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四季織々〜景望綴

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 神の森◆ 6

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 ...
   静謐

長い静寂の時間が流れた。樹木の香りを含んだ爽やかな風が吹き渡り、その場の者たちを浄化して、心身の痛みを消し去っていた。
そこへ、雪乃に支えられた八千代が森の奥から姿を現した。
「冬樹、森の神は、そなたを神の守に任ずると御宣託された。まだまだだと思っておったが、何時の間にか成長しておったのじゃな」
 八千代は、神の守の御印である翡翠の勾玉を冬樹に差し出した。森全体が新しい神の守の誕生を祝福して、豊潤に光り輝き、その霊力は、冬樹の胸元で翡翠の勾玉として納まった。その瞬間、冬樹の左肩の邪悪な大蜘蛛を消滅させた。と同時に、社の紋を蔽っていた蜘蛛の巣が掻き消えていた。
八千代は、凛とした表情に変化した冬樹を頼もしく感じて腕を取った。
「父上、ありがとうございます」
 父子の間に久しく訪れなかった愛情と信頼が戻ってきていた。
「雪乃、今まで苦労をかけたな」
 冬樹は、愛情を込めて雪乃を抱きしめ、雪乃は、父子の和解に涙を流して喜んだ。
「光祐くん、祐里、そなたたちには辛い想いをさせて申し訳なかった。祐里の助けで森が治まった。それに冬樹夫婦も円満になった。この通り礼を申す」
八千代は、深々と頭を垂れ、傍らの冬樹と雪乃も一緒に頭を垂れた。
濡れた狩衣からワンピースに着替えた祐里は、気持ちまでも軽くなった。
「もう一晩ゆっくりして帰るといい」
八千代は、祐里との名残を惜しんだ。
「一月以上も桜河のお屋敷を留守にしてございます。私は、一刻も早くお屋敷に帰りとうございます」
 祐里は、早々に身支度を済ませて発つことにした。
「お爺さま、お父さまの故郷に伺うことができまして嬉しゅうございました。どうぞ末永くお元気で、冬樹叔父さまと仲良くお過ごしくださいませ」
「そなたは、ほんに不思議な子じゃ。神の御子でありながら、神の森とは別の場所で生きようとするとは・・・・・・そなたは、自身の意思でしあわせを掴む力を持ち合わせているようじゃ。まさに神そのものじゃ。春樹と小夜も安堵しているであろう」
 八千代は、微笑む祐里の頬に触れて何度も頷いた。
「お爺さま、私は、私らしく生きているだけでございます。光祐さまのお側に居させていただくだけで私は満ち足りてしあわせでございますもの」
「お爺さま、ご安心ください。わたしは、いつまでも祐里を大切にします」
 祐里は、光祐と見つめ合ってお互いのしあわせを共有していた。
「今でもそなたを手元に置きたいと思うておるが、そなたのことは、光祐くんに任せよう。祐里、身体を厭いなさい」
 八千代は、祐里を抱きしめて孫娘のしあわせを祈った。
 帰りの支度が整い、別れの挨拶が終わると、冬樹の指し示した方角に満開の桜の大樹が現れた。
「優祐くんが植えた桜の樹だ。しっかりと神の森に根付いて瞬く間に大樹になった。北の地では桜は不吉とされてきたが、不思議なことに神の森に邪悪なものを寄せ付けないように守護してくれている」
 冬樹は、優祐を見て大きく頷いた。
「冬樹叔父さま、どうぞ桜の樹を大切になさってください。来年の夏休みにまたこの森に来てもよろしいですか」
「いつでも、来たい時に来るとよい。ここは、優祐くんのお爺さまの生地なのだからね」
「はい。ありがとうございます」
 優祐は、冬樹に向って喜びの笑顔で頷き返した。
「光祐くん、祐里を宜しく頼みます。祐里、しあわせにな」
 冬樹のこころから春樹と小夜への怒りや恋慕がすっかり消え去り、父親のような大らかさで祐里を優しく抱きしめた。
「どうぞ、冬樹叔父さまも雪乃叔母さまとおしあわせにお過ごしくださいませ」
 祐里は、冬樹の広い胸の中でそのしあわせを祈った。
 夕日が茜色に輝く静謐な神の森で、冬樹が勾玉に触れると、桜の樹が虹色に輝き光祐たち四人を包み込んでいった。
 気が付くと光祐たち四人は、緑が原駅に佇んでいた。列車到着の警笛が鳴っていた。
「もうすぐ列車が出るようだ」
 光祐は、家族を急きたてて列車に乗り込んだ。

四人は、一晩中列車に揺られて、桜河のお屋敷へ到着した。
「おばあさま、婆や、ただいま帰りました」
 優祐と祐雫は、無事に帰って来られた喜びに満ち溢れて、疲れも忘れてお屋敷の玄関に走り込んだ。
「桜、いつもありがとう。約束通り祐里を連れて戻ったよ。」
 光祐は、優祐と祐雫の後姿を微笑ましく見送りながら、お屋敷と桜の樹をしみじみと見つめた。そして、家族揃って墓参りに行こうと考えていた。
「桜さん、ただいま帰りました。お蔭さまで無事に帰ってくることができました。ありがとうございます」
祐里は、光祐に寄り添って、しばらくの間、桜の樹を見つめていた。
光祐の胸ポケットに差し込まれた桜の花は、銀色の雫になって桜の樹に返っていった。
光祐は、桜の樹に導かれるように祐里を抱き寄せて、その柔らかな唇に口づけた。

 この時、祐里のお腹には、二月目を迎えた嬰児が宿っていた。後に桜河里桜と名付けられる御子だった。
 桜の樹は、深緑の葉を揺らして、祐里の帰りとまだ誰にも知られていない新しい生命の誕生を喜んでいた。〈桜物語・完〉
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 神の森◆ 5

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 ...
  蜘蛛の糸

夏休みの終わりが近付いていた。祐里と優祐が神の森に出発して、連絡のないまま一月が過ぎていた。書き留めていた電話番号は不通で、手紙を出しても宛先不明で戻ってきた。桜河のお屋敷では、家族が暗い面持ちで毎日を過ごしていた。光祐は、仕事の段取りをつけて夏の休暇を一週間作り、祐雫を連れて神の森に夜行列車で旅立った。
神の森はこの時代と平行して存在しながら、神から選ばれし者でなければ入ることが出来ないのではないかと、光祐は推測していた。それ故に榊原の血筋を受け継ぐ祐雫を伴えば、必ず神の森に行き付くことが出来るように思えた。それに光祐は、祐里とこころがずっと通じている気がしていた。離れていても祐里の存在をいつも感じることができた。
「父上さまは、どうして、そのように平常心なのでございますか。母上さまと優祐が、行方知れずになりまして一月が過ぎましたのに」
 祐雫は、祐里からお屋敷に残って自分の替わりに家族の世話を頼まれたのだが、母の存在の大きさに気付かされた。祐里が家を留守にしたその日から、お屋敷は、薄っすらとした闇に包まれていた。深緑の葉を陽光に輝かせていた守護の桜でさえも潤いをなくしていた。祐雫は、桜が枯れてしまうのではないかと心配して、毎日桜の樹に話しかけた。
「わたしは、祐里を信じているからね。それにわたしには祐雫がいる。必ず、祐里と優祐にまた会えると思っている」
光祐は、淋しくないと自己に問えば嘘になると思いつつ、ここで自分が弱音を吐いては桜河の家族を不安にさせるだけと思っていた。躊躇する祐里を神の森に旅立たせたのは自分だった。それは後悔したくない決断だった。思い返せば、大学生の時に祐里の縁談が持ち上がり、榛文彌と父の意向から必死になって祐里を守った。今回は、あの時とは比べものにならない未知の力を持つ神の森が相手だったが、光祐は、相手が誰であろうと祐里を守り貫こうとこころに誓っていた。
「父上さま、祐雫も信じます」
 祐雫は、唇をぎゅっと噛み締めながら真剣なまなざしで光祐を見つめた。
「祐雫は、母上さまが留守にされても大丈夫だと思っていました。おばあさまや婆やがいらっしゃるし、おじいさまと大好きな父上さまがいらっしゃるのですもの。でも、いらして当たり前だった母上さまがいらっしゃらない毎日が淋しゅうてなりません。それに優祐がいないと身体の半分がなくなったように感じます」
「神の森に祐里が必要な以上に桜河の家には祐里が必要なのだから。必ず祐里と優祐を連れて戻るよ」
 光祐は、優しい微笑を湛えて祐雫を見つめ返した。
 十七時間かけて、緑が原駅に列車が到着した。無人駅は、ひっそりと静まり返り、駅舎の外には青々とした田園が広がっていた。その間を真っ直ぐに神の森に続く道が伸びていた。
「どうやら、あの遠くに見える森のようだね」
 光祐は、祐雫を気遣いながら、炎天下の陽炎が揺れる道を進んでいった。田園の稲の深緑が眩しく光り輝き、陽射しを遮るものが何もないからからに乾いた道が長く続いていた。歩けど歩けど神の森までの距離が一向に縮まる気配は無く、幾筋もの汗が流れた。蒼い空は、どこまでも青く、光祐と祐雫に容赦なく直射日光を照らし続けた。
「どこまで行きなさる」
 突然、背後から声をかけられた。
「こんにちは。神の森へ行くところです」
 光祐は、振り向いて声の主を仰ぎ見た。牛車に乗った村人が怪訝な表情を返してきた。
「あの森が神の森だが、何人も入ることは出来ませんぞ。獣道すらなく、一度入り込んだら出て来られぬ森だ。物見遊山で行くところではないぞ」
「神の社に神の守が住んで居られる筈でございます」
 祐雫は、驚いて口を挟んだ。
「わしは、生まれてからこの緑が原に住んでおるがそんな話は聞いたことがない。確かに森の入り口に小さな社があるにはあるが、人が住めるような社ではない。わしらは、神の森は仰ぎみるだけで近付かないようにしておる」
「それでは、この近くに榊原八千代さまがお住まいではありませんか」
 光祐は、八千代の名を口にした。
「榊原は、この緑が原に住む者の姓だ。わしも榊原だが・・・・・・八千代は聞いたことがない」
 村人は、不思議な顔をして答えた。
「父上さま・・・・・・」
 祐雫は、心細くなって光祐に寄り添った。
「あなたは、どこまで行かれるのですか」
「あの川の土手を通って家に帰るところだ」
 光祐は、村人が指差した遥か前方の川を見つめた。川から森まではまだ距離があるようだった。
「よろしければ、その川まで後ろに乗せていただけないでしょうか」
「乗りなされ。この暑さでは嬢ちゃんが可哀想だ」
 光祐は、牛車の後方に回って祐雫を抱え上げてから荷台に乗りこんだ。荷台には籠いっぱいの夏野菜が積まれていた。
「助かりました。ありがとうございます」
「ありがとうございます」
 光祐と祐雫は、荷台に座って一息つき、タオルで汗を拭った。
「わしらは、神の森に近付くのを恐れているのだ。もっと近くまで乗せてあげたいがあの川までにしてくだされ」
「勿論です。川まで乗せていただくだけでも助かります」
 光祐は、村人に感謝の気持ちを伝えた。
「そういえば、わしが子どもの頃に爺さんが御伽噺をしてくれたことがあった。榊原の血筋の選ばれし者だけが神の森に入ることができ、神の森は地脈を全国に張り巡らせてこの国を守っているのだと。御伽噺だもので忘れておった。お父からは、神隠しに遭うから神の森には近付くなと口をすっぱくして言われたものだ」
 川の丸太橋の前で、村人は光祐と祐雫を降ろした。
「助かりました。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 光祐と祐雫は、村人に頭を下げた。
「この川沿いの道を真っ直ぐに行ったところにわしの家がある。もし、何か困ったことでもあれば訪ねてきてくだされ」
 村人は、現れた時と同じように静かに牛車とともに去っていった。
「さぁ、祐雫、まだ先は長そうだよ。婆やの持たせてくれた麦茶を飲んでから進もう」
 光祐は、背負い鞄から水筒を取り出して、祐雫と一緒にのどを潤した。
「父上さま、ここはとても不思議なところでございますね」
 祐雫は、紺碧の空を見上げながら、夏だというのに身震いした。
「地元の方でさえ、神の社を知らないのだから、手紙が届くはずもない」
 光祐は、小さな溜め息を祐雫に気付かれないようについて、気を取り直して背負い鞄を背負った。
「さぁ、神の森に随分近付いたよ。祐雫、あともう少しの辛抱だからね」
「はい、父上さま」
 祐雫は、汗で濡れた髪の雫を拭って返事をした。
 光祐は、神の森に一歩ずつ近付くに連れて、空気の重さを感じていた。歩みが重く、前方に壁が立ちはだかっているように感じられた。(祐里、迎えにきたよ)光祐は、重い壁を押すように進みながら、祐里のことを想った。
「父上さま、大丈夫でございますか。とても苦しそうでございます」
 祐雫は、光祐の表情を見つめ、何も考えずに前に歩み出た。すると光祐が感じていた空気の重さはすぐに和らいだ。
「祐雫、わたしは神の森から拒絶されているようだ。祐雫が先に歩いておくれ」
 光祐は、大きく息を吸いこんだ。牛車の村人が川を渡らなかった訳が分かるような気がした。もうすでに神の森の領域に足を踏み入れているようだった。不思議なことに祐雫は、暑さも感じずに先ほどよりも元気が沸いてきた。この地の空気がどこか懐かしさを漂わせていた。まるで母の胎内にいた時のような気分を味わっていた。途端に遠くに見えていた神の森が瞬く間に目前に迫ってきた。
「神の森の方から近付いてきたようでございます。あら、父上さま、この樹だけがどこか違うてございます」
 祐雫は、森の入り口の小さな新芽の樹を指差した。黄緑色の儚げな若葉が風に揺れていた。
「これは、桜の樹だよ。珍しいな。この地に桜の樹はないはずなのに」
 北の地では、桜は、家を滅ぼす樹として忌み嫌われていると聞いたことがあった。この地で桜の樹を目の当たりにした光祐は、桜に勇気づけられた。
「きっと、優祐が手がかりに植えたのでございます。柾彦先生から桜の苗木を戴いてきておりましたもの」
 祐雫は、優祐の足あとを発見した気分になって歓喜の声をあげた。
「柾彦くんが桜を持たせてくれたのか」
 光祐は、柾彦が桜川の地で一緒に祐里を守ろうとしてくれていると思うとますます勇気が湧いてきた。
「さて、ここからは、祐雫の思うように進んでおくれ。わたしは祐雫に付いていくことにするよ」
「はい。おまかせくださいませ」
 祐雫は、桜の小さな樹を両手で包んで目を閉じて念じた。(桜さん、母上さまと優祐の元へご案内くださいませ)祐雫は、こころの赴くまま歩を進めた。すると、樹木で蔽われていた前方が僅かに径となって開けてきた。
◇◇◇神の森へようこそ、祐雫。後ろの者は、何故入ってこられたのじゃ◇◇◇
◇◇◇ここは神の森じゃ。余所者が来るところではない◇◇◇
「神の森さま、わたしは、父上さまとご一緒に母上さまと優祐を迎えに来たのでございます」
◇◇◇祐里は、神の子じゃ。誰にも渡さぬ◇◇◇
 大風が巻き起こり、光祐は、祐雫を庇って抱きしめた。光祐と祐雫は、大風に巻き込まれ瞬く間に舞い上がった。奥深い森の中に投げ出された光祐は、意識を取り戻すと身体を打ち付けた痛みに耐え、ゆっくりと起き上がって辺りを見回した。奥深い森は、針葉樹の樹木で覆われ、陽の光が遮られて薄暗くひんやりとした空気に包まれていた。
「祐雫」
 光祐は、大きな声で祐雫の名を叫んだ。光祐の声は、奥深い森に掻き消され、どこからも祐雫の声は、返ってこなかった。
◇◇◇余所者は去るのじゃ◇◇◇
代わりに鋭い神の森の声が響き渡った。
「わたしは、祐里と優祐を迎えに来たのです。一人で帰るわけにはいきません。神の森、祐里はわたしの最愛の妻です。わたしに祐里を帰してください」
 光祐は、生茂った森の樹木を見上げて熱心に訴えた。
◇◇◇それは過去の話じゃ。この森において祐里は、神の守じゃ◇◇◇
森全体が震えて、光祐に針葉樹の千の棘の痛みを容赦なく放った。
「いいえ、この森の中でも祐里は、わたしの妻です」
(祐里、すぐ近くまで来ているというのになかなか側に辿り着けないけれど、ぼくは必ず迎えに行くよ) 光祐は、千の棘の痛みに耐えながら、しっかりと顔を上げて神の森を見つめ返した。

