失った一匹の羊
9月
4日
ルカの15章は、聖書の中の福音の中の福音と言われている箇所です。神様の良いニュース。神様の救済のエッセンスが込められています。三つの失ったものがでてきます。今日は、はじめの二つから。
ルカ15:1-10
1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、6 帰って来て、友達や近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。8 また、女の人が銀貨を十枚持っていても、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。9 見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」
★ 罪人と食事をするイエス様
先週は、取税人ザアカイの話しでしたが、今週のルカ15章は、イエス様がそんな取税人や罪人と食事を一緒にしているということで、パリサイ人、律法学者たちがイエス様を責めて詰め寄っているシーンからです。
◎ 当時、ユダヤ人たちは罪人と言われる人たちと付き合いをしないようにしていました。ですから、イエス様が罪人たちとハングアウトしていることが大きな信仰の躓きとなりました。イエス様のような行動をするということは、神の心が分からない人たちをますます神から話す、分裂をもたらすことがあります。このシーンでクリアに私たちには理解できます。日常の中で、注意してください。分裂、人が信仰を持てなくさせたイエスが悪いのだろうか。それとも、躓いてしまうパリサイ人たちに問題があるのだろうか。真理が必ずしも、人に歓迎されるとは限らない。。。
◎ パリサイ人たちは、罪人と取引、ものの売買をすることを禁じていた。そういう人たちと交われば、自分が汚れると考えた。また、ラビたちは、そういう人たちに神の言葉を教えなかった。しかし、イエス様は、ラビであるが、彼らと親しくしていた。これは、衝撃的なことであった。
◎ 私たちも少し、立ち止まって考えてみたい。つばは、口の中にある時には、雑菌を殺すいいものである。唾液は、たくさん出ている方が虫歯になりにくいともいわれている。しかし、一旦、口の外に出ると、侮辱の意味があり、人は、汚いと感じ、そのつばに触れたくないと思うものであります。
罪人も、そのようなものかも知れません。。。。続いて、イエス様は次のような有名なたとえ話をされます。
★ 羊飼いの話し
羊飼いは、一匹の迷子の羊を、99匹を置いても探しに行くというお話し。
◎羊とは
羊は、聖書で人間に例えられる。よく似ている。視力が極端に弱く、先が見えにくい。人間も、将来のことが見えない。自分の身の周りのことだけで精いっぱいです。野生の羊はいない。必ず、羊飼いに飼われないと生きていけない。人も、誰かに世話されないと人間として育たない。これは、赤ちゃんとしてもそうだし、霊的にもそうです。霊的な育ててくれる、一緒に歩いて教えてくれる先輩がいないと、霊的な成長はありません。一匹オオカミはいても、一匹羊はいないんです。一匹羊でやっていきますと言っても、牙や、強い角があるわけでもない、目の見えない羊が、猛獣に勝てるはずがないのです。
当時、イスラエルは、青々と茂る牧場で羊を飼っていたわけではない。ちょろちょろと生える岩間の草を食べるのです。けれども、羊飼いが食べ物のある所に連れて行き、水を飲ませるのです。私たちの詩編23篇で想像するような、ハイジのような世界ではないのです。すぐ先は、がけ、すぐ砂漠がある。など、結構危険なところで生きていたのです。ですからこそ、羊飼いなしでは、羊は命の危険にさらされるわけです。
よく考えてみたら、私たちの人生のようです。一難去ってまた一難。楽な人生を送っている人が果たしているのでしょうか。試練の無い人はいないのです。
