
一見すると、それらは質の高いサービスのように見受けられます。
しかしながら、それではどこまで行っても「裏・表」、「本音と建前」の世界から抜け出ることはなく、
「友人」関係には到底至りません。
帰国するたびに感じること。
ホテルマンやエレベーターガールの腰を曲げての慇懃なご挨拶。
決まり切ったフレーズを流暢に繰り返すのは良いが、
マニュアル以外の現場のニーズにどこまで応じることができるのか?
いや、
とっさなニーズに応じようとのサービス意欲は、
日本式接客法から引き出せるものだろうか?
商売でも芸事でも何事においても定められた「形」があり、
先ずはその形に問答無用に自らを当てはめる。
「外」にあっては、ことごとくその「形」なるものに追従せねばならず、
それを様式美として洗練させたものが日本文化であるとすると、
それらはフィクションに過ぎず、何ともお寒い空洞が「内」に残ることになる。
そんな「内と外」の使い分けは室町時代から始まり……
オット、オット、おっとっと、、、
細部に入りすぎるので、その話はこれ以上進むませないことにします。
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■ 米国西海岸の接客法
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米国では、その「内・外」、「主人・各人」を分け隔てる壁は小さく、相手によって敬語を使い分ける必要もない。
そもそも英語には、日本語にあるような微妙な敬語変化はない。
米国といっても、欧州の気分を多く引きずっている東海岸よりも、こちら西海岸ではその傾向が強い。
いわば西は、生粋のアメリカン。
この日に会った30歳ほどの男性ですが、
5年ほど前から私の顧客となってくれていて、
心地よい付き合いの続く中で、すでに「友人」の領域に入りつつある。
私の顔を一目みるなり目を釣り上げて、彼は上ずった声で言い放った。
「一体、どこに行っていたんだ?!」
私 :「………」
「俺にはお前が必要なんだ。
ようやくお会いできてサイコーだよ! キョウ・トウ!!」
私の名前をそこまで覚えてくれているだけでありがたい。
私は彼の名を完全に忘れてしまっていた。
過去数ヶ月間の互いの消息を交換し合いながら
他愛のない会話が続く。
彼の名前を思い出せないのは実に不便であったが、
今更聞くわけにもいかない。
友人なら名前を忘れるなんてご法度だ。
彼のように私を期待して待っている人がいる限り
他州までの遠征が続けられる。
もはや、収益が理由とはならない。
人の役に立てれることは、己の魂を揺さぶられることである。
それはすなわち、神に仕えることである。
顧客自身が神になるのではない。
顧客もビジネスマンも等しく見上げる絶対者(神)がいるので、
互に対等の立場に位置し、友人となり得るのだと思う。
最後に聖書のお言葉をお贈りします。
8 私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、 私はゆるぐことがない。
9 それゆえ、私の心は喜び、 私のたましいは楽しんでいる。
私の身もまた安らかに住まおう。 (詩篇 16:8-9 )
今日も皆様お一人ひとりの上に
豊かな神様の祝福がございますように。
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