「プラハの春」という言葉は日本人にも有名な言葉だ。だが、その意味は2つある。1つは1968年に起こったチェコスロヴァキアにおける体制の変革とその運動を差す。アレクサンデル・ドゥプチェクなど改革派によって指導された「人間の顔を持った社会主義」は、その後1989年の「ビロード革命」に繋がる。 そしてもう1つが、今年で69回を数える「プラハの春 音楽祭」だ。1946年から続けられている国際音楽祭なので、政治的な「プラハの春」よりも22年も前から行われていた「Pražké jaro」(プラチェスケ ヤロ=プラハの春)である。 1952年からオープニングはスメタナの「我が祖国」(MyCountry)と定められた。開会日の5月12日はスメタナの命日である。 ベドジフ・スメタナは、1824年の生まれ。「我が祖国」の全6作通しての初演は1882年と言われており、スメタナの没年の2年前だが既に完全失聴していたスメタナは、その演奏を聴くことは適わなかった。 チェコを代表する作曲家としてドボルザークと並んで、今でも全国民から愛されるスメタナだが、やはりその功績はチェコの各地の特色を組曲とした「我が祖国」という民族的な楽曲によるところが大きい。ミュシャの「スラブ叙事詩」は「わが祖国」に影響を受けた画家が、絵画的な「我が祖国」を目指したものと言われている。 「プラハの春 音楽祭」は、5月12日にスメタナホールでオープニングコンサートが開かれる、と何度も書いているが、本日は5月13日。実は、5月12日のオープニングはプラハの名士たちで席が埋まり庶民が聞くことができないコンサートなのだ。そこで、全く同じ指揮者、楽団、演目で翌日も行われるようになった。現在では、そのチケットも外国旅行者に買い占められてしまうので、庶民向けに3日目のコンサートが行われている。初日は別にしても2日目と3日目ではチケット価格が倍くらい違うようだ。外貨獲得に貢献している。 さて、69回目の今年のオケは「チェコ・フィルハーモニー管弦楽団」(Česká filharmonie)だ。指揮は68歳、2年前にチェコフィルに出戻ったチェコ人「イルジー・ビエロフラーヴェク」。「プラハの春」のオープニングをチェコフィルでチェコ人の指揮で聴けるのは中々に有難い話だ。 演目は「我が祖国」全6楽章 コンサートルールとしてアンコールは行われない。
『カヴァールナ・オベツニー・ドゥーム』は『市民会館』の1階にある『プラハ』で最も美しいといわれるCaféだ。『市民会館』には1階にレストランとカフェ、地下1階に居酒屋が2件あるのだが、折角ならプラハ1のCaféに入ってみる。 ちなみに洒落た長い店名に見えるが「カヴァールナ」は「カフェ」、「オベツニー・ドゥーム」ってのは「市民会館」って事なので、実際の店名は何のことはない「市民会館のカフェ」だ。 コンサート前なのでサンドイッチ程度の軽食とビールを頼む。女房は「ハムとチーズとレタスのカントリーサンド」なんつー日本でも幾らでも食えそうなつまらんメニューを頼む。多分一番安かったからだ。私は、どうせなら、この店のおススメが喰えるだろう「クラブサンド」にする。もちろんandいやwithビールだ。 だが...残念ながら出てきたサンドイッチは女房の方がはるかに美味そうだった。期待の「クラブサンド」は単なるチキンとツナの「バサバササンド」。ん~、もっと吟味すればよかった。まぁ、ビールで流し込むだけだが。 チェックして店を出るときに振り返りざまに一枚撮ろうと思ったら、「店内撮影禁止」の看板に気が付いた。すんません、動画までいただいてます。(でも、ウェイターも何も言わなかった。慣れっこなのかもしれない)
