小雨に濡れた少女がしゃがみ 黄色の花に触れています 通りすぎるひと達は 声も掛けずに 頷いて行くのです ほんのり濡れた風景に包まれて かなしいだけではありません 詩を読むように 少女は裸になって心を解放し 花と踊っているのですから そっとしてあげましょう 受け入れているのです 雨も花もあなたもひとも 今がとてもだいじな時なので そっとしてあげましょう
詩人が駅前を文学館に 向かって歩いている ひとが誰もいない不思議な街 2017年4月8日 駅のロータリーを抜けると 曇り空に合わせた演出 靴音だけが異空間に響く 詩人が歩くと街中のひと達が 寂しさから遠ざかろうと 街の外れまで逃げてしまった 寂しさに寂しさを重ね 川の流れだけが肯定を見せる まだ可能性があるように 確かにあったのだ 詩人がひとを集め賑わった時代 文学館の受付には誰もいない 拝観者も誰もいない そこにはひとりの孤独がいるだけ 天才は孤独である 時代に合わない才能は悲劇を 演じては彷徨い歩く 詩人の孤独が月に吠えたら 涙くらいは流がせるのだろうか
未来、未来、未来に子どものピンクちゃんとイエローちゃんがいました。ふたりはとても仲が良くて、いつも一緒、宇宙船に乗って旅を続けています。ケンカなんてしたこともありませんでしたし、もともとケンカの意味も知りません。ピンクちゃんはとてもお喋りで、イエローちゃんはニコニコと話を聞いて微笑んでいました。ピンクちゃんはお父さんとお母さんの話をしていました。 「ねえ、わたしたちにはやっぱり、お父さんとお母さんはいないのかな」 と、ピンクちゃん。微笑むイエローちゃん。 「だって、だってさみしいもん。知っているもん。私たちが試験管から生まれたこと」 「うん」 「でもさ、ほんとうにいないのかな」 「う〜ん」 「できることなら、会いたいなあ」 「会えるよ」 「イエローちゃん、今なんていった?」 「会えるよ」 「そうなの、ほんとうにそうなの」 「うん」 「信じる、イエローちゃんのこと」 「うん」 宇宙船はどこへ向かっているのでしょう…… ピンクちゃんとイエローちゃんの先には希望と夢しかありません。それはさみしいけどさみしくない、孤独だけど孤独でないということなのでしょう。ひとりじゃない幸せがあれば、どこへ行こうがどうでも良いことなのかもしれません。 「イエローちゃん、なんだか眠くなっちゃった。おやすみ」 「おやすみ」
吐き気がしていますが すこし疲れてしまっただけで きっと大丈夫です ひと眠りすればいつもの自分に 戻れると思います 足がつったままですが きっと歩けるはずですから すべてが終わることはないでしょう まだ行きたいところがあります 明日が来ますように 頭が割れそうなくらいですが 頭に手をあてても割れていないので きっと大丈夫です 希望が萎みがちになっても 今まで乗り越えて来たのですから 明日に微笑む想像は枯渇しないでしょう 首がズキズキして腕が痛いのですが 寝返りができない程度のことで 駄目と大丈夫とで遊ぶように 心がけて寝ようとしています お願いです眠らせてください そんなことは言いません 今日のくたばった一日を殺して 明日だけを見ようと思います
久しぶりの寝坊 でも遅刻するほどではなく 身体の動きはなんだか調子が良い いつも一時間早く出勤しているが たしか今朝の仕事は立て込んでない なんてハッピーなんだろう 正の連鎖反応は大歓迎さ しかし台所の食器は 軍艦島のように狭く高く廃墟状態 これは見なかったことにして バナナを片手に玄関を開け 自転車に乗るゴリラになり 胸を叩きたくなるが 危ない危ない ねえ 赤信号を安全に渡っているひと うん 気持ちはよくわかるよ でもね 小学生も見ていることだし さすがにいつもより遅いせいか 電車は極うまに設定された 電子ジャーのように かなりの圧力になっている 負の連鎖反応は歓迎できないぞ ん〜 通勤電車の混み具合を考えると やはり早出勤の方が良さそうだ おしくらまんじゅう おされてなくな あんまりおすと あんこが出るぞ あんこが出たら つまんでなめろ 歌っている場合じゃないけど 今日も頑張って行こうじゃないか!
詩を書いたのなら 僕は幸せなひとになります 誰にありがとうを言えば良いのか わかりませんが ありがとう 詩を読んだのなら 僕は涙が止まりません 誰にありがとうを言えば良いのか わかりませんが ありがとう 詩を愛したのなら 僕は僕でいられるのです 誰にありがとう言えば良いか わかりませんが ありがとう 空に叫んでみました
己の本音を包み隠さず言葉に発したのなら、この社会で生活を営むのは酷なことだろう。日常は嘘ばかりで蔓延しているとも言える。しかし、そんなことは承知でひとと会話をするし笑顔も見せたりする。なんともめんどくさい生き物である人間。そして、その忌々しい己に苦しんだりする者もいて、心根の洗浄を行うかのよう、本音を表現へのせ満たそうと作業に没頭したりする。それでもその表現に嘘はないかと言うと、そうではない。対人を意識している以上、純粋な己でない嘘が修正、校正を重ね飾って景色やら感情を描いてしまう。 嘘のない表現とはどのようなものだろうか。もしや嘘のない表現などないのだろうか。それとも嘘に嘘を打ち込んだ中に本音が潜むのだろうか。嘘の己もこれまた本音だろうか。嘘はいったい何を与えようとしているのだろうか。 嘘と感情は密に寄り添う。憎悪からの嘘、思いやる嘘、逃げるための嘘、飾り酔いしれる嘘、感情を平らにするかのよう嘘を利用する。防御本能、あるいは社会で生きるためのユーモアなのだろうか。 嘘のない己からは逃れなれない人間。その現実を流す者がいて、また流されたくないとする者がいる。どちらも嘘のない日々などない。 ただ、流されたくない者(それを自然体と考える者もあろう)が表現する根源の欲のひとつと言えるだろう。表現者にとって嘘とは悪に傾くばかりではなく己と向き合い方を模索し、生きるための追求する想像力を育むモノなのかもしれない。