知恵シリーズ①主を恐れる
5月
6日
箴言1:1-10
イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。2 これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、3 正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、4 わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。5 知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。6 これは箴言と、比喩と、知恵のあることばと、そのなぞとを理解するためである。7 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
今週から箴言をシリーズで学んで行きたいと思います。箴言とは、教訓とか戒めという意味ですが、箴言は、私がまだ若く、救われて間もない時に、繰り返し毎日一章読んだ書です。この書は、全部がソロモン王が書いたものではありませんが、ソロモンの知恵の書として親しまれています。
★著者ソロモン
ソロモンは、若くして王になりました。彼の有名なお話しの一つに、神に知恵を求めたということです。神は夢で、ソロモンに「何が欲しいか、願え」、と言われました。ソロモンは民を治めるために知恵をください。と願い、それは、神の御心にかなっていた。そして、本当にソロモンに知恵が与えられ、国は栄え、平和を保ちました。
ヤコブ1:5
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。If any of you lacks wisdom, you should ask God, who gives generously to all without finding fault, and it will be given to you.
これは、試練の中にある人たちに向かって語られた言葉です。試練の中でそれをどう乗り越えたらいいのか、分からない人、どう一つ一つ実際的なことに対処していったらいいのか、分からないなら、神に知恵を求めなさい。必ず与えられます。ということです。
★知恵とは
知識と知恵の違い、1コリントの霊の賜物のところで前に話しましたが、聖霊の賜物でも知識の言葉と知恵の言葉があります。その違いをこのように、話しました。
知識は、ファクト、事実。聖霊の賜物ですから、例えば、祈られている本人しか分からないことなど、また、今の状態などについての言葉です。例えば、誰かのために祈っている時に、ポルノグラフィという言葉がでてきたとします、それだけ、頭に与えられても、それがどうその人の益になるように祈るか、が分かりませんね。もし、ポルノと言ったら、その人が非常に恥に思い、傷つくかも知れません。その時に、知恵がいります。神様、この与えられた言葉に対して、どのように祈ったらいいでしょうか。と。すると、あなたは、とても親密さに心が向いているようですね。とか、あるいは、神様は、あなたを聖さに召しておられます。といった風に祈りなさいと言われるかもしれません。これは、実際にパスターダックが与えられた状況ですが、ダッグは、聖さについて祈ってあげたそうです。すると、その人は、泣き崩れ、悔い改め、解放されたそうです。
◎知識、とは、情報です。知恵は、その情報を実生活の益のために活用することです。情報ばかりあっても、いくら優れた難しいデータを持っていても、それを自分を含めて誰かの益のために使えないなら、意味がありません。
★箴言の目的 1:2-6
To know wisdom and instruction, 2 これは、知恵と訓戒とを学び
To perceive the words of understanding, 悟りのことばを理解するためであり
To receive the instruction of wisdom, 思慮ある訓戒を体得するためであり
Justice, judgment, and equity; 正義と公義と公正と
To give prudence to the simple, わきまえのない者に分別を与え
To the young man knowledge and discretion—若い者に知識と思慮を得させるためである
A wise man will hear and increase learning, 知恵のある者はこれを聞いて理解を深め
And a man of understanding will attain wise counsel, 悟りのある者は指導を得る
To understand a proverb and an enigma, 箴言と、比喩と
The words of the wise and their riddles. 知恵のあることばと、そのなぞとを理解するためである
悟りを理解、モラルを体得、愚か者に分別を与え、未熟者に知識と示唆を与え、知恵がすでにあるものには理解を深め、悟りのあるものは指導を得る。
人は、何かを軸にして物事を判断していますが、そこにはいろいろな要素があります。ここにあるように、正義、公義と、公正とありますが、この判断というのは育ちや文化によっても違いますし、誰に従っているかでも違ってくるものです。
昨日、インターネットで、アメリカの司法は、真実やモラルを基準にして裁きが行われるのでなく、むしろ、法廷で真実を作っていくのだ、形作れた方が裁判に勝つ。一方、日本は、良心であるとか真実、モラルを中心に裁きが鑑みられるのだそう。アメリカは、様々な民族や考え方を持つ人が住んでいますが、日本は、もともと単一民族ですから、そんなに意識の違いが無いという土壌であるがゆえにそれが一定のモラルの一致があるからなのでしょう。また、基本的人権の捉え方も違っていますね。
しかし、私たちは、誰に従って、物事を判断し、行く道を決めていくのでしょうか。
◎いくら優れた知識をたくさん持っていても、モラルが無ければ、いくら自分や誰かの益のために用いようとしても、間違ってしまうのではないでしょうか。
★知恵に先立って一番大切なこと
箴言1:7
主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。The fear of the Lord is the beginning of knowledge, but fools despise wisdom and instruction.
はじめ-- the first, in place, time, order or rank (specifically, a firstfruit):—beginning, chief(-est), first(-fruits, part, time), principal thing. 一番、時間も場所もランクも一番という意味です。
ということは、主を恐れることは、何にも増して一番大切な知識である。愚か者は、一番ができないのだから、二の次に並ぶ全ての知恵と訓戒をさげすむというのです。
知恵についても、次のように箴言では語られています。
箴言9: 10
主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。The fear of the Lord is the beginning of wisdom, and knowledge of the Holy One is understanding.
主を恐れることこそ、何にも増して、一番の知恵である。聖なることを知ることは、全てのことを理解する鍵であると。
◎すなわち、知識もそれを適用する知恵も、全て、神を恐れることから始まるのだ。そこからスタートしなければ、他は分からないというのです。
★主を恐れる
主を恐れるというのは、主を怖がることと違います。怖がるのは、裁きを受ける理由があるから怖がるのであり、恥があるから怖いと思うのです。
ここで言うのは、畏敬の念です。
主を恐れるということは、
神の愛していることを愛し、神の嫌っていることを嫌うことです。
それが、神を愛し、神の教えを尊敬している姿勢です。
これは、関係です。お勉強では、神の愛していることや憎んでいることを同じようにできません。神を愛し、繋がっていなければこのような忠誠は尽くせないのです。
あなたの愛している夫や妻を裏切れないのと同じことです。
(クリスチャンになって浅い人は知識が少ないかも知れません。でも、知っていること全てに忠誠を尽くしているかもしれません。信仰が長く知識が多くても、適応する知識を間引いているかもしれません。)
◎私たちの持っている神との関係の中でいいですから、考えてみましょう。
神の愛していることは、何でしょう。
神の嫌っていることは、何でしょうか。
私たちのうちに、知識が欠けているところはありますか。
また、知識が有り余っていても、適用せずに、そのままにし、自分を正さないでいることはないでしょうか。。。。。
今週、主を恐れることについて瞑想しましょう。