◎羊は、群れでいる時安全であり、守られる。右向け右で、団体行動をすることもあって、守られる。また、臆病で、目の見えない羊は団体行動に向いている。逆に言えば、極端に孤独に弱い。一匹群れから離れると、パニクッて余計に逆の方向に行ってしまったりと、一人よがりにどんどんあてずっばの場所に行ってしまい、ますます迷ってしまうそうだ。なんだか。。。自分のことを言われているみたいですね。ですから、失った羊という、失うというのは、迷子の羊というより、滅びの、という意味があるそうです。ですから、まさに、群れから外れるということは、滅びの道に向かうということでした。
◎羊は、村全体の財産で、二、三人の羊飼いたちが羊を連れて行っていたそうです。羊一匹一匹に名前を付けて、大切にしていました。もしも、一匹死なせようものなら、相当な責任を問われたそうです。その羊の毛を刈ってなぜ死んだかしっかりと説明する義務がありました。
◎羊飼いは、羊を肩に担いで帰る。はぐれた羊は、パニックになっているので、羊飼いが肩に担いで、全面的に運んであげる必要があります。私や、みなさんにも、そのような経験があってこそ、今ここに存在ているのではないのでしょうか。
人生のどん底、自分の力でどうしようもない時、奇跡が起こって、神様がまるで、持ち運んでくださって、安全なところに自分を運んでくださった。というような。私も、思えば、そんなことがたくさんあって、今日生きています。救われた時は、もちろん、バーンアウトして鬱になったときも、自分が死んだような時、迷い切ったときに、自分を担いでもとに戻してくれたのが、神様でした。
救い、軌道修正はいつも、イエス様の一方的な恵みです。
◎羊飼いが羊を担いで帰って来ると、村全体が大喜びして迎えたそうです。そうです。失ったもの、滅びようとしていたものが帰ってきたのですから。。。。
イエス様の恵みによる救い、帰村は大変な喜びをもたらします。
どうして羊飼いなるイエス様は、一方的な熱心な愛で、迷い出て滅びに向かう私たちをそんなにも必死に探してくださるのでしょうか?
そこで、イエス様は続いて、二つ目のお話をされます。
★ 二番目のストーリー、銀貨の話し
自分の銀貨がなくなったら、えらいことです。私たちも例えば、家に10万円あって、一万円足りなかったら、血眼になってその一枚を探すのではないでしょうか。
価値のあるものであることが一つ、また、自分のものであることが一つ。人のものだったら、そんなに必死にはならないでしょう。でも、あなたの大切な宝物がなくなったら必死になるのです。
また、それがどうしても必要だったから。目的があって、10枚あったのでしょう。目的のない銀貨はありません。当時のパレスチナ、10枚の銀貨で髪飾りを作り、それを今でいう結婚指輪の代わりにし既婚のしるしとして身に着けたそう。せっかく結婚の用意ができたのに、せっかく苦労してためた10枚の銀貨がなくなっては困ります。
God says, “you are mine.” You hold God’s purpose.
★ 今日、覚えていただきたいことは、あなたは、神の大切な存在。神に属する存在です。次のたとえ話ににもあるように。あなたは、大切な神の子供です。また、あなたには、価値があります。そして、あなたの人生には、目的がはっきりあります。
ですから、イエス様は、探さずにおれない。
どこまでも、見つけに行く、危険を冒して、険しい崖も、くらい夜道も、くまなく探すのです。神の、熱い熱心。愛。が、あなたを探したのです。
私たちは、群れから離れては、生きて行けません。一人ではどんどん違う方向に行ってしまうのです。野獣がいつでも襲って、食べられても仕方がないほど弱いそんざいなのです。ですからこそ、互いに集まることをやめてはいけないのです。
イエス様は、だから、熱心に罪人を探し、訪問し、友達になり、食事を一緒にしていたのでした。滅びないために。
イエス様は、今日もあなたを探しておられます。
イエス様は、今日もあなたを担いでくださいます。自分で解決できない、力がないと思うなら。
★ 私は、もとホームレスの人で今は、ホームレスから立ち直り中毒症から立ち直ろうとしている人たちを助けている人に会いました。この人にイエス様を見ました。その、熱心さ。決してあきらめない姿に。自分も、見つけられたから。彼女も見つけるんだ。。。。と思いました。イエス様のその熱心に私たちを求めてくださる、その愛に今日立ちかえりましょう。あなたは、一匹の羊です/でした。