嵐の中で In the Storm
12月
29日
ヨハネ6:15-21
15そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れていこうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。16 夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。17 そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。18 湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。19 こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。
ヨハネ6:29-30
29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。
年末になりました。今年も振り返って神様のよくしてくださったことを一つ一つ数えると本当に感謝がたえません。神様は、私たちの想像をはるかに超えて私たちに良くして下さる方ですね。
さて、今日はシリーズ五回目、ヨハネの福音書の中の七つのしるしのうちの第五のしるしを見て行きたいと思います。このしるしは、五千人の給食のすぐ後のできごとです。
★ 一人退かれるイエス様 6:15
五千人の給食の後、イエス様は一人で山に退かれました。何をしていたのでしょうか。普通は、何か大成功を収めたり、人の注目を大きく引いたら、パーティを催したりします。選挙で当選したり、ミスユニバースに選ばれたら、パーティをするでしょう。しかし、イエス様は、一人で山に静かにしていました。何をしていたのでしょうか。それは、父なる神様に栄光を返していたのです。父なる神様と二人きりになり、感謝をささげていたのでした。私たちは、物事が順調な時、成功した時、神様と時間をすごすことを忘れてしまいます。そして、友達と喜びあったりします。辛い時、ゴールに向かってがんばっている時などは、よく一人になって神様にお祈りするのですが、かなったら神様のことを忘れてしまいがちです。まず、このイエス様の姿勢を覚えておきましょう。
★ 嵐の中の出来事 v17-21
そして、弟子たちは、すでに暗くなっていましたが、カペナウムに向かって船をだしました。すると、途中で激しい嵐に合います。吹きまくる強風と聖書に書いてあります。こうして、四、五キロ進んで行ったところで、イエス様が弟子たちに向かって水の上を歩いて来られるのを見たのです。周りは嵐です。人が水の上を歩いて近づいてくるのです。弟子たちは、非常に恐れました。
イエス様は「わたしだ。恐れることはない。」と言われました。そして、弟子たちは喜んでイエス様を舟に迎え入れるとほどなく、目的地に着きました。
★ 何のしるしでしょうか。
私たちには、いろんな人生の荒波、試練、嵐があります。そして、私たちは、どこかに解決策がないかと必死に探します。水の上に浮かんだ舟の中にいては、八方塞です。なすすべがありません。しかし、イエス様は、嵐の中を水の上を歩いてまで、ご自分の方から私たちに近づいてくださる方です。そして、「私だ、恐れるな」と声をかけてくださいます。
このしるしは、①嵐の中で私たちを見つけてくださるイエス様のしるしではないでしょうか。そして、また、弟子たちは、イエス様と分かって喜んで舟に迎え入れました。そして、まもなく目的地に着きました。②イエス様を舟に喜んで迎える大切さ。を教えているのではないでしょうか。
★ しるしを見せろという人たち v24-33
群集は、イエス様を探してカペナウムに来た。そして、いつの間に来たのか、と不思議に思った。そして、イエス様は、言われます。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なるなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなた方に与えるものです。この人の子を父、すなわち神が認証されたきらです。」
そこで、人々は、「神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」と問います。イエス様は、「あなたがたが、神が遣わされた者を信じること、それが神のわざです。」
◎神が遣わされた者を信じること、それが神のわざです。”This is the work of God, that you believe in Him whom He sent.”
これさえあれば、私たちは、なくならない食物のために働くことができる、と言うのです。人々を満足させ、心を満たし、永遠にいのちに至る確実なものを手渡すことができるようになるには、イエス様を信じることだ、と言うのです。
しかし、人々はいいました。では、信じれるようにもっとしるしをくれと。。。信じさせてくれ、何々をしてくれたら信じてあげる。これは、信仰、信じることではないのです。なぜなら、それは、疑いと恐れからきているからです。疑いは、信仰の真逆から来ています。これが真実だと説得して、論破してくれたら信じるよ。これは、条件付のものです。その条件がクリアしないなら、信じないと言っているのです。
イエス様は、弟子たちに言われたでは、ありませんか。
「私だ。恐れるな。」It is I; Do not be afraid. 弟子たちは、嵐の中でもイエス様を喜びました。そして、舟に迎え入れたではありませんか。そして、イエス様とともに目的地に着くことが出来ましたね。
これが、あなたへのしるしです。恐れから、物事を判断しないように。恐れや疑いのフィルターから信仰を持とうとしなでください。
ただ、「私だ、恐れるな」と近づいてきてくださるイエス様を、喜んでお迎えしようではありませんか。イエス様は、必ず、私たちをその目的地に一緒に連れて行ってくださいます。
信仰とは、How TO 本のようではありません。信じることは、何か漠然としてつかみどころのないことのように、ギリシャマインド化した現代人には思えます。しかし、信頼してイエス様を心にお迎えすることが、全ての鍵です。あなたが、永遠のいのちに至る食べ物のために働く鍵であり、あなたの人生の方向性の鍵であり、あなたの問題を解決する鍵でもあるのです。
ただ、信ぜよ。
これが、ヨハネ6章の嵐の中でのしるしのメッセージです。
ぼ
投稿日 2015-12-29 17:27
ワオ!と言っているユーザー
投稿日 2015-12-30 03:04
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投稿日 2016-01-01 18:02
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投稿日 2016-01-02 09:07
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