信じるなら。。。If you would believe (第七のしるし)
1月
19日
ヨハネ11:1-45 有名なラザロのよみがえりの奇跡
今日は、いよいよヨハネの福音書七つのしるしの最後となりました。箇所は、ほぼ11章全部で長いので、みなさんで読みながらお話しをすすめていきたいと思います。
さて、今までのしるし、覚えていますか? 水がワインになり、離れている人が癒され、盲人の目が開けられ、水上歩行、五千人以上の給食など。。。どれも人間の力では到底不可能な出来事ですね。今日は、死んで4日たった人が生き返りました。七つの奇跡どれも超自然的としかいいようがありません。七つというのは、ユダヤの文化で完全数です。七つのしるしは、まるでイエス様が念押しして、私たちに、「イエス様と共にある人生は、不可能が可能になる人生である」と繰り返し語っておられるようです。
さて、ヨハネ11章を見て行きましょう。
11:1-6
1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
★神の時について
とても親しい友達ラザロが病気になりました。そして、イエス様は、そのことを知らされてもその場所になおも二日とどまられました。
私たちは、祈りの答えが早く来ないと、心配になります。悩みだしたりします。しかし、イエス様は、重病のラザロを置いて二日もとどまられたと書いてあります。一つ、もう一度覚えていただきたいことがあります。
私たちは、いつも自分の目先の必要を答えて欲しいと祈ります。それが私たちの目的です。しかし、いつもイエス様の側では、その「祈りの課題が答えられる」ことだけではなく、それとともに、そのことを通して「さらにイエス様との関係が深くなるよう」な答え方をされるのです。
今回も、そうでした。イエス様は、人々がもっと益を受けるために、人々がもっと深いことを知ることが出来るように。それをされたのです。
長く祈り続けていたことが叶えられれば、長ければ長いほど、あなたの信仰は強くなります。また揺るがなくなるものです。
★病気について
また、イエス様は、ラザロの病気のことを聞いて真っ先に、「この病気は、死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」と言われました。そもそも、人類に罪が入ったから死が入り、病気が入ったのです。しかし、もはや病気は、死ぬためのものでなくなったとイエス様は、おっしゃるのです。それは、神の栄光のためだと。イエス様が、人類の罪の解決のためにきてくださったからには、もはや病気さえも、神の栄光となるのです。
とうとう、イエス様がラザロの家に行く前に、ラザロは死んでしまいます。
V14-15 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」Then Jesus said to them plainly, “Lazarus is dead. 15 And I am glad for your sakes that I was not there, that you may believe. Nevertheless let us go to him.”
そして、イエス様は、「あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったこひとを喜んでいます。」と言われました。
イエス様は、ご自分のされようとしてることをご存知なのです。私たちにとっては、ちんぷんかんぷんでも。。。。ですから、どんな時にも、神の良い御心に信頼するべきですね。
ラザロの姉妹マルタが、イエス様を迎えました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟はしななかったでしょうに。。。。Lord, if You had been here, my brother would not have died.」と言います。マルタにとっては、もう今更来て貰っても手遅れだと思うわけです。イエス様さえいてくれたら、病気が癒されたのに。盲人も、どんな病気でもイエス様は癒されるのだから。。。。と思ったはずです。
★永遠のいのちについて
イエス様は、答えて言われます。
11:23-27
イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きている時に、イエス様を信じているものは、死んでも生きる。と言われました。
聖書の中に、”罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。” For the wages of sin is death, but the gift of God is eternal life in Christ Jesus our Lord. ロマ6:23
また、”そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、” And as it is appointed for men to die once, but after this the judgment, ヘブル 9:27
人は、死んだら終わりと考える人が多いですが、実はそうではありません。私たちには、死後永遠の世界がまっているのです、そして、永遠の死か、永遠の生かに入るのです。ですから、その前に、人が地上の生活を終えた後、神様の前に立って、生前の行いを裁かれなければならないのです。
イエス様は、このしるしを通して永遠に死なないいのちを教えるために、あえて、人々にラザロの死の悲しみを通されたのです。そして、死を目の当たりにし、人々は人生の意味について考えたに違いありません。
★信じるなら。。。
いよいよ、イエス様は、死んだラザロのところに向かわれます。イエス様は、人がまぬかれることの出来ない死に対して、非常な憤りを感じられ、涙さました。
11:38-41
38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
マルタは思いました。死後直後ならまだしも、もう4日もたって、腐ってきているでしょうに。。。今更。。。と。でも、イエス様は言われました。
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」“Did I not say to you that if you would believe you would see the glory of God?” と。
信じるなら、神の栄光を見る。この病気は死で終わるものではない、神の栄光が現れるためだとも言われました。
ラザロは、葬られた包帯を巻かれたまま、墓から出てきました。ラザロはよみがえりました。ハレルヤ! ラザロは、イエス様によって死に打ち勝ちました! なんという奇跡でしょぅか。人類最大の奇跡ではないでしょうか。
今でも、死人がよみがえった奇跡は、あちこちから報告されています。神様が、同じしるし・メッセージを伝えていらっしゃるのですね。
★このしるしにこめられたメッセージは何か?
イエス様は、なぜ、このようなしるしを見せられたのでしょうか。それは、私たちも、イエス・キリストによって死に打ち勝つことができる。永遠のいのち、死なないいのちに入ることができるという証明です。生きていて、イエス様を信じるものは、神の栄光を見る。この病気は、死で終わるものではない、神の栄光のためだということです。
さて、みなさん、信じるとは、抽象的に感じるでしょう。特に、日本人には漠然としているかもしれません。
こう考えてください。これは、イエス様が十字架に掛かる前、贖いのわざをなさる前のできごとです。ラザロは、イエス様の十字架をのわざを信じて救われたのでしょうか。いいえ、そうではなかったでしょう。
ラザロは、イエス様ととても親しく、愛の通う人間関係を持っていました。
みなさん、信じると言うことは、人間関係を持っているということです。個人的にイエス様のことをよく知っているということです。
あなたは、イエス様のことを信じますか。個人的なつながり、関係を持っていますか? これが永遠のいのちのためには、とても大切なことなのです。他の聖書の箇所で、”わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。” マタイ7
信仰を持つとは、信心するという日本の感覚ではなく、名前を唱える、お経を唱えるというものではなく、イエス様を個人的に知るということなのです。
信じるなら、神の栄光を見ると言ったではありませんか。イエス様を知っているなら、あなたは、必ず、神の栄光を見るのです。
ぼ
投稿日 2016-01-19 08:28
ワオ!と言っているユーザー
投稿日 2016-01-20 03:04
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投稿日 2016-01-19 09:19
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投稿日 2016-01-20 03:05
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