今日の晩は『プラハの春 音楽祭』を『スメタナホール』で聴く。その前に食事をするのだが、コンサート用の靴を昨日の内に買ってしまったので夕食まで、少し時間が開いた。 すると女房が『ミュシャ美術館』へ連れて行け、という。「アルフォンス・ミュシャ」なぞは、この旅に来て初めて知っただろうに。聞けば美術館でミュシャを見たいわけではなく、人に聞いた『ミュシャの一筆箋』をお土産に買いたいだけだという。 早いところcafeにしけこんでビールを飲みたいのだが、まぁ時間も有るので行くことにする。『旧市街広場』からなら徒歩15分程度だろう。 『ヴァーツラフ広場』を国民博物館へ向かい、途中で左手に折れれば、予想以上に小さな間口の『ミュシャ美術館』があった。入って直ぐ左側が売店になっている。欧米の美術館や博物館は入場しなくても売店に行けるので宜しい。そうじゃない美術館なんて有るのか、とか言われそうだが、ネェ、丸の内の煉瓦造り美術館さん。 さて、女房はお目当ての一筆箋が買えてご満悦だが、この売店はミュシャの商品の奥のコーナーが「カフカ」のコーナーになっていた。そこにある色々な商品は、どう見ても日本人には「鈴木亜久里」コーナーにしか見えない。たぶん親戚なのだろう(嘘)。
ザンザカ降っていた雨もクルーズ船を降りたら止んでいた。日本でもそうだが、「春」という季節は気象の変化が激しい。勝手に「晴れる」と確信し、旧市庁舎の塔に登ることにする。 「プラハボート」の桟橋のある「チェフーフ橋」から、お洒落な建物を眺めながら「パリ通り」を真っ直ぐ歩けば「旧市街広場」に出る。『旧市庁舎』は、いわゆる『プラハの天文時計』の有る建物で『天文時計』の左側の入り口から塔の上に上がることができるようになっている。 入り口を入ると一昔前の銀座のデパートみたいなシースルーのエレベータが2基あってで3階まで上がれる。ここに土産物デスクがあって「看板犬」?が寝てたりもするが、その右手から塔の中に組み込んだロケットみたいなエレベータで一気に塔屋まで上る事ができる。このロケットエレベータの周りは螺旋のスロープになっていて、こちらからも昇降はできる造りだ。 塔屋へ上がると流石にプラハの街が美しい。「晴れる」という訳にはいかなかったが、この中欧の街には暗めの曇天の方が似合う、と思い込んで街を眺める。 帰りは螺旋スロープから降りてみた。
『カレル橋』の旧市街側をモルダヴ川に沿って下流(北へ)進めば、ワンブロックでチェコフィルの本拠地『ルドルフィヌム』=『ドボルザークホール』に至る。「マーネスーフ橋」の袂だ。 今年で69年目を迎える『プラハの春 音楽祭』は、現在では市民会館の『スメタナホール』で開幕するのが恒例となっているが実際のメイン会場は、この『ルドルフィヌム』である。 川沿いから『ルドルフィヌム』の後ろに回り込めば「のだめ」のロケにも頻出した『プラハ音楽院』だ。ドボルザークが学長を務めた、この音楽院には現在でも現役で大勢の学生が学び年間250回以上の演奏会が開かれている。 なぜ、ここまで歩いてきたかと言うと、この先の「チェフーフ橋」の河岸から「モルダヴ川クルーズ船」に乗ろうって魂胆だ。ところが、音楽院の脇辺りに差し掛かったら雨がザンザカ降り出してきた。 この辺りのモルダヴ川沿岸には、ずっとチェコの国木である菩提樹(正確にはセイヨウボダイジュ)の並木になっており、今の時期には春の新葉が萌え盛っていて多少の雨なら気にならないのだが、こりゃダメだって感じで傘を差す。 「チェフーフ橋」の袂には「プラハボート」の看板が有り、ここから河岸に降りる階段が続いている。今回乗る「プラハボート」は定員100人程度の観光船だが、モルダヴ川観光は動かない常設レストランの大型船から定員4名くらいの小型ボートまで様々な観光が行われている。海外に行くと水回りの使い方がとても上手くて感心する。シドニーのサーキュラキーとダーリングベイトとかマンハッタンのサークルラインとか、お台場でも見習えばいいのに、いつまでも「隅田の屋形船」から発展してない。行政の怠慢だ。 中々スマートな船体の「VALENCIA号」に乗り込む。スペイン団体様御用達?か。