祐雫は、湖の辺に投げ出されていた。ゆっくりと起き上がった祐雫は、ワンピースの土を掃って、白い霧に包まれた湖を見渡した。
「父上さま」
 祐雫は、静かに瞳を閉じて、光祐の気配を窺った。
◇◇◇祐雫◇◇◇
神の森の呼び声とともに湖が虹色に輝き始めた。祐雫は、惹き込まれるように湖に近寄った。湖の水面には、蜘蛛の糸に絡まれた祐里の姿が映し出された。
「母上さま」
 祐雫は、祐里の姿にこころを痛めて手を差し伸べた。
「あっ」
 突然に虹色の靄が祐雫を包み込んで、湖に取り込んでいった。湖は、生贄として祐雫を封じ込めると、若い美しさを吸収してますます美しい虹色に輝いた。祐雫が吸い込まれた湖面には、薄紅色の桜の花弁が祐雫の足跡を示すように、ひとひら浮かんで波紋を奏でていた。

光祐は、重い空気を押して神の森を進んだ。鬱蒼と茂った樹木に遮られて薄日さえ射し込まない暗い森が何処までも続き、方角を見失った光祐は、ただ前に前に進んでいた。大風に巻き込まれて投げ出された時に腕時計が手元から外れて、神の森に入ってからどれくらいの時間が経過したのかもすでに分からなくなっていた。
 ひんやりとした風に乗って、仄かに甘い香りが光祐を誘った。(祐里の香り・・・・・・)光祐は、香りに導かれるままに重い空気を押しながら走った。森が開けたところに湖が広がっていた。どこからともなく優しい風が吹いて、湖面に浮かんでいた桜の花弁が光祐の目前に舞い上がった。光祐が右手を差し出すと、桜の花弁はゆっくりと手のひらに納まった。
「桜、ぼくに力を貸しておくれ」
 光祐は、しっかりと桜の花弁を握り締めた。ふと、視線の先に湖面に浮かぶ祐雫の白い帽子が垣間見えた。
「祐雫」
 光祐は、躊躇無く湖に飛び込んで祐雫を探した。潜っては水面に顔を出して息継ぎを繰り返しているうちに、光祐は、湖の風景が桜池のように思えてきた。桜池の浅瀬でよく祐里と水遊びをしたことを頭の中で懐かしく想い出していた。息継ぎのために顔を上げる光祐の瞳には、湖の周りを満開の桜の木立が覆っているように映った。冷たい湖水がぽかぽかとした春の陽気に照らされて、暖かくなっていくように感じられた。光祐は、桜に励まされた気分になって、潜っては息継ぎを繰り返して、辛抱強く祐雫を探して泳ぎ回った。
 しばらくして、光祐は、水中で虹色の水泡に包まれて眠っている祐雫を見つけて抱きしめた。光祐は、祐雫と共に大きな水泡に包まれて湖の真底へ渦巻く激流に流されていった。水泡は、真底に打つかって破裂した。水泡から投げ出された光祐は、しばらくの間、祐雫を抱きしめたまま気を失っていた。
「光祐さん ・・・・・・。光祐さん、しっかりなさいませ」
 遠い彼方から懐かしい声が波紋のごとく響いてきた。それは濤子おばあさまに似た優しい声だった。
「おばあさま」
 光祐は、目を開けた。抱きしめていたはずの祐雫が桜色の着物を纏った美しい女性に変わって反対に光祐は、女性に抱かれていた。辺り一面には桜の香りが漂い、光祐は、この摩訶不思議な状況下に身を置きながら、女性に抱かれて安らいだ気分に浸っていた。
「お屋敷の行く末は、光祐さんに懸かっておいででございます。祐里さんを救えるのは光祐さんだけでございましょう。しっかりなさいませ」
 美しい女性は、光祐を勇気づけるかのごとく静かに微笑んだ。
「あなたは・・・・・・」
「わたくしは、桜河麗櫻と申します。何時でも光祐さんを見守ってございます」
 光祐は、遠い記憶を辿った。
『旦那さまは桜池のお祭りで美しい娘に出合いました。娘は旦那さまの奥さまになって、旦那さまと一緒に桜の樹を大切にして暮らしました。桜の樹は喜んで、いつまでもいつまでも、桜河のお屋敷を守ってくださいました。とっぺんはらりのひらひらふるる』
 濤子おばあさまの昔話が頭の中に広がると同時に、桜河家先祖代々の墓に桜河麗櫻の名が記されていたことを思い出していた。
「麗櫻おばあさま、必ず祐里を連れ帰ります。ぼくに力をお貸しください」
 光祐は、麗櫻の胸の中でこころに誓った。
一瞬木立の間から眩しい光が射して、我に帰った光祐の腕には祐雫が抱かれていた。
「祐雫、大丈夫かね」
光祐は、祐雫を気遣いながら、ゆっくりと揺り起した。
「父上さま、祐雫は、大丈夫でございます。それよりも母上さまを早くお助けくださいませ。大きな蜘蛛の巣にかかっておいででございます」
 祐雫は、光祐の大きな胸の中で安堵しながら、祐里の痛々しい姿を思い返していた。
光祐は、祐雫の無事を確認して、辺りを見回した。湖は跡形もなく消え失せ、木立に囲まれた祠が目前に現れた。しかも、祐雫共々湖の水に濡れている筈の身体が不思議なことに乾いていた。懐かしい桜の香りに誘われてふと見上げると、祠の扉が音もなく開いて白い狩衣姿の祐里が正座しているのが見えた。静かに目を閉じ、見えない糸で雁字搦めに硬直して、光祐には痛々しく思えた。
「祐里」
 光祐は、こころから労わりの声で祐里の名を呼んだ。祐里は、光祐の声を耳にして静かに目を開けた。愛しい光祐の心配気な顔が瞳に飛び込んできた。(光祐さま、どれほど、お会いしたかったことでございましょう)その瞬間、祐里の胸が鼓動を始めた。
 光祐は、走った。鋼のように固い空気の結界を祐里への愛の力で打ち破るかのごとく突き進んだ。自身が傷つこうとも祐里をこの手に抱きたい想いが先行した。
「祐里、ぼくの大切な祐里。迎えに来たよ」
 光祐は、森中から放たれる千の棘の痛みに堪えて祐里を抱きしめた。
「光祐さま」
 祐里は、消え入るような声で光祐の名を呟き、その胸の中で気を失った。
◇◇◇何故じゃ。この結界を余所者が打ち破るとは・・・・・・おまえは何者◇◇◇
 神の森は、容赦なく光祐に千の棘の痛みを放ち続けた。
「わたしは、祐里の夫です」
 光祐は、やつれた祐里の姿に涙を流した。神の森から受ける痛みなど祐里をこのような目に合わせた後悔の心痛からすればたいしたことではなかった。光祐は、祐里だけをみつめ、その軟らかな唇にくちづけた。全ての愛を込めて祐里に魂を吹き込むように唇を吸った。そのうちに祐里の冷たい頬に赤みが差してきた。
祐雫は、光祐の側に寄り添って、夢中で祐里の左手を握り締めていた。(父上さまは、いつも優しく見守るお方だと思っておりました。これほど激しい感情を顕わにされる父上さまをはじめて拝見いたしました)祐雫は、光祐の力強い愛に驚きながら、感動して身震いしていた。
「光祐さま」
 祐里は、光祐の愛情に抱かれて意識を取り戻した。
「夢ではございませんのね」
 祐里は、右手を伸ばして、頷く光祐の頬に伝う涙を細い指で掬った。光祐の涙は、祐里の手の中の桜を潤わせた。祐里は、その瑞々しい桜の花を光祐の胸ポケットに挿し入れた。同時に光祐の千の棘の痛みは消滅していった。
「祐里、迎えに来たよ。祐雫も一緒だ」
「母上さま、お労しゅうございます。優祐はどちらでございますか」
 祐雫は、祐里の左手を両手で握り締めた。
「祐雫さん、ありがとうございます。私は大丈夫でございます。優祐さんは、この先の社でございます」
 祐里は、一月ぶりに身体の芯から元気が漲ってくるように感じていた。自己の力を封じなくて済む神の森ではあったが、日が経つに連れて光祐が側に居ないことの空虚さがこころに広がって、見えない蜘蛛の巣に絡まれているような気になっていた。光祐の胸に抱かれて安堵したことで、祐里の腕から背中にかけての痛みは癒えていた。
「神の森さま、私は、桜河のお屋敷に戻ります」
 祐里は、きっぱりと断言した。
◇◇◇何故じゃ◇◇◇
 神の声は、森中に響き渡った。
 光祐は、祐里を抱きかかえると祠を後にして社に向かった。
「光祐さま、祐里は光祐さまのお側を離れては生きては行けぬことがよく分かりました」
 祐里は、光祐の首に手を回し、胸に顔を埋めて幼子のように涙を流した。祐雫は、祐里の涙をはじめて見た気がした。祐里は、何時でも悲しげな表情を見せるだけで耐え忍んで涙を見せない母であった。(母上さまは、ほんに父上さまを愛して頼っておいででございますのね)祐雫は、深い愛情で結ばれている父母を改めて誇りに思った。
「祐里、辛い思いをさせてすまなかった。これからは、絶対に祐里を離さないからね。一緒に桜河へ帰ろう」
「はい、光祐さま。嬉しゅうございます」
 祐里は、光祐の深い愛に包まれて蜘蛛の糸が身体から解けていくように感じた。光祐は、祐里を抱きかかえているお蔭で、神の森を楽に移動できた。光祐が進むと上空は青く晴れ渡り、森の樹木が優しい色調に変化していった。いつしか、真夏だというのに光祐の周りには、桜の花弁が舞っていた。この神の森にあっても光祐は、桜の君であった。
優祐は、社で見えない蜘蛛の糸に捕らえられていた。昨夜から祐里が行方知れずになっていたので、探しに出ようと扉に手をかけた瞬間、見えない蜘蛛の糸に絡まれて動けなくなってしまった。もがけばもがくほどに蜘蛛の糸は、優祐を捕らえて離さなかった。仕方なく優祐は、社で祐里の無事を祈っていた。祈りながら、懐かしい気配が近付いてくるのを感じていた。
「祐雫、ぼくはここだよ。父上さまもご一緒なのですね。父上さま、母上さまをお守りください」
 優祐は、こころの中で懸命に祈りながら声援を送った。
社の前では、余所者の気配を感じ、冬樹が両手を広げて立ち塞がっていた。
「何故じゃ」
森中を渡った神の声が冬樹の声と重なった。
「祐里と優祐を連れて帰ります」
 光祐は、祐里をしっかりと抱きかかえて冬樹と対峙した。冬樹は、春樹以外の人間が小夜を抱きかかえている現実を目の当たりにして動揺した。
「小夜は、幻だったのか。そうだった、祐里は、小夜の娘だったな」
 冬樹は、白昼夢から醒めたように頭の中がすっきりして自問自答していた。(わたしは、四半世紀もの間、一体何の為に生きてきたのだろう)冬樹は、自身に問いかけた。その自己への探求とともに森の御霊が冬樹の周りに集まってきた。
 光祐と祐里は、静かに冬樹の変化を見守っていた。
 祐雫は、優祐の気配を感じ、夢中で社に駆け寄り重い扉を外側から力いっぱい引いた。優祐は、内側から祐雫とこころを合わせるように意識を祐雫の腕に集中した。兄妹の絆は呪縛を打破し、再会の喜びで祐雫は優祐を抱きしめた。祐雫が優祐に触れた瞬間、優祐の身体に絡まった蜘蛛の糸が解けた。
「祐雫、ありがとう。すっきりしたよ」
 優祐は、大きく安堵の溜め息をついた。
「優祐、大丈夫でございますか」
 祐雫は、蜘蛛の糸を掃うように優しく優祐の背中を擦った。
 西の方角から霊香と共に爽やかな風が東の方角へ吹き渡った。
「父上の神事が終わった」
冬樹は、東の祠を仰ぎ見た。
 光祐は、しっかりと祐里を抱きしめ、優祐と祐雫は、光祐の元に走って寄り添った。四人の周りには、守護するように桜の花弁が舞っていた。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 神の森◆ 4

