魂のイメージ。 まず魂の色は何色だろう? 私は「青」。 だから温度も低め。 炎の魂は、なんか違う。 まったくの個人的意見。 まあ、これもイメージなので、皆さん違うのだろう。 ん〜、黄色のイメージは一番、遠いところにあるかなあ。。。
焦る。締め切りが迫る。なのになんか書いている。 ああ、またやってしまった。月一の一作に躓いてしまう。ここに何か法則があるのだろうか。気合を入れて詩を書いていれば、「よしよし、なかなかいい感じだ!」と思った瞬間に大きな疑問が発覚する。数日前にAと言う詩では、黒という事象にマルと言っていた。しかし、今書き上げたその詩をじっくりと読むと、同じ黒い事象にバツと言っている。客観的に考察すると矛盾が生じている。しかし、私はひとりであり、ひとりでないことを知っている。それが多重人格という訳ではなく、そもそも事象につきふたつ以上の相違な答えも許容してしまうからだろう。あなたに対する答えと、自分に対する答えは違っている。これを理解してもらうのは至難の技だろう。だって、この文章すら何を書いてんだ、って感じになっているのだから。 矛盾、それは矛盾。私の中では、矛盾しているというより許容範囲だ。まあ、なんと思われてもいいだろう。矛盾と思われている詩も私なのだから。そろそろ、送信しなくては。。。
ピアノの音は波になり 君に寄り添っては浮き沈み しなやかだった指 もう僕には絡まない 涙が面影を追いかけて 幸せの音 想い出そうとすればするほど 遠く取り戻せない刹那 風に吹かれる旋律 心情は寂しさの波を象る 海になった君 どうか許して欲しい 過去に生きてしまうことを 鍵盤を沈めながら 僕は君の波間に揺れている
イヤホンの冷たさが 朝の厳しさを伝え 飽きもせず同じ歌ばかり すでに疲れ果てた労働者の皆さん 電車で揺られた視線は 現実を離れた場所に向けられて 哲学に蓋をして 繰り返す日々の疑問は 最初から知らなかったことのように 答えを求めるようとはしない 社会に沿って自分を守っている日々 だけど朝ぐらいは何処かに逃げていたい 飽きもせずに同じ歌ばかり 止まった時間に少し自分を取り戻し
アフリカで旅人が トラックの荷台に乗っている そんな映像を見ていた 轍のある土の道沿いには ぽつんぽつんと家が建ち、村がある 歪んだアスファルトの道沿いには 家や店が建ち、町がある そうか 道が村や町をつくり 生活の地図を賑やかにするんだ ひとが歩き、自転車が走り バイクが走り、自動車が走り トラックが荷物を運び都会をつくり ひとが目的を果たす道がある 道をつくることから始め 私たちは歩きだす生き物なのだろう
ごぼうや里芋から土の匂い 大地の神秘を感じながら 皮を剥いていく 豚肉を炒め 野菜を炒め 出汁を入れて灰汁をとり 生姜も入れてみよう 冬にはこれだよな 台所に椅子を持ち込み 音楽を聴きながら 夕ご飯の支度をしている 毎日のことだから 楽しくやろうじゃないか 台所はピカピカにして 気持ちよく手際よく たまに言ってくれる 家族の「美味しい」を励みに 今日も台所でトントンと 包丁の音を響かせて 味見をすれば 不安と期待を想像しながら 味噌を少し足してみる よしこれで決まりだな おーいㅤご飯だぞ 手は洗ったか ご飯は自分でよそってくれ ああ箸もよろしくな それじゃㅤいだだきます
どこから来たんだい? 英語でハンサムなアングロサクソン系の男性が訊いてきた。「ジャパン」というと、彼は自分を指さし「アイアム、ジャパニーズ!」なんて冗談で笑わせてくれた。 先月、タイ国のピピ島というおもに観光でひとが集まる島へ日帰りで行った。フェリーに乗り一時間半。対面式の客席では、私の前にボスニアから来たという夫婦がいた。奥さんは妊娠していてお腹が大きく、旦那は優しくエスコートしながら身の回りのことを手伝う。でも、ボスニアといえば民族の対立による内戦があって、今も問題を抱えた国だという認識だったが、この夫婦は世界を旅しているようで、二日後には日本へ渡るというのだから裕福な家系なのだろう。 お互いにフェリーでは写真を撮り合い、拙い英語に付き合ってくれて楽しい時間を過ごすことができた。そして、お別れに「シーユーアゲイン、インジャパン!」なんていって微笑んだ。お互いのタクシーに乗りホテルへ向かった。ホテルにつき、久々に海でお魚さんと遊びクタクタだった。玄関のドアを開けようとした。 あれっ、隣の部屋に誰か入ろうとしている。おっと、さっきの夫婦じゃないか! 思わず「ヘイッ!」と叫ぶ! 男性が一言。 「イズディス、ジャパン?」 大受けでした。ほんとうに。こんなことがあるんだなあ、と。約束はしなかったけど、もしかしたら日本で再会するかもしれない。その時は、「フェア、イズ、ディス?」と訊いてみよう。彼はなんというだろうか。。。
二月にとあるところで詩の朗読をすることになった。持ち時間は三分ということなのだが、はてどんな詩を読めば良いのだろう。ちっとも想像がつかない。そもそも私の詩には「これが自分の詩だ!」という作品はなく、こっち方面やあっち方面の作品といったように収まりがないのをひっくりめての表現なのだから。なので、三分でひとつの作品を読むとなるとどんな詩にしようか、頭が痛くなる。どんなことをその場で伝えるのか、ん〜難しすぎる。。。 私の他にも十人くらい朗読をされるらしいから、作品の香りが被らないことは気をつけようと思う。なら、ノリをとるか、不思議をとるか、ずとんっと重ためか、あっけらかんか、近未来的か…… まあ、その場の雰囲気で選択しようかな。。。 それにしてもひと前で詩を読むなんて、中学生の頃が最後だったのでは。ところで、どんなふうに読めば良いのだろう。まず、カッコつけたのならズッコケるに違いない。だが、たんたんと読んでも面白くないから、感情を入れて読む? いやいや、これまた難しい。とりあえず伝わるように読むことを心がけよう。それプラス、楽しそうに。。。 緊張より、楽しみが支配するこの感覚、私もおっさんになったもんだ。心のどこかでウケを狙っているのだから。そして、現実に打ちのめされる。それも良し。やはり、楽しんでしまうのだろう……