1階船室には立派なバーカウンターが有り、当然ビールを頼めば地ビール「STAROPRAMEN」のピルスナーが出てきた。ウルケルに比べると、ちょっと重いが良く冷えていて美味い。 1時間コースのボートは、岸を離れると南下し、まずは『カレル橋』へ向かう。石積みの橋脚を潜ると暫く撮影停船。再び橋を潜って左手に『悪魔の水路』や『カフカ博物館』などを見ながら川をゆっくりと下っていく。 両岸は『プラハ城』を始め広島の「物産陳列館」(現原爆ドーム)を建てたヤン・レッツェルの『チェコ通商産業省』、丘の上に建つ「メトロノーム」などプラハの見どころ満載。 幹線道路でもある「フラーブクーフ橋」まで行って折り返し「チェフーフ橋」まで戻る。下船するころには雨も上がっていた。
昼食を「青い鴨2号店」で取ったら、まぁ、ここまで来たら次は『カレル橋』だ。 『カレル橋』は、モルダヴ川に掛かる歩行者専用の橋で、プラハの観光名所だ。大概の観光本に多くのページを割いて紹介され、現地の観光フリーペーパーでも細かく紹介されている『プラハ』の目玉である。 神聖ローマ皇帝カール4世の命により1402年に完成し全長は515.7メートル、幅は9.5メートル、15のアーチの上に、砂岩の切石の橋桁が渡されている。橋を守る3つの塔が建ち、橋の欄干には15体ずつ合計30体の塑像が並ぶ。中には東洋布教の功績を持つ日本人のお馴染みの「フランシスコザビエル」も見られる。 しかし、この橋の最大の観光名所は「ヤン ネポムツキー像」であり、その台座に触れると「幸福が訪れる」と言い伝えられている。(誰が言い出したんだ。) 日中の『カレル橋』は観光客で賑わっており、似顔絵や大道芸や土産物を売る商人が出店を連ねている。 当然、「ヤンさん」の像は近寄るのも大変なくらい人に溢れていて、たぶん向かって右の姿に触るとご利益があるのだろうが、左の犬にもみんな触って幸せを享受している。
ユダヤ人街から「カフカの生まれた家喫茶」(cafe)を経て食事に向かう。 「フランツ カフカ」はチェコを代表する作家で、その独自性と短編故に日本でも中学高校辺りでよく読まれる作家だ。 代表作の「変身」は、家族を支える若き営業マンが、心身ともに疲れ果てて、ある朝「虫」になってしまう、という現代ストレス社会の先鞭みたいな暗い話だ。 実は私にはカフカに思い入れがある。 と、いってもカフカの文学作品に感化されたわけではない。「仮面ライダー」に感化されたのだ。カフカの「変身」に題材をとった手塚治虫の作品に「ザムザ復活」という短編がある。手塚はそのモチーフで人間を虫に改造する社会を描いている。 この手塚作品に感化され生まれたのが、手塚の弟子(というかアシスタント)にして、トキワ層の住人石森章太郎の「仮面ライダー」だ。ショッカーにバッタ人間に改造された本郷猛が「仮面ライダー」に変わるときに「変身」と言うのはカフカへのオマージュだと私は思っている。 そんなことを思いながら旧市街広場に出る辺りでは「トレデルニーク」を売っている店がおいしそうなシナモンの香りを立てている。食いて~。だがお菓子ではビールは飲めないっと我慢。 昨日から「プラハの春 音楽祭」が始まっているので、街中の教会ではコンサートチケットを売るデスクが人を集めている。旧市街広場を抜けてフス通りのイタ飯屋で昼食、「青い鴨2号店」だ。チェコに居る限りは、イタ飯だろうが何だろうが、『とりあえずビール』だ。
『プラハ国立美術館』でミュシャの大作『スラブ叙事詩』に柄にもなく感動した後は、プラハの街のユダヤ人街に向かう。 日本の観光本などで軽く触れられているユダヤ人街は、欧米人にとっては『プラハ城』に並ぶマスト観光名所。カトリックの遺跡が多く残るプラハの街は、敬虔な欧米クリスチャンにとっては宗教的原体験に触れられる魅力的な街。日本人にとっての京都に近い。日本人、京都に行って、歩ける範囲に奈良があれば行くでしょ、ってところがユダヤ人街なのだ。つまり、エライ混んでいる。シナゴーグとかユダヤ人墓地なんかがある程度の場所なのだが、道の半分を露店が埋め尽くし人が溢れている。 歴史的、宗教的背景のない私にしてみれば「何が楽しいんだ、ここ」である。そもそも父の子はユダヤ人ではなく母の子はユダヤ人であり、父がユダヤ人でなくても母がユダヤ人でなくてもその子はユダヤ人である、とか、さーっぱり判らん。 すぐ近くにはカフカの生家がある。