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 ...
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八千代が神事の業に西の祠に篭もってから、一月が過ぎようとしていた。八千代は、神の守の交代の神事を密かに執り行っていた。祐里は、潤ってきた神の森を見て回るうちに、桜河のお屋敷が恋しくなっていた。
 ある夜のこと、神の森は、嵐の中で猛り狂っていた。祐里は、風の音で目を覚ましてから寝付けずに(神の森を冬樹叔父さまにお返しして差し上げなければ、いつまでも光祐さまの元へ帰ることができません)と思いながら、窓から外の様子を覗っていた。
 人影が森に消えるのが見えた。冬樹だった。(森で何かが起きたのでございましょうか)祐里は、心配になって冬樹の後を追いかけた。雨は容赦なく祐里の身体を叩いた。祐里は、神の森が道を開けるがままに、叩きつける雨の中を暗闇に吸い込まれるように走った。冬樹の姿は一向に見えなかった。それでも、この先に必ず冬樹がいると確信できた。気が付くと、前方に川が見えていた。いや、暗闇の中で見えたのではなく感じたのだった。崖下の川を見下ろす形で、冬樹は、川の岸壁に佇み、雨に打たれていた。
◇◇◇祐里、吾はそなたに試練を与えよう◇◇◇
◇◇◇冬樹を守り人に推すからにはそれなりの証を吾にみせよ◇◇◇
 神の森は、激しい雨風をぶつけて、祐里に命じた。
 突然に雷鳴が轟き、冬樹の傍らの樹を切り裂いた。
「叔父さま、危のうございます」
 祐里は、冬樹の側に走り寄り、倒れてきた巨木から冬樹を押しのけて庇った。巨木は、祐里の腕と背中を容赦なく打った。
「小夜」
 冬樹は、驚愕の表情で祐里を見つめた。そして、渾身の力を込めて祐里を抱きしめた。祐里は、遠退く意識のなかで映像を見るように冬樹と小夜の姿を見ていた。
「小夜。帰って来てくれたんだね。あれからずっと、死んだものとばかり思っていたよ」
 冬樹の歓喜のこころを映して雨が止み、煌煌とした明るい月が雲を掻き消して輝いた。
「ぼくは、小夜が好きだ。兄上以上に小夜を愛している」
 冬樹は、時間を逆行していた。祐里は、冬樹とともに時間の逆流に巻き込まれていた。
 ・・・・・・・・・春樹と小夜は、神の森と緑が原の境である緑川で、毎日夕刻に待ち合わせをしていた。冬樹は、父が呼んでいると春樹に嘘をついて、先回りして小夜を待ち伏せた。
「私は、冬樹さまを弟のように感じております。私は、春樹さまをお慕いしています」
「嫌だ。小夜は、ぼくのものだ。兄上には渡さない」
 冬樹は、無理やり小夜にくちづけを迫り抱きしめた。
「やめてください。もう、春樹さまに顔向けできません」
 小夜は、咽び泣き、冬樹が涙に驚いて力を弱めた隙に、険しい岸壁から川に身を投げた。その時、一足遅れで春樹が駆けつけて、小夜を助けようと激流の川に飛びこんだのだった。そして、二人は行方不明になった。春樹と小夜は、川下に流れついて、親切な村人の助けで一命を取り留めて緑が原を出て行き、様々な家の手伝いをして旅するうちに、桜山の山番として定住することになったのだった・・・・・・・・・。
 冬樹は、小夜を失ったショックで今の今まで、その時の記憶を自分のこころの中から消し去っていた。春樹は、八千代の反対に遭い、小夜と駆け落ちして消息を絶ったと思い込んでいた。
 我に帰った冬樹の腕の中に気を失った祐里がいた。あの時の小夜に生き写しだった。冬樹は、祐里を抱きかかえて小夜を取り戻したかのごとく東の祠に閉じ込めた。邪魔をした春樹は、もう現れないと思うと口元に笑みが浮かんでいた。その左肩には、邪悪な黒い大蜘蛛が張り付いていた。
 祐里は、神の森が荒れている原因が分かりかけていた。冬樹の淋しいねじれた愛が神の森を荒らしているように思えた。冬樹は、それに気づいていない。それでも、祐里には冬樹が芯から悪い人間には思えなかった。(叔父さまは、淋しいお方・・・・・・何かを置き去りにされていらっしゃいます)祐里は、冬樹のこころに自分のこころを重ねて哀しみを噛み締めていた。
「叔父さま、わたしは、祐里でございます。お母さまではございません。どうぞ雪乃叔母さまの優しさにお気付きになられて、現実にお戻りくださいませ」
 祐里は、夢の中で冬樹のこころに届けとばかりに囁きかけた。
 すると夢の場面が移っていった。
 ・・・・・・・・・春樹と小夜の笑顔があった。
 生まれて間もなくの祐里は、小夜に抱かれて乳を飲んでいた。
「小夜、ほんとうに愛らしい子だね」
 笑顔の春樹が側で小夜と祐里を見つめていた。
「春樹さま、こうして乳を飲ませているだけでしあわせな気分になります」
 祐里は、小さな体で一生懸命に乳を飲んでいた。小夜は、祐里を抱いているだけで産後の体調が戻っていくように感じられた。
「この子は、強い力を持っているようだ。それにしても、右手を固く閉じているのはどうしてなのだろう」
 春樹は、祐里の固く閉じられた右手に触れた。祐里は、生まれてから一度も右手を開かなかった。
「きっと、幸運を握っているのですわ。そのような話を以前に聞いたことがあります」
 小夜は、眠った祐里をそっと布団に寝かせた。
「小夜、見てごらん。お腹がいっぱいになったのだね。しあわせそうな顔をして眠っているよ」
 春樹は、目を細めて祐里を見つめた。
「春樹さま、名前を考えられましたか」
「名前は、お世話になっているお屋敷の光祐坊ちゃんの祐の字をいただいて、祐里に決めたよ。お屋敷の長子は、祐の字を名前に使われるらしい。旦那さまも啓祐さまだし、その由緒ある祐と里を出てきた私たちがこの桜川で恙無く暮らしていける願いも込めて、祐里と名付けることにしたよ」
 春樹は、祐里が女子であったことに内心ほっとしていた。神の守の血筋を引く祐里は、生まれながらにして力を秘めていた。もし男子であれば、必ず神の森が草の根を分けても迎えに来ると確信できた。この桜川に来て以来、春樹は、自分の気配を消していた。不思議と他の力が加わって結界の力を強めて守ってくれていた。
「祐里。大層可愛らしい名前です。お名前をいただいた光祐坊ちゃまにも可愛がっていただけるとよろしいですね」
 小夜は、祐里が生まれるまで手伝いにあがっていたお屋敷の二歳になる光祐の乳飲み児だった頃を思い出していた。奥さまは、産後の肥立ちが悪く床に伏していて、婆やの紫乃と交代で光祐の世話をした。光祐は、利発でお屋敷の後継ぎに相応しい気品を持ち合わせていた。
「祐里は、しあわせになる子だよ」
 春樹は、こころからそう思えた。小夜は、にっこり笑って頷いた。
 月日は巡り、祐里の一歳の誕生日になった。祐里の右手は、相変わらず握られたままで、春樹と小夜の心配を他所に、不自由なく左手だけで日々を過ごしていた。
「小夜さん、こんにちは。坊ちゃまがどうしても祐里ちゃんのお誕生日をお祝いしたいとおっしゃいましたので、一緒に参りました」
 三歳を迎えたばかりの光祐は、紫乃と一緒に、初めて祐里に会いに来たのだった。
「紫乃さん、こんにちは。光祐坊ちゃま、いらっしゃいませ。大きくなられましたね」
「さよ、こんにちは。ゆうりのたんじょうびのおもちです。ゆうりとあそんでもいい」
 光祐は、誕生祝いの紅白餅の箱を小夜に差し出した。
「光祐坊ちゃま、ありがとうございます。どうぞ、祐里と遊んであげてください」
 小夜は、紅白餅の箱を受け取って深々と頭を下げた。
 光祐は、靴を脱いで祐里の側に駆け寄った。
「ゆうり、ぼくは、さくらかわこうすけ。いっしょにあそぼうね」
 光祐は、祐里の右手を取って笑顔を向けた。光祐から手を取られた祐里は、固く握っていた右手をゆっくり開いて、桜の花を光祐に差し出した。
 それを側でみていた小夜と紫乃は、驚きで言葉が出なかった。
「ゆうり、ありがとう。きれいだね。ばあや、ゆうりがおはなをくれたよ」
光祐は、祐里から差し出された桜の花を受け取り、嬉しくて紫乃に掲げて見せた。小夜と紫乃は、二人で顔を見合わせた。紫乃は、小夜から祐里の右手が握られたままで心配していると聞いていた。その右手が一年経ってようやく開いたのだった。それも不思議なことに満開の桜の花を握っていたらしい。
「ほんとうに綺麗な桜のお花でございますね」
 紫乃は、光祐に笑顔で相槌を打ち、桜の花を光祐の上着の胸ポケットに差し入れた。小夜は、祐里の側に走り寄り、開かれた右手に触れて、涙ながらに祐里をぎゅっと抱きしめて喜んだ。祐里は、何事もなかったかのように右手で積み木を積んで、光祐と機嫌よく遊んでいた。
 その夜、仕事から戻った春樹に小夜は吉報を伝えた。
「春樹さま、祐里は右手に桜の花を握っていました。光祐坊ちゃまが遊びに来られた時に開いて桜の花を差し出したのですよ。この辺りの桜は、まだ蕾でしょう。不思議でなりません。それからは、ご覧のように右手を使いますの」
「ほんとうだ、右手を使っている。それにしても、桜の花を・・・・・・不思議なこともあるものだ。これは、祐里が桜の樹に守られているということだろうね。祐里は、しあわせになる子だよ」
「はい。なんだか安心いたしました。私のために神の森を出ることになった春樹さまの御子が、この桜川の地で受け入れられたのですもの」
 春樹は、右手を使っている祐里を抱きかかえて頬擦りした・・・・・・・・・。

