キリストなしでは Without Christ
10月
12日
エゼキエル15:1-5
1 次のような主のことばが私にあった。
2 人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。
3 その木を使って何かを作るためにその木は切り出されるだろうか。それとも、あらゆる器具を掛けるためにこれを使って木かぎを作るだろうか。
4 見よ。それは、たきぎとして火に投げ入れられ、火がその両端を焼き尽くす。その中ほども焦げてしまえば、それは何の役に立つだろうか。
5 見よ。それが完全なときでも、何も作れないのに、まして、火がそれを燃やして、焦がせば、もう、それで何が作れよう。
◎イスラエルの民の存在の意味
2 人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。“Son of man, how is the wood of a vine different from that of a branch from any of the trees in the forest?
① どこに自分を置いているのか?
イスラエルは、森の木立の中にあった。
彼らは、自分の立ち位置を間違えたところにおいている。
イスラエルは、ぶどうの木に聖書の中でも何回もたとえられている。また、自分たちでもそう例えている。
どうして森の木立の中にいるのか? 彼らは、神を頼みとすることなく、他の国々のようになろうとしていたのだ。他の国々と契約を結び、より頼んできた。自分たちが神の所有の民であることを忘れ、また、神との契約を持っている民であることをすっかり無視した生き方をしていたのです。
よく、自分探しで、アメリカやカナダに来る人がいますが、この世に自分探しをしても見つかりません。私たちの造り主は神様ですから、私たちのアイデンティは、神の国に行かなければならないのです。
あなたは、自分の身をどこにおいていますか? 間違った競争の中においてはないでしょうか。神様がデザインされてない、他の者になろうとしていないでしょうか?
② イスラエルの目的は何か? あなたの人生の目的は何か?
また、イスラエルには、驕りがありました。それは、他の木とは、違うということです。それは、自分たちは、ぶどうの木であって、森の木立の木々は実を結ばないが、自分は、実をつけることができると。。。
しかし、神は、言われます。
3 その木を使って何かを作るためにその木は切り出されるだろうか。それとも、あらゆる器具を掛けるためにこれを使って木かぎを作るだろうか。Is wood ever taken from it to make anything useful? Do they make pegs from it to hang things on?
森の木立の木々と自分を並べているが、森の木立のように固い木ではなく、蔓であるぶどうの木からは、何も作ることが出来ないと。。。
ぶどうの目的は、実を結ぶことです。また、実を結ぶためには、農夫たちの手がなければ多くの実を結ばなければ、美味しいぶどうもできないのです。
イスラエルは、農夫である神様の御手の中に、いなければならないのです。森にいるべきではないのです。神の農園にいるべきなのです。
実を結ばない、ぶどうの木は、役にたたないので、燃やすしかない。。。と、5節にあります。
私たちに何を教えているでしょうか。新約聖書では、このように書かれています。 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。“I am the true vine, and My Father is the vinedresser.
ヨハネ15:2
2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
2 He cuts off every branch in me that bears no fruit, while every branch that does bear fruit he prunes[a] so that it will be even more fruitful.
ヨハネ15:5
5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
“I am the vine; you are the branches. If you remain in me and I in you, you will bear much fruit; apart from me you can do nothing.
私の証し:
神様に生き方を試されたことがあった。若いころ、神様に全てをささげて献身しようとしたとき、道が閉ざされた。そして、一旦仕事をやめたが、再就職することになった。給料は、当時の同じ年頃の女性の二倍以上はあるが、徹夜もあるような忙しい職場で、みな、キリスト教ぎらい。キリストの話は絶対にしてはいけないと言われた。自分の時間もなく、喜びもなくなった。そんな時、聖書の言葉がよみがえった。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」という言葉だった。そうだ。私のしたいことは、やっぱり実を結ぶことだ。食べ物を買うためのお金のためではない。これが、私の生き方だ。と、もう一度、自分の人生の目的をはっきりとさせることができました。その職場のあと、信仰によつて、神様の仕事を現在に至るまでしています。
私たちは、もともと、神に造られた者たちです。人生の目的も、実りの内容も神様がよくご存知です。神様が、実を結ぶようにデザインされたからです。
この神様なしでは、この森の木立の木々の中にいるイスラエルのようになってしまうのです。
キリストなしでは、人生の目的が果たせないのです。
あなたは、イエス・キリストに出会っていますか?
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
“I am the vine; you are the branches. If you remain in me and I in you, you will bear much fruit; apart from me you can do nothing.
キリストにつながっていなければ、私たちは、実を結ぶことができない。何もすることが出来ないと書いてあります。
毎日、キリストと繋がっているでしょうか?
キリストなしでは。。。私たちは、何もできないのです。
ぼ