『スラブ叙事詩』は、実に大作である。国の成り立ち、民族の歴史、宗教観、全てを画家の主観と織り交ぜて絵画として昇華する、そんな連作だ。だが、ミュシャと言う画家への思い入れなのかもしれないが、私は、この稀代の名作と言っても良い連作に別の側面を見る。 『スラブ叙事詩』の殆ど、すべての絵に「見るものを射る様な目線を持つ人物」が描かれている。そして、その人物は例外なく庶民だ。 ミュシャは宗教画家ではない。『スラブ叙事詩』には宗教的表現の場面も多く描かれているが、ミュシャにとっての主役は聖人では無いのだろう。画家にとっての歴史の主役は、常に「庶民」なのだ。その思いが強く描かれていると感じた。 『スラブ叙事詩』は稀代の傑作である。
アルフォンヌ・ミュシャ(現地発音ではムハ)は、アールヌーヴォーの旗手として日本でもファンが多い現代チェコの巨匠。絵画ばかりでなく様々なデザインを手がけ、プラハの現市庁舎、市民ホール、近隣の建物などに多くの意匠を残す。「ヒヤシンス姫」などは誰でも一度は目にしたことがあるだろう。私なぞは江口寿史が出てきた時に「ストップひばりくん」にミュシャ的表現を感じたものだ。(笑) 共産主義を嫌いアメリカに渡り、画家としては珍しく生前から金銭的な成功を収めたミュシャだったが、民族主義的な思想の持ち主で祖国であるチェコへの思いを忘れることはなかった。 スメタナの「我が祖国」六楽章に影響を受け、音楽=聴覚的にに祖国を表現したスメタナに対し視覚的に祖国を表す衝動に駆られ着手した連作が「スラブ叙事詩」と伝えられる。 このミュシャの「スラブ叙事詩」が、今はプラハで見られる。この大作は、チェコのブルノと言うプラハから約200㎞離れた田舎町にある「モラフスキークルムロフ城」に飾られていたが、その所有権を巡って国と自治体が揉めていて、当面は2年毎の展示を定めたらしい。観光本などでは、「今だけ」とか「好評なので特別に延長」とか書いてあるが、これが真相ならば2015年は、また「モラフスキークルムロフ城」に帰ることになる。 そんな事情もあるのだが、そもそも、この現代を代表する絵画が一般に公開されたのは1928年の事であり、この大作が世界の美術史に認知され見れるようになってから、今だ90年も経っていないのだ。 プラハ国立美術館に着いたが、いささか早く開館時間まで15分程度待つことになった。この建物自体が「ヴェレトゥルジュニー宮殿」と呼ばれる。この美術館には年代毎の美術品を展示した「宮」や「修道院」「聖堂」がある。現代を代表するcチェコキュビズムを展示するのは「黒い聖母の家」だ。 既に併設のcafeは営業していた。モノトーンにモダンなモニュメントを配した吹き抜けの広大な空間で、朝のコーヒーを楽しむ人々も居た・・・が、開館を待つ多くはバックパッカーで階段に居座る。当然、私たちもだ。 スラブ叙事詩は特別展になっていて、一階のエントランスすぐ左の専用スペースで展示されている。 重い扉を開くと、絵画と同じサイズの大スクリーンにミュシャの生涯を描いたVTRが映写されている。ここからミュシャの世界に入る、という趣向だ。 スラブ叙事詩は6X8m程度の大絵画20枚組で見るものを圧倒する。一枚目の「その地に居たスラブ人」から連作を見ていくと、この地の歴史観など何もない身にも大きな感動が押し寄せてくる。画家の凄さだと思い知らされる。 平日の開館直後とはいえ来館者数の少なさに驚き、撮影する身としては有難く思う。そう、この稀代の傑作はストロボを焚かなければ撮影フリーなのだ。