 冬樹は、祐里に頬擦りすると明け始めた朝の神事のために仕方なく社に戻って行った。冬樹が閂を下ろして立ち去った祠には、白い霧がたちこめて祐里を愛撫するように包み込んで掻き消えていった。
 祐里は、薄暗い祠の中で、意識を取り戻した。冬樹を助けた時に打った腕を擦って背中から腕に走る痛みに耐えた。祐里の癒しの力は、祐里自身には効かなかった。ただ、不思議なことに光祐が側に居るときは、自身を癒すことが出来るのだった。(光祐さま)祐里は、こころの中で呟いて、ふらふらと立ち上がり祠の戸を押した。外から閂がかかっているようで開かなかった。(優祐さんは、大丈夫でございましょうか)祐里は、社にいる優祐の身を案じた。雨に濡れた狩衣は、祐里の身体に蜘蛛の糸のように冷たく纏わりついていた。
「光祐さま」
 祐里は、心細さでいっぱいになり声に出して光祐の名を呼んだ。光祐の笑顔が蘇った。握り締めた右手を開くと不思議なことに今まで見ていた夢と同じ満開の桜の花が現れた。(桜さん、光祐さまにお会いしとうございます)祐里は、桜の花を両手で包み目を閉じると、光祐との楽しい日々を思い出しながらこころの炎で濡れた身体を温めた。
「神の森さま、叔父さまのこころに森の御霊をお与えくださいませ。叔父さまにお力をお授けくださいませ。お爺さまの息子であられる叔父さまこそが神の守に相応しゅうございます。私は、榊原姓ではなく、桜河祐里でございます。それに光祐さまの妻でございます。神の守には相応しゅうございません」
 祐里は、正座をして薄れていく意識を振り絞ると神の森に訴えかけた。神の森は、祐里の言葉に無言のまま、霧を漂わせながら朝日を浴びて明けていった。
 祐里は、外界から遮断された薄暗い祠の中で、痛みと寒さに襲われて正座をした姿勢のまま、蜘蛛の糸にかかった獲物のように気を失った。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 神の森◆ 3

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 ...
  誘惑

祐里が旅立つと同時に海外事業部の業績が伸びて、光祐の仕事はにわかに忙しくなった。父の啓祐からは、海外事業部の経営を一任されていた。祐里のことをこころの奥で心配しながらも、山積された書類とかかってくる電話の応対で時間が過ぎていった。
 明日朝一番に発注する注文書に目を通して署名をすると、光祐は、机上を片付けてふと窓の外を見た。社屋の明かりを受けて桜の樹に張られた大きな蜘蛛の巣が銀色に鈍く光っていた。(夏になると蜘蛛の巣が多くなるな。明日、遠野に駆除を依頼しよう)光祐は、机上のメモに『蜘蛛の巣』と書き記した。
「副社長、お疲れさまでございます。紅茶をお入れしました」
 副社長室の扉を秘書の森美和子が叩いた。
「森くん、まだ、残っていたの」
 光祐は、先程最後まで残ってくれていた執事の遠野を帰して自分一人だと思っていたので、驚きの表情を美和子に向けた。
「毎日、副社長が大変そうですので、退社したのですが何かお手伝いできましたらと戻ってきました」
 美和子は、辺り一面に牡丹の花が咲いたような愛くるしい笑顔を光祐に向けた。
「そうだったの。森くん、ありがとう。今から帰るところだったのだけれど、折角だから紅茶をいただくよ」
 美和子は、お盆から紅茶茶碗を差し出す時に手を滑らせて牡丹色のスカートを濡らした。床に落ちた紅茶茶碗が音を立てて半分に割れた。
「申し訳ありません。私って、そそっかしくて。痛っ」
 美和子は、割れた紅茶茶碗をお盆に集めながら、破片で指を切った。
「大丈夫」
 光祐は、慌ててポケットからハンカチを取り出して、美和子の血が滲んだ指を止血のために押さえた。美和子は、光祐の手に左手を添えた。
「副社長、ありがとうございます」
 美和子は、熱い視線で光祐を捉えた。光祐は、美和子の熱い視線を浴びながら、しばらくの間、そのまま指を押さえていた。
「もう、大丈夫のようだね」
 光祐は、止血した美和子の指を確認した。
「床を片付けます」
 美和子は、洗面室に雑巾を取りに行き、床に零れた紅茶を拭いた。拭きながら白いブラウスから胸の谷間が覗く角度を取り、若さが漲る足をちらつかせた。光祐は、目のやり場に困り、ロッカーから上着を取り出した。
「森くん、そのスカートでは外を歩けないだろうから車で送って行こう」
 光祐は、遅い時間に手伝いのために戻ってきてくれた美和子の気遣いに感謝していた。
「お疲れのところ、副社長に迷惑ばかりかけてすみません」
 美和子は、ぺこりと頭を下げた。
 光祐は、駐車場から車を出し、美和子に後ろの扉を指し示した。美和子は、気づかないふりをして、前の扉を開けて助手席に乗りこんだ。車のライトで照らし出された桜の樹では、今まさに大きな蜘蛛が巣にかかった獲物を捕らえようとしていた。
「森くんの家は、確か雲ヶ谷だったね」
 光祐は、助手席に座った美和子の短いスカートから伸びる美しい足に誘惑されそうな気分になり、慌てて視線を逸らした。
「副社長、家には帰りたくありません。今夜は副社長と一緒にいたいのです」
 美和子は、車を発進させようとした光祐に縋りついて強引にくちづけた。入社したその日から、美和子は、年上の光祐がとても頼もしく光り輝いて見えて一目惚れした。光祐は、突然の美和子の大胆かつ情熱的な行動に驚いて、蜘蛛の巣に掛かった獲物のように一瞬動きが取れなくなった。その時、何処からともなく一陣の風が吹いて桜の葉をざわざわと音をたてて揺らした。光祐は、桜の葉音で我に帰って、優しく美和子を離した。
「森くん・・・・・・わたしは、君の上司で、妻も子もあるのだよ。何か困ったことがあるのならば相談にはのるけれど、森くんのことは社員以上には考えていないよ」
 光祐の心臓は高鳴り、真夏の夜の誘惑に引き擦り込まれそうになっていた。
「だって、副社長の奥さまは、実家に帰られて別居中なのでしょう。淋しくはないのですか。それにもうすぐ、離婚されるのでしょう。美和子は副社長が大好きです。美和子が副社長の淋しさを埋めて差し上げたいのです」
 美和子は、恋するまなざしを光祐に向けた。潤んだ大きな瞳は、きらきらと輝いて、美和子の愛くるしさを際立たせていた。(ほんとうに率直な可愛い娘だな)光祐は、思ったことをそのまま口にする美和子に心惹かれて、魅惑の糸に手繰り寄せられそうになりながらも、毅然とした顔で諭した。
「森くんは、誤解をしているようだね。確かに妻は、所用で実家に戻ってはいるが、わたしたち夫婦は離婚などしないよ。わたしは、妻を愛している。このまま、送っていくとわたしが君に何かおかしなことをしたように思われそうだね。とにかく、その洋服だけでもどうにかしなければ・・・・・・森くんには、これから多くの出会いがあるのだから、もっと自分を大切にしたほうがいいね」
 光祐は、美和子の誘惑を断ち切るように車を発進させ、波立つこころを抑えて、深まる闇の中に車を加速した。薫子と紫乃が上手く事を大袈裟にせずに処理してくれるだろうと考えて桜河の家に向かった。美和子は、狭い車中で光祐と二人だけの時間が持てたことに胸がいっぱいで、車を運転する光祐の真剣な横顔を瞬きもせずに見惚れていた。
「素敵なお屋敷ですね」
 玄関の車寄せで車を降りた美和子は、お屋敷の大きさに感心していた。
「母上さま、ただいま帰りました。秘書の森美和子くんです。申し訳ありませんが、森くんに何か着替えをお願いしたいのですが」
 光祐は、玄関に迎えに出た薫子に美和子を紹介した。
「おかえりなさいませ、光祐さん。遅くまでお疲れさまでございました。まぁ、どうなさったの。森さんは、こちらへどうぞ。紫乃に着替えを出させましょうね。すぐに夕食にいたしますので光祐さんも着替えていらっしゃい」
 薫子は、光祐の白いシャツの襟元に付いた口紅と美和子の濡れた洋服に驚きながらも、顔色を変えずに答えた。わざわざ光祐が美和子を連れてきたには理由があるはずだと感じていた。薫子は、自室に美和子を案内して長椅子をすすめると、紫乃に着替えを持ってくるように声をかけた。紫乃は、納戸に行き、祐里のワンピースを取り出した。
「スカートの染みは、紅茶かしら。火傷はなさいませんでしたの」
 薫子は、若さを誇る美和子のはちきれそうな身体を見つめた。
「はい。そそっかしいものですから。奥さま、夜分にお邪魔して申し訳ありません」
 美和子は、悪びれる様子もなく、薫子の問いにはきはきと答えた。
「お家の方が心配されてございましょうから、わたくしから電話をかけましょうね。今夜は、当家にお泊まりなさい。電話室はこちらでございますので、ご一緒にいらしてね」
 薫子は、廊下の電話室で美和子に受話器を渡して、電話交換手に電話番号を伝えるように指図した。美和子は、素直に従った。
 しばらくして、電話の呼び出し音が鳴り響いた。薫子が受話器を取ると、交換手が森家に電話を繋いだ。
「夜分に申し訳ございません。わたくし、桜河電機の桜河薫子と申します。美和子さんに残業していただいて遅くなってしまいましたので、今夜は当家でお預かりさせていただこうとお電話を差し上げた次第でございます。御許しいただけますでしょうか」
「まぁ、奥さまでございますね。いつも美和子がお世話になってございます。それにお泊めいただくなんて申し訳ございません。こちらこそ、ご迷惑ではございませんか」
 美和子の母・美律子は、恐縮して答えた。
「いいえ、大切なお嬢さまに残業していただいたのは、こちらでございますもの。それでは、美和子さんをお預かりいたします。明日の朝には、こちらからお送りさせていただきます。今、美和子さんと代わりますので少々お待ちくださいませ」
 薫子は、美和子に受話器を手渡した。
「美和子、なかなか帰って来ないので、心配しておりましたのよ。社長さまのお宅にご迷惑をおかけするなんて甚だ失礼なことでございます。今夜は遅うございますのでしかたがございませんが、くれぐれも失礼のないように気をつけるのでございますよ。お父さまには、私からよく説明しておきますので。奥さまによろしく伝えてくださいね」
「はい。お母さま。それでは」
 美和子は、受話器を置いて、薫子について部屋に戻った。
「紫乃、着替えをお願いします。それから、こちらの紅茶の染みは取れるかしら」
 薫子は、美和子のスカートの染みを指した。
「紫乃にお任せくださいませ。お嬢さま、こちらにお着替えくださいませ。ブラウスとスカートは明日までに綺麗にいたします」
 紫乃は、優しく微笑み、衝立の後ろに美和子を案内した。 
「ありがとうございます」
 美和子は、衝立の後ろで渡されたワンピースに着替えた。微かに甘い香りがした。香りを嗅ぐと美和子は、少し自分の率直な行動が恥ずかしくなっていた。
「祐里さんのワンピースがよくお似合いでございますわね。美和子さん、着替えたお洋服は紫乃に渡してくださいね。それから、紫乃、お食事をお願いします」
「はい、奥さま」
 美和子は、紫乃に頭を下げてブラウスとスカートを渡した。いつも、どちらかというと濃い色の洋服を着る美和子は、祐里の薄い若葉色のワンピースに違和感を抱いていた。何故だか攻撃的で才女を気取る自分が優しい気分になっているのに驚いていた。(洋服は、持ち主の雰囲気に纏った者を染めるのかしら)美和子は、創業記念パーティで二度ほどみかけた祐里の慎ましやかな美しさを思い出していた。控えめでありながら薫子の優雅さに劣らず、自ずと祐里の周りには人が集まっていた。
「美和子さんは、光祐さんの秘書になられて、どれくらいなの」
「四月からですので、四ヶ月くらいです。それまでの二年間は執事室でした」
「遠野の眼鏡に適ったのでございますね。それではとてもお仕事がおできになるのでしょう。さぁ、お腹がおすきでしょう。食堂にご案内しましょうね」
 薫子は、執事の遠野が認めた才媛の美和子と接して、雰囲気が違うと思いながらも祐里が帰って来たような感じを抱いて食堂に案内した。薫子は、祐里のいない毎日が淋しくてしかたがなかった。
 光祐は、祐里が旅立って以来、洋館の自室に戻って来ていた。薫子の視線を思い出しながら、部屋に入り洋服箪笥を開けて鏡を見て驚いた。白いシャツの襟元にしっかりと美和子の口紅が付き、唇も薄っすらと紅色に染まっていた。慌てて洋服箪笥から、シャツを出して着替えると洗面室で顔を洗った。(最近の若い女性は早急だな。あの時、風が吹かなかったら、誘惑に負けていたかもしれない。祐里、このようなことになってしまって申し訳ない)光祐は、祐里と離れて暮らすうちに、淋しさからかこころに隙を作ってしまった自己を洗面室の鏡に写し出して反省していた。
 光祐は、格子の扉を開けてバルコニーに出た。桜の樹は、深緑の葉を青々と繁らせて光祐に涼しい風を送った。
「桜、今宵は、祐里が恋しいよ。祐里をこの手で抱きしめたい」
 光祐は、桜の樹に胸の想いをぶつけた。愛するのは祐里だけだと想いながら、身体が若い美和子に反応していたことが悲しかった。桜の樹は、静かに葉を揺らして光祐の話を聞いていた。月夜の庭を眺めながら桜の樹に話しかけるうちに、光祐のこころの漣は、次第に鎮まっていった。
「光祐さま、祐里は光祐さまを信じてございます。離れていましても、こころは光祐さまに添うてございます」
 風に乗って祐里の声が聞こえたように光祐には思えた。
「祐里、ぼくを信じておくれ。ぼくは祐里だけを愛しているよ」
 光祐は、上空の明るい月を見上げて、祐里に届けとばかりに囁いた。
 光祐が食堂に入ると、美和子が席に着いたところだった。祐雫も勉強を終えて、光祐の車の音を聞きつけて食堂に来ていた。
「父上さま、お帰りなさいませ。お疲れさまでございます」
 桜色の浴衣を着た祐雫は、祐里の面影を見せていた。光祐は、祐雫の笑顔に寛いだものを感じた。
「ただいま、祐雫。秘書をしてくれている森美和子くんだよ」
 美和子は、理知的な光祐の表情が、柔和で家庭的な表情に変化しているのに気付いた。
「こんばんは。祐雫でございます。父上さまがお世話をおかけしてございます」
 祐雫は、祐里のワンピースを着ている美和子に懐かしい想いを抱きながら丁寧にお辞儀した。
「こんばんは。祐雫さん。とても浴衣がお似合いですね」
「ありがとうございます。今夜は、お泊まりになられるのでございましょう。祐雫のお部屋でご一緒いたしましょう」
 美和子は、お屋敷の優しい雰囲気に包まれて不思議な気分を味わっていた。入社して以来、光祐に憧れて恋い焦がれていた自分の熱い想いが穏やかなものに変わっていった。
 風呂上りに祐里の浴衣を纏った美和子は、祐雫の部屋に案内された。
「とても、よい香りのお部屋ですね」
 なんともいいがたい気持ちを落ち着かせる仄かな甘い香りが香っていた。
「母上さまの香りでございます。このお部屋は、子どもの頃から母上さまがお使いでございましたので、今でも母上さまの香りがしてございますの」
 祐雫は、この部屋にいるといつも祐里と一緒に居る気分になった。
「えっ、子どもの頃からですか」
 美和子は、不思議に思って問い返した。
「はい、母上さまは、子どもの頃に父母を亡くされて、それから父上さまと兄妹のようにお屋敷でお世話になってございましたの。父上さまと母上さまは、初恋を実らせられたのでございます。御伽噺のようでございましょう。母上さまは、シンデレラガールなのでございます」
 祐雫は、布団を並べて敷きながら美和子に微笑みかけた。美和子は、机の上の家族写真に目を止めた。光祐の横で幸せに包まれている祐里を見つめた。永久の愛が感じられて美和子は、自分の行いが恥ずかしくなって目を伏せた。
「運命的な巡り合わせ・・・・・・母上さまは、とても素敵なお方ですのね」
 美和子は、祐里の優しさにすっぽりと包まれたような気分になっていた。
「はい。祐雫は、よく母上さまにやきもちを妬いてしまうのでございますが、お屋敷の皆は母上さまが大好きでございますの。母上さまが里に帰られてからは、お屋敷はとても淋しゅうなりました」
「そのようでございますね。副社長も淋しげでしたもの」
だからその淋しさに入り込もうと美和子は思っていた。しかし、この写真の祐里は、写真の中にいても家族のこころをしっかりと掴んでいた。美和子は、甘い香りに包まれて、すっかり光祐を誘惑する気が失せていた。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 神の森◆ 2

