ロマ書14章 キリスト者の姿勢
3月
6日
ロマ14章 Romnas 14
★姿勢[1] 裁かない Attitude 1) Non-judgemental
1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。Receive one who is weak in the faith, but not to disputes over doubtful things.
仲間か? 敵か? Us or not us?
聖書は、その人の信仰を受け入れなさいと言っているのではなく、信仰の弱い、その人を受け入れなさい、と言っています。
私たちは、自分と違うものを排斥しようとする思いにかられるあまりに、その考え方に迎合しないようにと思うばかりに、他者を交わりから締め出す傾向にある。
つばは、体の中にあっては良いもの、自分の身体の一部であって汚いとは、普段思わないが、いったん体の外にでると、汚いものとなってしまう。
調度そのように、自分の内か外か、自分の側か、味方か敵かのようになってしまう。
先の大統領選もそうだった。互いの支持者をデーモナイズしてしまう傾向にあった。トランプ支持者を見つけると、じゃ、あなたもセクシストか、レイシストかと言われてしまうので、支持者は隠れていたのだ。
キリスト教界でさえも、少しの違いだけで、相手をデーモナイズしてしまうことがある。私も聖霊派というだけで、貴子さんの教会にはいかないように、とふれられたことがあった。
これらの分裂は、すべて私たちの心の中の「裁き」から来ているのです。気を付けてください。レッテル貼りも裁きの一種です。あの人は、こういう人だから、などというものも同じです。自分の心を吟味したいものです。
そして、拒絶し、分裂をもたらすものではなく、受け入れるものでありたいものです。
パウロは、具体的な例をもってどんなことで互いを受け入れられなかったか、ということを上げています。2-3節
〇 肉食 Eating meat…当時は、肉といえば、偶像に捧げられていた。買うものとしては、どの肉が捧げられたものかがわからないので、もういっそ肉を食べないことにしていた人もいた。
日本でも、偶像、仏壇にお供えしてから、食べ物を食べる仏教的な風習があります。一度、お寺さんに夕食に招かれた時、冷や汗がでました。大きな仏像の前に備えた大量のお肉をお坊さんが持ってきたのです。けれども、「口から入るもので人を汚すものはない」と聖書に書いてあるので、食べ物を祝福し、家庭を祝福する祈りをさせていただいて、彼らも、仏式のお祈りをされて、ともに、おいしくすき焼きをいただきました。そのおかげて、今でも親しくさせてもらっています。
あの時、裁きの心から、そんなものは食べれません、と言っていたらどうなっていたでしょうか。
〇 日 A Day… また、ユダヤ人たちは、もともとの安息日の風習に従って集まっていました。が、新しいクリスチャンたちは、毎日集まってパンをさき、交わっていました。人々のあいだでは、ある日が、ほかの日よりも勝っているというような論議があったようです。
今の時代に聖書を読めば、こんなくだらないことで。。。と思うかもしれませんが、今の私たちの中にも、形を変えてそういったことがあるはずです。
★ あなたも私も、みな贖われたしもべ、主のもの You and me are redeemed servant of the Lord.
4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。Who are you to judge another’s servant? To his own master he stands or falls. Indeed, he will be made to stand, for God is able to make him stand.
7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。7 For none of us lives to himself, and no one dies to himself. 8 For if we live, we live to the Lord; and if we die, we die to the Lord. Therefore, whether we live or die, we are the Lord’s.
私たちは、生きても死んでも主のものとなりました。何をするにも主のためとなったのです。ただ、裁くことだけは、間違っています。
パウロは続けて、私たちは皆、キリストに贖われた者たちだ。罪の奴隷だったところから、買い取られたものだ。だから、キリストに属するものになったと言います。大昔、日本でも、おしんの話が分かりやすいですね。借金のためにおしんが働きに行かされる、おしんは売られてはないと思いますが、うられたとしまょう。そこに、イエス様が現れて、その借金を全部おしんのつかえている主人に支払いました。そうすると、おしんはイエス様のものになります。おしんは、前の主人に属するものでなく、イエス様ものになりました。
パウロは、私たちはみんな、そのようなものだと言います。ですから、誰かを裁くことは、誰かのしもべを裁くことで、あなたの仕事ではないというのです。その人が裁かれるときは、その主人がちゃんと裁くからです。
★姿勢[2] つまづきを与えない Attitude 2) don’t stumble others
Be considerate to others. 他人への配慮
13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。13 Therefore let us not judge one another anymore, but rather resolve this, not to put a stumbling block or a cause to fall in our brother’s way.
14 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。I know and am convinced by the Lord Jesus that there is nothing unclean of itself; but to him who considers anything to be unclean, to him it is unclean. 15 Yet if your brother is grieved because of your food, you are no longer walking in love. Do not destroy with your food the one for whom Christ died.
例example;
聖書の中に、はっきりと書かれていない事柄があります。例えば、お酒やたばこなどといったことが、時々、クリスチャンになる前の方から質問を受けることがあります。パウロは、まず、他者に配慮をしてやりなさいと言っています。
例えば、お酒の中毒で苦しんで、教会に癒しを求めてきた人があって、兄弟がお酒の話ばかりし、お酒を飲みに行こうと誘うならば、その人の人生にとって躓きとなります。また、愛にねざしていないら、益とはなりません。ある人が、信仰に従ってしないことは、尊重するべきです。愛によって行動しましょう。せっかく、神様に導かれている人を、飲み食いのことでキリストから遠ざけるようなことがないように、配慮しましょう。
★ 神の国は、義と平和と聖霊の喜び The Kingdom is righteousness and peace and joy.
17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。for the kingdom of God is not eating and drinking, but righteousness and peace and joy in the Holy Spirit.
それよりも、私たちは、義と平和と、聖霊の喜びを重視するべきです。
義は、イエス様との関係。日々、赦さているか、イエス様と関係を保っているか。平和、隣人を赦しているか。和解しているか。和解に努めているか。喜び。毎日喜びがあるか。困難を乗り越えるとき、神様に一歩一歩従うときに喜びが増し加えれます。喜びは天の報酬だからです。毎日、助け主聖霊様に頼って、喜びが増し加わっているでしょうか。このようなことにこそ、心を傾けるべきです。
★ 罪かどうかは、あなたの心の問題 Your heart will decide if that is a sin.
23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。But he who doubts is condemned if he eats, because he does not eat from faith; for whatever is not from faith is sin.
結局のところ、聖書ではっきりと示していない事柄対しては、自分の心がそれを罪に定めているのです。もしも、これは、してはいけないけど、今日はやってしまおう。。。ということでこそこそやるなら、もうその時点でそれは、罪です。本当は、聖書によると罪ではなくても、罪です。それは、あなたの心が罪を犯す心になっているからです。ですから、信仰から出ていないものは、みな罪だとパウロが言っている通りです。
ぼ