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 ...
  神の森

祐里は、静寂の中で目を覚ました。遠くで夜明けを告げる鳥が鳴いていた。隣の布団では、優祐が静かな寝息をたてていた。祐里は、優祐を起こさないように静かに起き上がって着替えをした。
 外に出ると、闇夜が白みかけていた。外気が冷たく感じられた。祐里は、誘われるように、朝露と靄に覆われた森に入った。祐里の身体の奥深くで、森は懐かしい音色を奏でていた。一度も訪れたことのない森が祐里を受け入れていた。祐里は、母に抱かれているような優しい心地を感じて大きく深呼吸した。森の空気が血液を通して祐里の体全身に行き渡っていった。神の森は、祐里の中に流れる榊原家の血筋をすんなりと受け入れていた。
◇◇◇おかえり、祐里。吾は、そなたを長い歳月待っていた◇◇◇
 森の奥で声が木霊した。耳に聞こえたのではなく、こころに響いていた。
「神の森さま、私は、帰って参ったのではございません。冬樹叔父さまのお手伝いに伺っただけでございます。それにお父さまの生家を見とうございましたので」
 祐里は、声に出して神の森に答えた。
◇◇◇吾には、そなたが必要じゃ◇◇◇
 神の森は、祐里を歓迎してその力を試すかのごとく、つむじ風を吹きつけて祐里を抱きしめた。祐里は、舞い上がるスカートの裾を押さえて力いっぱい地面を踏みしめた。祐里の黒髪が螺旋を描いて樹の枝のごとく上昇し、ふわりと舞い降りた。
「そなた、神の声が聴けるのか」
 驚愕の表情で、榊原冬樹は、祐里の前に現れた。昨夜遅くに兄・春樹の娘が着いたと聞かされていた。その娘が朝の見回りをする冬樹の前に現れて、神の森と対話していた。
「おはようございます。冬樹叔父さまでございますか。お初におめにかかります。桜河祐里と申します」
 祐里は、深々とお辞儀をしてから、ゆっくりと冬樹をみつめた。
(冬樹叔父さまは、お父さまに似ていらっしゃるのかしら)
 祐里は、冬樹の中に父の面影を見ようとした。
「桜・・・・・・神の森に相応しくない名前だな」
 冬樹は、冷たい視線を祐里に向けた。冬樹は、幼い時に母を亡くし、春樹が毎日神の森の外れで会っていた小夜を木陰から見るにつけ母親のように慕っていた。その甘い想いがいつしか初恋に変わっていた。七つ年上の春樹は、万事が冬樹よりも先行し、冬樹は、後を追いかける事しかできなかった。自己の不甲斐無さと恋い慕う小夜を連れて姿を消した春樹の身勝手さへの怒りがふつふつと蘇った。春樹が行方不明になってから、森の長たちが『冬樹を後継者に』と声を揃えて進言するにも拘わらず、未だに八千代は春樹を忘れられずに娘の祐里を捜し出して戻って来た。そして、今、神の森がこの得体の知れない娘を必要としたのを目の当たりにした。冬樹は、春樹に対する悔しさでこころが漆黒の闇に滾っていた。
「何故でございますの」
 祐里は、冷ややかな敵意を感じた。父の優しい声の思い出を壊された気がした。
「桜は、神の森を枯らす樹だからな」
 冬樹は、春樹への怒りから祐里に冷たい言葉をぶつけながら、それでいて視線を反らしていた。小夜の優しい笑顔がこころの奥からじわじわと蘇ってきていた。
「そのようなことはございません。桜の樹は何時も私を守ってくださいました」
 祐里は、驚いて冬樹をしっかりと見つめた。桜が神の森を枯らす樹であるならば、初めから神の森は、自分を排除する筈だと思った。
◇◇◇冬樹、こころを磨け。吾は、曇ったこころの守り人は要らぬ◇◇◇
 神の森から、戒めの声が聞こえてきた。
「神の森さま、叔父さまのこころは曇ってなどおりません」
 祐里は、思わず口にして冬樹に走り寄り手を握っていた。冬樹からは、痛いほどの淋しさが感じられた。
「神の森までが、私を拒絶するのか」
 冬樹は、祐里の手を振り切り、拳を握り締めて森の奥へ進んだ。祐里は、言い知れない哀しみを感じながら、霊香漂う朝靄に消えて行く冬樹の後姿をしばらく見送って佇んでいた。樹々の間から洩れる朝日が祐里の顔に射し込んで、靄が次第に晴れていった。
祐里は、気を取り直して社に向かった。途中、折れ曲がっている樹の枝が冬樹のこころのように痛々しく思えて何気なく触れた。と同時に樹の枝は、元通りに繋がり青々として風に揺れた。祐里は、懐かしい気分に浸り、生まれてからずっとこの地で生きて来た錯覚に陥った。何もかもが子どもの頃から見知った風景に思えた。
「おはようございます。母上さま。朝の散歩でございましたか」
 優祐が起きて布団を片付けていた。
「ええ。おはようございます、優祐さん」
 祐里は、優祐の笑顔に励まされてほっと安堵していた。
「お台所の手伝いをして参りますので、優祐さんは、朝食までゆっくりなさいね」
 祐里は、廊下を渡って台所へ向かった。
「雪乃叔母さま、おはようございます。手伝いをさせていただきます」
 祐里は、台所で朝食の支度をする叔母の雪乃に声をかけた。
「祐里さま、おはようございます。父上さまから祐里さまは、神の御子と聞いてございます。そのようなお方に台所のお手伝いをしていただいては、罰が当たってしまいます」
 竈の火加減を見ていた雪乃は、祐里の声で振り返ると驚いた顔を向けた。
「まぁ、そのようなことはございません。私は、お爺さまをお送りして、お父さまがお生まれになられた地を拝見しに伺っただけでございます。しばらくお世話になりますので、どのようなことでもご遠慮なくお申し付けくださいませ」
 昨夜、初めて会った時から祐里は、物静かで森の空気のように澄んだこころの雪乃に好感を持っていた。

優祐は、布団を片付け終わると竹刀を持って庭に出た。朝の稽古は、一日の始まりだった。稽古を終えて手拭いで汗を拭きながらふと目をやると、庭の奥には緑を湛えた神の森が広がっていた。
「奥深い森だなぁ。それにしても空気が清々しい。身体の中から力が漲ってくる感じだ」
 優祐は、竹刀を持ったまま誘われるように森に足を踏み入れた。森は、静寂に包まれて優しい風を優祐に送っていた。デジャヴュ・・・・・・優祐は、この森を見た気がしてならなかった。生地の桜山に続く森とは異なった針葉樹の森だったがどこか懐かしく感じられた。祐里の芯の強い優しさに似ている気がした。森を見回して振り向いた優祐は、それ程分け入ってないにもかかわらず、すっぽりと森に包まれていて驚いた。森の入り口が見当たらなかった。今、歩いてきた径さえ途切れていた。
「おかしいな。まだ、数歩も歩いていないのに。母上が心配されては困るなぁ」
 優祐は、目を閉じて深呼吸をした。そして、全神経を耳に集中した。
◇◇◇優祐、おかえり。神の森へようこそ◇◇◇
 優祐のこころの奥で声がした。
「誰。どうして、ぼくの名前を知っているの」
 優祐は、こころの声に答えた。
◇◇◇吾は神の森、榊原の血筋を引き継ぐ者を歓迎する◇◇◇
「ぼくは、桜河家の後継ぎですよ。でも、神さまの森は、一目で大好きになりました。夏休みの間は、ここにいますから、どうぞよろしくお願いします」
 優祐は、神の森を友だちのように感じていた。
◇◇◇優祐、吾は、そなたを気に入った◇◇◇
「神さま、母上が心配されますので、ぼくは、そろそろ社に戻らなければなりません」
 優祐が言い終わらないうちに背後の森が開けて社が現れた。
◇◇◇優祐、いつでも遊びにくるがよい◇◇◇
 神の森は、優しい風で優祐を取り巻いた。
「ありがとうございます。また来ます」
 優祐は、神の森にぺこりとお辞儀をして社に戻った。

 祐里と別れて森の奥へ分け入りながら、冬樹の胸中は波立っていた。死んだものと思って忘れていた春樹と小夜が、祐里という娘となって突然目前に姿を現した。神の守は、男子と暗黙のうちに決められていた筈が、神の森が一目で祐里を認めていた。今朝は、神の森が最近では珍しく穏やかな表情を見せていた。朝の見まわりで、樹々が青々と潤い、朝露に輝いているのを見るのはここ何年もないことだった。森からは久しぶりに豊潤な香りが漂い、朝靄に乗って森全体が虹色に輝いていた。神の歌声が澄み切った空気を揮わせて森全体を蔽っていた。冬樹は、神の森の声を聞くまでに十年かかった。それなのに突然現れた祐里は、その朝から神と対話し、森の表情までも落ち着かせていた。神の森に意見して冬樹を気遣った祐里の優しい手の温もりがまだ残っていた。(何故にあの娘にそのような力があるのだろう)いくら考えても、冬樹には皆目分からなかった。

朝食を終えてから、八千代は、祐里に白い狩衣を纏わせて、祐里と優祐を神の森に案内した。八千代が一歩を踏み出すだけで、神の森は、大きく開けていった。
◇◇◇八千代、祐里は、素晴らしい後継者だ◇◇◇
 神の森は、森全体を震わせて喜びを表現した。
「お褒めに預かり光栄でございます」
 八千代は、満足して神の森に大きく頷き返した。祐里の周りには、野鳥が飛翔して美しい声で囀った。風が涼やかに渡り、緑の香気を運んできた。神の森は、息吹を取り戻しつつあった。
「祐里、神の森がそなたを歓迎しているぞ。そなたは、神の御子じゃ」
 八千代は、上機嫌で何度も祐里に頷いた。祐里は、八千代の満悦な様子に口を挟めずにただ微笑んでいた。八千代は、神の森で出会う榊原の血筋を引く森の長たちに祐里と優祐を紹介して回った。森の長たちは、すんなりと祐里と優祐を歓迎し受け入れていた。
 祐里は、枯れかけた葉や折れた枝を歩きながら触った。祐里に触れられた樹木は生き生きと潤い蘇っていった。祐里は、自分の身体から漲る生命の力を溢れんばかりに感じていた。今まで抑えられていた生命の力だった。祐里自身、気付かなかった力だった。いや、気付かないように封印していた力だった。病を患った濤子は、可愛がっていた祐里を「病が移るから」という名目で死ぬ間際まで近付けなかった。死ぬ間際になって、枕元に祐里を呼び、桜の樹を託した。
「わたくしは、四十過ぎてから授かった啓祐さんを立派に育て上げることができました。もう思い残すことはございません。そろそろ愛しい旦那さまの元に参ります。祐里が側にいると病が治って旦那さまの元に逝けませぬ。祐里を嫌うて会わなかったわけではないのですよ。祐里には病を治す力があるようです。祐里、その力を忘れて光祐としあわせにおなり。それから、庭の桜の樹は、桜河家のお守りの樹ですから、わたくしの代わりに大切にしておくれ」
 祐里は、忘れていた濤子の言葉をこころの中で蘇らせていた。人々を癒していた不思議な力・・・・・・祐里は、この力のためにいつの日か光祐と離れる日が来るような気がしてならなかった。その反面、本来の力を自由自在に発揮できる神の森に居心地のよさを感じてもいた。優祐は深緑の森に祐里が溶けて同化していくようで心配になった。祐里の白い肌が透明になり森の緑に透けて行くように感じられ、慌てて祐里の腕を掴んでいた。優祐の中で桜河家の血筋と榊原家の血筋が鬩ぎ合っていた。
「祐里は、生まれながらにして神の御子なのじゃ。わしが教えなくとも神の森に受け入れられておる。桜河家には悪いが祐里こそが神の守なのじゃ」
「お爺さま、神の守は、冬樹叔父さまでございます。私ではございません」
 満足しきった八千代に、祐里は、真剣なまなざしで訴えた。
「それは、神の森がお決めなさることじゃ」
 八千代は、祐里の言葉を遮るように言い放った。
「いいえ、お爺さま。冬樹叔父さまをしっかりとご覧になられてくださいませ。お爺さまのおこころ次第で冬樹叔父さまは、神の守に相応しゅうなられると思います」
 祐里は、必死になって冬樹を庇い、八千代に意見をした。
「そなた、わしに意見をするのか」
 八千代は、先代から神の守を継承して以来、何人からも久しく意見をされたことがなかった。八千代は、驚きながらも、はっきりとした意見を持った祐里をますます後継者として相応しく感じた。
「お爺さまの優しさに甘えて言葉が過ぎました。お許しくださいませ」
 祐里は、八千代を敬って頭を下げた。
「まぁ、よい。わしは、今夜から神事の業に西の祠に篭もるので、何かあれば嫁の雪乃に言いなさい。そなたは、明日から神事の業が終わるまで、優祐と一緒に少しずつ神の森を見て回っておくれ。神の森では、それぞれの長たちが協力してくれるじゃろう」
 八千代は、上機嫌で、祐里と優祐を連れて神の森から社に戻った。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 神の森◆ 1

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 ...
桜  物  語   追  章   神  の  森


   宿命

神の森は、ざわめいていた。社を守る神の守が交代の時を迎えようとしていた。
 榊原八千代は、長い間行方不明になっている長男の榊原春樹を探していた。思いの方角へ捜索に人を遣わしたが不思議なことに行方が判らなかった。春樹の結界の力か、はたまた、未知の力が及んでいるようにも感じられた。思い起こせば、春樹の力は、生まれながらにして強く、神の守の風格を備えていた。弟の冬樹とは比べものにならなかった。それ故に八千代は、春樹に期待していた。突然、里の小夜と結婚したいと言い出して猛反対すると姿を消した。その足あとを途中までは辿ることができた。にもかかわらず、突然、春樹の気配が掻き消えた。八千代は、恐れていた春樹の死を自ら確認する決心をして、春樹との決別を果たす旅に出た。

 優祐は、本人の希望と光祐の決断で、都の中学校には進学せずに星稜学園中学校に進学した。自分よりも勉強熱心な祐雫が女であるが故に都の学校に進学できないのにひとりで行くには気が引けた。優祐は、祐雫の学力を尊重していたし、また、強気な祐雫の内面の繊細さもよく理解していたので、祐雫と離れて都に行く気になれなかった。優祐は、何時でも先ず人の気持ちになって考える優しい性格に育っていた。祖父の啓祐は落胆していたが、父の光祐は理解を示して、他の家族も内心喜んでいた。
 優祐は、剣術の稽古の帰りに白髪の老人から声をかけられた。
「坊ちゃん、あちらに見えている山に行くには、どう行けばよろしいかな」
 老人は、しばらくの間、桜山と対峙するように向き合っていた。
「桜山ですね。桜川をずっと辿って行けばすぐに分かりますよ。でも、今からでしたら随分時間がかかりますので、到着する頃には暗くなってしまいます」
 優祐は、桜川の上流へ続く道を指し示しながら老人に道を教えた。
「坊ちゃんの言う通りだね。今夜は、宿に泊まって明日の朝から出かけるとしよう」
 老人は、遥かな道程を見つめ、優祐に視線を移した。途端に懐かしい想いが胸に溢れた。遠い昔に帰ったような気分になっていた。
「よろしければ、ぼくがご案内しましょうか。明日は、日曜日で学校が休みですので」
 優祐は、旅の老人をひとりで桜山に向かわせるのが心配になっていた。
「さようか。それならばお願いするかな。わしは、榊原八千代と申す。そこの桜旅館に宿をとるからね」
 八千代は、桜旅館の看板を指差した。そして、明日も優祐と会えると思うと久しぶりにこころが嬉々としていた。春樹の消息を探しにきた土地で、春樹の面影を持ち合わせた子どもに出合えた事は偶然の成り行きとは思えなかった。この子どもは春樹の消息の手がかりを握っているに違いないと思えた。
「ぼくは、桜河優祐と申します」
 優祐は、表情が柔らかくなった八千代に親しみを感じた。
「桜河優祐くんか。ここは、どこもかしこも桜ばかりなのだね」
「はい、桜は、この桜川地方を守護する大切な樹ですので、至る所に植えられています。春の桜の季節は、絵にも描けない美しさです。明日の九時に桜旅館に迎えに行きます」
 優祐は、八千代に一礼して家路についた。
優祐は、光祐に八千代のことを報告して、桜山への道案内の許可を申し出た。
「全く知らない方と二人だけでは心配だから、爺にお願いしてごらん。桜山までの道は、ご年配の方の足では大変だろうからね」
「はい、父上さま」
「優祐だけでは、心配だから、祐雫も一緒に行って差し上げるわ」
 祐雫は、わくわくして横から口を挟んだ。
「ご案内が終わりましたら、一度、お屋敷へお連れしてくださいませ。山歩きでお疲れでございましょうからご休憩していただきましょう」
「はい、母上さま」
 祐里は、胸の内がざわめいていた。優祐を道案内に出してはいけないような気分になりながら、それでいて出さずにはいられないような宿命を感じていた。胸の内のざわめきは何時までも治まらなかった。
「祐里、気になることでもあるの」
 光祐は、寝室で、神妙な表情の祐里を気遣った。
「何故でございましょう。あまりにしあわせ過ぎまして、空恐ろしゅうございますの。光祐さま、どうぞ祐里を離さないようにしっかりと抱いてくださいませ」
「しあわせなことはよいことなのだから、何も心配しなくとも大丈夫だよ」
 光祐は、優しく微笑んで、怖がる祐里を力強く抱きしめた。

 次の日は、朝から晴れ渡り、白い薄雲が桜山の裾野にたなびいていた。
「爺、おはようございます。今日は一日、よろしくお願いします」
 優祐は、朝食を終えると弁当と水筒の包みを持って森尾の車に乗り込んだ。
「優祐、遅うございます」
 祐雫が既に車に乗りこんで微笑んでいた。
「優坊ちゃん、おはようございます。こちらこそよろしくお願いします。さて、出発いたします。祐里さま、行って参ります」
「森尾さん、よろしくお願いします。優祐さん、祐雫さん、気をつけていってらっしゃいませ」
 祐里は、玄関の車寄せで手を振って見送った。見送りながら異様な気分に襲われていた。それが何かは分からなかった。今までに感じたことのない懐かしい気分と得体の知れない恐ろしさが交錯していた。
「桜さん、何かが起こりそうな気がいたします。どうぞ桜河の家族をお守りくださいませ」
 祐里は、桜の樹に手を合わせて祈った。
午後二時を回った頃に森尾の車が玄関の車寄せに戻ってきた。光祐と祐里は、車の音を聞きつけて迎えに出た。車から降りた八千代は、祐里を見るなり驚愕の表情を見せた。
「そなたは・・・・・・」
祐里は、光祐の背中に隠れた。
「祐里をご存知なのですか」
光祐は、八千代と祐里を交互に見つめ、背後で震える祐里を気遣った。八千代は、祐里の元へ駆け寄ろうとした瞬間、長旅の疲れと心労でその場に崩れた。
 光祐は、八千代を背負い、客間の布団に寝かせた。祐里は、八千代の手を握って座っていた。
「祐里、知り合いの方だったの」
 光祐は、訳が分からずに祐里に問いかけた。
「いいえ、はじめてお会い致しました」
 祐里は、蒼白な顔で光祐を見つめ返した。
「光祐さま、こちらは、私のお爺さまでございます。不思議に思いますがそのように私の中で声がいたします。私を捜しに来られたのでございます」
「祐里を捜しに・・・・・・だが、祐里は、ぼくの妻だよ。幼子ではないのだから今更連れて行くわけにはいかないだろう」
光祐は、突然の祐里の言葉に戸惑っていた。祐里を桜河の家に引き取るときに父は、ありとあらゆる手段で祐里の素性を調べた筈だった。それが今になって祖父らしき人物が出現するとはまさに青天の霹靂の気分だった。祐里は、静かに八千代の手を握って目を瞑っていた。
「そなたは・・・・・・」
八千代は、気がついて祐里を見つめた。
「祐里と申します。あなたは、いえ、お爺さまは、私を捜しに来られたのでございますね」
「祐里と申すのか。わしは、春樹の消息を確かめに来たのじゃ。だが、死んだのじゃな。死んでからもあやつは、結界を張り巡らしてそなたを隠しておったらしい。それに何かの強い自然界の力が加わっておる。わしは、この地に来てから体調が悪うなった」
 八千代は、祐里の手を通して癒しの力を感じていた。気分が少しずつ楽になってきていた。
「確かに私の父は、榊原春樹と申しますが、私は、今では桜河の人間でございます」
 祐里は、光祐と婚約してからの十七年間のしあわせに想いを巡らせていた。
「おお、桜じゃ。強い力は、この地の桜の樹から発せられているのじゃ。それにこの屋敷からもな。余程、おまえを守りたいとみえるな」
 八千代には、祐里を守って幾重にも張られた強い結界が見て取れた。
「榊原さま、もうすぐ、お医者さまが参りますので、今日はこちらでゆっくりされてください。お話はそれからでもよろしいでしょう」
 光祐は、八千代の身体を案じた。
「突然に現れてこの体たらくだ。申し訳ない。そなたが祐里の連れ合いだね。祐里を大切にしてくれているのじゃな」
八千代は、光祐に微笑みかけて静かに目を閉じ、祐里の優しい手の温もりに包まれて安らかな眠りに落ちていった。
鶴久院長の往診で、八千代は、疲労からくる一過性の貧血で安静にしていれば大事には至らないとのことだった。
「祐里は、しあわせなのじゃな」
 八千代は、深い睡眠から覚めて診察を終えると、側に座っている祐里に話しかけた。
「お爺さま、私は、とてもしあわせでございます。父母を三歳で亡くしてから現在まで、このお屋敷で大切に育てていただきました。そして、何よりも光祐さまが私を力強くお守りくださいます」
「そのようだな」
 祐里のしあわせな表情に反して、八千代は、こころを曇らせていた。祐里が春樹の娘だと分かった以上、守人の交代の時期を迎えている神の森に、是非とも連れて帰らなければならなかった。祐里の癒しの力は、今の神の森に必要不可欠なものだと瞬時に感じられた。三歳の時に八千代が引き取り育てていれば、祐里の力は、絶大なものになっていたに違いなかった。春樹にはその力が分かっていたに違いない。だからこそ、神の森に居所を突き止められた春樹は、祐里の俗世間でのしあわせを願って、自分の魂と引き換えに結界を張り巡らして祐里を守ったのだろう。
「お爺さま、私は、桜河のお屋敷を離れとうはございません。光祐さまと離れては生きて行けません」
 祐里は、八千代の胸のうちが手に取るように感じられた。何故、八千代の気持ちが分かるのかが不思議に思えていた。
 庭では、桜の樹が風のない夜にざわざわと大きく枝を揺らしていた。
「春樹も小夜と離れては生きていけないとわしに言ったものじゃ。親子じゃなぁ。あの時に春樹の願いを聞いて小夜と一緒にしておれば、春樹を失わずに更にそなたも得ていたと思うと、わしの先見のなさが悔やまれてならぬ。それにしても里の娘が神の御子を産むとは大層珍しいことじゃ。春樹を失った現在、弟の冬樹では、神の森を守る力に欠いておる。この時期にこうして巡り合ったからには、祐里は、選ばれし者なのじゃ。春樹は、その任を怠ったがために神の森の逆鱗に触れて命を落としたのじゃ。そなたも宿命には逆らえまい。それともそなたの子をわしに委ねてくれるか。優祐は、春樹の小さい頃によく似ておる」
 八千代は、容赦なく祐里に宿命を突きつけた。
「お爺さま、優祐さんは、この桜河家の大切な後継ぎでございます。そのようなことはできません」
 祐里は、心が張り裂けそうになりながら、きっぱりと反論した。
「それならば、祐雫にするか。神の守は、男子とされているが、今から鍛えれば賢い祐雫であれば務まるだろう。祐雫の気の強さは、そなたの芯の強さを引き継いでおるからな」
 八千代の言葉は、神の森の言葉と呼応して、祐里に選択の余地を与えなかった。
「祐雫さんとて、桜河家の大切な娘でございます。そのようなことはできません」
 祐里は、必死になって我が子を守って断言した。
「ならば、そなたしかいないではないか。桜河家には恩返しとして後継ぎを残しておる。本来ならば神の守は、男子已む無くば生娘とされているが、そなたの力を持ってすれば問題なかろう。そなたは、生まれながらにして神の守なのじゃからな。もし、神の森に反して、桜河家に災いがあってはそなたも生きていけないだろう。神の森の力は絶大じゃ」
「それが神さまのなさることでございますか」
 宿命とはいえ、父母が崖崩れで亡くなったのは神の森のなさったことだと知らされ、祐里は、言い知れない怒りに震えていた。
「神の森には守り人が必要じゃ。それも力を持った守り人が・・・・・・。わしは年老いて神の森を守る力を失のうて来ておる。わしには、祐里、そなたしかおらぬのじゃ。現にわしの身体が癒えてきておるのはそなたのなせる神業じゃ」
 八千代は、祐里の手を力強く握り締めて懇願した。
「榊原さま、それはあまりにご無体なお言葉ではございませんか。突然いらっしゃって、わたくしたちの大切な祐里さんを連れて行こうとなさるなんて」
夕食の膳を持って、薫子が座敷に入って来た。
「母上さま、申し訳ございません。ありがとうございます」
 祐里は、薫子から膳を受け取った。
「桜河さま、祐里を今まで大切に育ててくださったご恩は忘れません。しかし、祐里は、ただの娘ではないのです。神の御子であり、神の守なのです。祐里は、今までこの地に小さなしあわせをもたらせていたでしょう。これからは、広い世界にしあわせをもたらせるのです。祐里を育ててきたのであれば、この娘が万人と違うことは感じておりますでしょう」
 八千代は、薫子の瞳をしっかりと見据えてこころに訴えた。
「榊原さま、万人と違うてもわたくしの娘でございます。とにかく、祐里さん、お爺さまに夕食を差し上げてくださいませ。わたくしたちは、手放す気はございませんわ」
 薫子は、八千代の言葉を受けて正論だと思いながらも、祐里を手放す気には到底なれなかった。
「母上さま、私もお屋敷を離れるなど考えられません」
祐里は、幼い娘のように無性に甘えたい気持ちになって薫子に抱きついた。薫子は、優しく、そして力強く祐里を抱きしめた。
薫子は、暗い面持ちで食堂に戻り、事情を家族に説明した。
「光祐、わたしたちの気持ちは、家族の誰も欠かないことで一致しておる」
 啓祐は、光祐に同意を求めて決断を促した。光祐は、静かに目を瞑って考えていた。
「父上さま、母上さま、家族の気持ちは充分に理解しております。が、この件は、わたしに任せください。祐里を一度神の森に帰します」
 光祐は、きっぱりと宣言した。啓祐と薫子は、驚きのあまり言葉が出なかった。優祐と祐雫は、光祐の決断に反論する余地もなく、手を取り合って光祐の顔を見つめていた。
 光祐は、夕食を終えて客間に顔を出した。
「祐里、午後からずっとで疲れただろう。おじいさまの顔色も随分よくなったことだし、ぼくが代わるから、食事をして部屋で休みなさい」
「光祐さま、私は大丈夫でございます」
「祐里、ぼくの言うことをきいておくれ」
 光祐は、蒼白な祐里の顔色を気遣って、祐里の手に自分の手を添えた。光祐の深い愛情が手の温もりを通して感じられた。
「はい、光祐さま。よろしくお願い申し上げます。お爺さま、それではごゆっくりとお休みくださいませ」
 祐里は、潤んだ瞳を光祐に向けると頷いて客間を後にした。客間の前では、優祐と祐雫が心配して待っていた。
「母上さま、お疲れでございましょう。申し訳ありません。ぼくがお爺さまをお連れしたからいけなかったのですね」
 優祐は、突然の出来事にこころを痛めていた。八千代の道案内をかってでなければこのような事態にならなかったのではないかと後悔していた。
「優祐さん、そのようなことはございませんわ。優祐さん、祐雫さん、心配してくださってありがとうございます。私は大丈夫でございます」
 祐里は、優しい心遣いの優祐と祐雫に心配をかけないように明るい笑顔を作った。
「母上さま、夕食がまだでございましょう。おばあさまと婆やが心配してございます。さぁ、食堂へ参りましょう」
 祐雫は、祐里から膳を受け取り、優祐は、祐里の手を引いて長い廊下を食堂へと進んだ。優祐と祐雫は、祐里を守りたい思いでいっぱいだった。
 光祐は、客間の灯りを消し、枕元の電燈に切り替えた。夜の静けさが客間を覆った。
「祐里は、何があろうとわたしの大切な妻です。それで災いを被るのならば仕方の無いことです。ただし、榊原家が存在しなければ、祐里は生まれていなかったというのも事実です。神の森が守り人の交代で荒れているのでしたら、しばらく祐里をお帰ししましょう。祐里の癒しの力と後を継がれる冬樹さまの力で神の森をお静めください。そして、神の森が静まりましたら、わたしに祐里を帰してください。三日後には夏休みになります。優祐を祐里の供に付けます。わたしが付き添いたいのですが、今仕事を離れるわけには参りませんので」
 光祐は、祐里を離したくないと思いながらも、帰さなければならないと決心した。
「光祐くんの意向は相分かった。ただ、神の森がどうするかじゃ。そして、祐里がどう対応するかじゃ。春樹に死をもたらせた強力な力なのだから、神の森のなさることはわしには推測がつかぬのじゃ」
 八千代は、神の森に祐里を連れ帰ったら、もう二度と桜河のお屋敷に戻れないであろうと感じていた。それを光祐には告げることができなかった。
「わたしは祐里を信じています。あの崖崩れの時も祐里は生き残り、そして、わたしの元に来ました。祐里は、神の守としてではなく、わたしと巡り合うために生まれて来たのです。たとえ、神さまでもわたしと祐里を引き裂くことはできません。わたしは遠く離れていても、祐里を信じてこころで守ります」
 光祐は、八千代の瞳を見つめて、きっぱりと断言した。
「祐里は、ほんにしあわせものじゃなぁ」
 八千代は、しみじみと若い光祐の懐の大きさに感じ入っていた。
「榊原さま、夜も更けてまいりました。そろそろお休みください。桜の樹には安眠を妨げないようにわたしがよく説明しておきますので、まずは、お疲れをお癒しください。それではおやすみなさい」
 光祐は、八千代に会釈して座敷を出た。廊下から庭に下りて、深緑の葉を湛えた桜の樹へ向かった。桜の樹は、月の光に青く光り輝いて光祐を迎えた。
(桜、心配しなくても大丈夫だよ。一度、祐里を神の森に帰しはするけれど、必ず、祐里は戻ってくると、ぼくは信じている。ぼくと祐里は、桜の下で添い遂げる宿命で巡り合ったのだもの。ぼくは、こころで念じて祐里を守るよ。どうか祐里と優祐に力を貸しておくれ)
桜の樹は、葉を優しく揺らして頷いた。
 光祐は、目を閉じて、静かに桜の葉音を聞いていた。
遠い日の記憶が蘇っていた。突如、訳もなく恐ろしくなって「ゆうりをたすけて」と桜の樹に縋りついたのは、夢か幻だったのか・・・・・・次の場面には、幼い祐里と祖母濤子の笑顔があった。
「光祐さん、ご覧なさい。桜の樹の下の祐里は、とても美しいでしょう。お屋敷の御守護の桜は、祐里そのもののような気がいたします。光祐さんが祐里を愛するのなら、これから何があろうとその愛を貫きなさいませ。わたくしは、いつも光祐さんを見守ってございますから」
「ぼくは、ゆうりがだいすきだよ」
 優しい濤子の真剣な言葉に、光祐は、気持ちをそのまま口にした。
「ゆうりは、こうすけさまがだいすきです」
 祐里は、無邪気に光祐に走り寄って抱き着いた。その光祐と祐里を濤子は、一緒に抱き締めた。
 しばらくの間、光祐は、桜の樹と共に祐里と過ごしてきた日々を想い返していた。
 光祐が部屋に戻ると、祐里は、浴衣に着替え神妙な顔つきで座っていた。
「光祐さま、いろいろとご心配をおかけして申し訳ございません」
 祐里は、正座をして光祐に頭を下げた。
「祐里のお爺さまは、ぼくにとってもお爺さまなのだから気にすることはない。祐里、お爺さまの体調が戻られたら、神の森まで送って差し上げなさい。夏休みに入るから優祐を連れて行くといい。恐れなくとも大丈夫だよ」
 光祐は、震える祐里の手を取った。
「光祐さま、祐里は、光祐さまのお側を離れとうはございません」
 祐里は、光祐の胸に顔を埋めた。光祐は、優しく祐里を抱きしめた。
「祐里、時期が来たのだよ。縁のない時は、こちらが祐里の親族をいくら捜しても見つからなかったのに、こうしてあちらから捜しに来られた。それに病み上がりのお爺さまを一人で帰すわけにはいかないだろう。優祐を連れて里帰りをするつもりで行って来なさい。祐里の父上さまと母上さまの生まれ育った土地を一度は見ておきたいだろう。ぼくが付き添って行きたいのだが、どうしても現在、仕事を離れるわけにはいかないのだよ。仕事が一区切り着いたら、すぐに迎えに行くからね」
 光祐は、祐里のいない毎日を考えただけで空虚な気分になっていた。それでも祐里の出生の謎が解け、神の森が祐里を必要としているという現実を受け止めなければならないと感じていた。
「はい、光祐さま」
 祐里は、不安で押し潰されそうになりながらも光祐に頷き返した。
「祐里、今までにもいろいろなことがあったけれど、ぼくは、祐里を守ってきただろう。今回も何が起ころうと、必ず祐里を守るからね。ぼくは、祐里を信じているから、祐里もぼくを信じておくれ」
光祐は、祐里が発つまでの毎晩、不安気な祐里を優しく抱いて眠った。祐里は、陽光に輝く満開の桜に包まれているような気分になって光祐に抱かれて安堵して眠りに就いた。

神の森に発つ前日の終業式帰りに、柾彦が小さな袋を持って、優祐の前に現れた。
「優祐くん、明日、発つのだろう。何かの時に役に立つかもしれないから、これを持っていくといいよ。母上さまには内緒だよ。ぼくが言うのもおかしいけれど、母上さまをしっかり守ってあげるのだよ」
 柾彦は、青空のような笑顔を優祐に向けた。かつての守り人として多少なりとも祐里の手助けが出来ればと考えて準備したものだった。
「はい。柾彦先生、ありがとうございます。母は、ぼくがしっかり守ります」
 優祐は、袋を胸に抱いて決意の瞳で柾彦を見上げた。

 翌日、祐里と優祐は、お屋敷で家族にしばしの別れを告げて、八千代と共に早朝の桜川駅から、光祐と祐雫に見送られて汽車で旅立った。
 夕方まで汽車に揺られて茜色に輝く夕日のトンネルを抜けると、汽車は宵闇の緑が原駅に到着した。駅舎の目前に壮大な神の森が広がっていた。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 11

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
  桜の姫

 祐里は、この年最後の鶴久病院での見舞いを終え、結子とお茶の時間を過ごしていた。
「祐里さん、ようやく、柾彦も結婚に辿り着きそうでございます」
 結子は、祐里に温かい紅茶を差し出しながら満足げに笑った。
「本当によろしゅうございました。柾彦さまには、しあわせになっていただきとうございます」
 祐里は、温かい紅茶の香りの中で、柾彦のしあわせを願っていた。柾彦が笙子と交際していることは萌から聞いていた。
「これも、祐里さんのお陰でございますわ」
 結子は、感謝の気持ちを込めて、祐里を見つめた。
「私は、何もいたしておりません。萌さまのご紹介でございましょう」
 祐里は、謙虚に応えた。
「ずっと祐里さんのことを好いていた柾彦さんが道を踏み外さないように、祐里さんが気を遣ってくださったからでございます。祐里さんと祐里さんを疑うことなく寄越してくださった光祐さんに、本当に感謝してございますのよ」
 結子は、高校生の柾彦が、初めて祐里に恋をしてからのことを思い出していた。一途に祐里を大切に想っていた柾彦が、想い余って祐里を抱きしめていた場面に遭遇した時は驚いたが、それも祐里が上手く切り抜けてくれ、それ以後も祐里は、変わらぬ態度で柾彦と接してくれていた。
「おばさま、私は、女学生の頃からいつも柾彦さまに守っていただきましたし、勇気づけていただきました。私こそ、柾彦さまには感謝してございます。それに桜河も、柾彦さまを信頼してございますもの」
祐里は、柾彦がいつでも優しく守ってくれたことを思い出しながら、結子の手を取った。
「祐里さんは、本当に神さまのように慈悲深くて謙虚でございますわね。桜河のご家族は、嘸かしおしあわせでございましょう。初めて祐里さんにお会いした時から、私は、あなたを柾彦さんのお嫁さんにと思っておりました。適わぬ夢でございましたけれど」
 結子は、祐里を強く抱きしめた。
「ありがとうございます。私は、おばさまが大好きでございます。おばさまがよろしゅうございましたら、今まで通りのお付き合いをさせていただきとう存じます」
 祐里は、結子がますます好きになった。
「勿論でございますとも。祐里さんは、志子さんと同じく私の娘ですもの。笙子さんとも仲良くして差し上げてくださいませね」
 結子は、祐里のことを桜河家に嫁がせた自分の娘のように感じていた。
「はい。桐生屋さんでお着物を誂えるときは、笙子さまにお見立てをお願いしてございましたの。大人しい方ではございますが、しっかりとした方でございます。柾彦さまは、頼もしいお方でございますから、きっと、笙子さまを導かれることでございましょう」
 結子と祐里が話をしているところに、柾彦と笙子が顔を出した。
「姫。こちらだったのですね。笙子さんを紹介しようと思って探していたのですよ」
 柾彦は、笙子の肩を優しく引き寄せた。
「柾彦さま、笙子さまの前で姫とお呼びになるのはよろしゅうございませんわ。これからは、お辞めくださいませ」
 祐里は、困った顔をして柾彦を窘めた。
「でも、姫は、姫だもの。姫に会ってから、今まで、姫としか呼んだことがないから、今更、他の名では呼べないよ。桜河の若奥さまって、呼べばいいのかな」
 柾彦は、おどけながらも、照れて困っていた。
「祐里さま、私は構いません。柾彦さまが、祐里さまをずっとそのようにお呼びして来られたのでございますから、今更、変えずともよろしゅうございます。それに祐里さまには、姫という愛称がとてもよくお似合いでございますもの」
 笙子は、祐里をずっと想っていた柾彦に、現在愛されているだけで嬉しかった。
「まぁ、笙子さま。本当に私は、姫ではございませんのよ」
 祐里は、困惑しながら慌てて打ち消した。
「私もこれからは、柾彦さまと同様に、姫さまとお呼びいたします。姫さま、どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
 笙子は、柾彦に寄り添って、丁寧に祐里にお辞儀した。
「これで決まりだね。姫は、今まで通り姫だからね」
 柾彦は、笙子の肩を抱きながら、しあわせに溢れる笑顔を見せた。
「笙子さま、こちらこそ、どうぞよろしくお願い申し上げます」
 祐里は、諦めて笙子にお辞儀を返した。
 柾彦は、ようやく、祐里への恋慕から卒業できそうな気がしていた。そして、笙子をこれから最愛の女性として愛していこうと決心した。祐里は、仲睦まじい柾彦と笙子をこころから祝福しながら、この時を待ち焦がれていた結子とともに安堵していた。

 柾彦は、まことにしあわせいっぱいだった。
祐里をひたすら守り通して、恋い慕い、その友情を壊すことなく、今、笙子というかけがえのない女性に巡り合い、溢れる愛情を注いでいた。
柾彦の恋は、祐里から笙子への愛に羽ばたいたのだった。
鶴久病院の冬枯れの桜は、寒風の中で、着々と芽吹く準備を始めていた。来春の柾彦と笙子の婚礼の日の華やかな開花を夢見て静かに枝を揺らしていた。柾彦と笙子に「永久に幸あれ」と微笑みかけているようであった。

 祐里は、お屋敷に戻ると、桜の樹の下に向かった。
「桜さん、祐里は、光祐さまのお側で恙無く過ごすことができまして、しあわせでございます。桜さんのお陰でございます。ありがとうございます」
 祐里は、溢れんばかりのしあわせな笑顔で、桜の樹に感謝の気持ちを伝えた。
 桜の樹は、幹に当たる陽射しを反射させて、祐里のまわりに光を投げかけていた。      〈 桜物語 柾彦の恋の章 完 〉


 *** しあわせに包まれたお屋敷に過去からの風が吹いてきます。
     宿命に対峙する光祐と祐里の桜物語は、追章「神の森」で
     祐里の出生秘話へと展開していきます。***
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 10

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  告白 

 十二月に入り、桜山が薄っすらと雪化粧を施す頃となった。
 柾彦は、都の学会に出かけ、檜室教授から呼び出しを受けた。笙子との出合いで、柾彦は、すっかり美月のことを忘れていた。美月からも、その後、音沙汰がなかった。柾彦は、重い気持ちで、教授室の扉を叩いた。檜室教授は、扉を開け、柾彦を迎え入れた。
「鶴久君、久しぶりだね。わざわざ、呼びたててすまなかった。とにかくかけなさい」
 檜室教授は、柾彦に椅子をすすめて、自分も向かいの椅子に腰を降ろした。
「ご無沙汰いたしております」
 柾彦は、檜室教授の表情が穏やかなことを感じていた。
「先日は、娘の美月が迷惑をかけて、誠にすまなかった。父親として詫びをしたいと思ってね。見合いの席をすっぽかして、君を訪ねていたとは、後から聞いて本当に驚いたよ」
 檜室教授は、畏まって柾彦に頭を下げた。
「私も突然、美月さんが訪ねて来られた時は驚きました。その後、美月さんは、いかがでございますか」
 柾彦は、恐縮して、教授に尋ねた。
「実は、君のところから戻って来た日に、駅で齋藤君に会ったらしくてね。夕食をご馳走になって、重い鞄を持ってもらったら、齋藤君のことが好きになったようで。今では、賑やかな都を離れたくないから、齋藤君と結婚すると言っているのだよ。本当に困った我が侭娘だ」
美月は、桜川からの帰りの列車の中で、目まぐるしかった一日を振り返っていた。父の薦める計略的な見合い結婚に反発して咄嗟に家出をし、父の教え子の中で一番好感が持て、心優しい柾彦を頼ったものの、柾彦が深く祐里を愛していることを真摯に受け止め、自分の入る余地がないことを胸に刻んでいた。今更、すっぽかした見合相手と結婚する気にもなれずに途方に暮れていた。その時、必然的に齋藤真実に出会ったのだった。
柾彦は、話を聞きながら、厳しい檜室教授が顔を綻ばせて喜んでいる様子に、美月のこれからのしあわせを願っていた。
「齋藤でしたら、美月さんとお似合いです。たぶん、美月さんは、お見合いが嫌で、妥当な距離の私のことを思い出したのではないでしょうか」
 柾彦は、自分の窺い知らないところで、このような顛末になろうとは思いも寄らず、安堵していた。それとともに笙子の笑顔がこころに広がっていた。

結子は、忙しい日々を過ごしながらも、柾彦の恋をじれったく思っていた。笙子を紹介されてから、既に一月以上経っていた。
「あなた、柾彦さんは、どうされるのでしょうね。あちらさまにご挨拶に伺わなくてもよろしいのでございましょうか」
 結子は、夫の鶴久宗(はじめ)に柾彦のことを相談した。
「柾彦ののんびりは、今に始まったことではないだろう。いい大人なのだから、柾彦の結婚のことは柾彦に任せておきなさい」
 宗は、ゆったりと構えて、結子の心配を他所に新聞に目を落とした。結子は(柾彦ののんびりな性格は、宗にそっくりだわ)と思って溜め息をついた。

 柾彦は、土曜日の診療を終えて、慌てて車を東野の華道会館に走らせた。学会があり、華道展以来、笙子には会っていなかった。柾彦は、会館の車寄せに車を止め、笙子が出て来るのを待った。華道展の時に、毎週土曜日の午前中は、華道会館で稽古があり、片づけが終わるのが一時頃だと、笙子から聞いていた。寒椿文様の艶やかな着物に椿色の被風姿の笙子が花包みを抱えて華道会館の扉から現れた。風花の舞う冷たい空気が一瞬、温かみを帯びたように柾彦には感じられた。
「笙子さん、突然ですがお昼をご一緒しませんか」
 柾彦は、車から出て、満面の笑顔を笙子に向けた。
「柾彦さま」
 笙子は、柾彦に走り寄った。笙子の胸はしあわせで溢れていた。柾彦に会いたくて、幾度涙したことか・・・・・・ようやく柾彦に会えた喜びが溢れて、大粒の涙が頬を伝っていた。
「どうしたの。なにか哀しい事でもあったの」
 柾彦は、笙子の溢れる涙に驚いていた。
「申し訳ございません。柾彦さまにお久しぶりにお会いできて、あまりに嬉しゅうございましたので」
 笙子は、熱い眼差しをしっかりと柾彦に向けた。今まで、恥ずかしくて、柾彦の顔をしっかりと見つめる事の出来なかった笙子だったが、恋するこころは笙子を強く導いていた。
「ぼくも笙子さんに会えて嬉しいよ。さぁ、泣くのをやめて」
 柾彦は、花包みを受け取ると、ハンカチを取り出して笙子の手に握らせた。笙子は、涙を拭きながら微笑んで、柾彦が開けた車の後部座席に乗り込んだ。
「笙子さんが落ち着くまで、車を走らせようね」
 柾彦は、ゆっくりと車を発進した。萌は、その二人の姿を微笑ましく思いながら、会館の事務室の窓から密かに見守っていた。
「突然来てしまったので、家の方が心配されるだろうから、一度、家まで送りましょう」
 柾彦は、桐生屋の方角に車を進めていた。
「はい。でも・・・・・・」
 笙子は、家を気にしながらもこのまま柾彦と過ごしたいと思っていた。一度、家に戻ると父に反対されるような気がしていた。
「でも、どうしたの」
 柾彦は、先程自分に熱い想いをぶつけて来た笙子の普段の大人しさに再び触れた。
「先日、お店に出ている時に柾彦さまのことを考えておりましたら、父から『こころ、ここにあらず』と叱られましたので・・・・・・」
 笙子は、再び哀しい顔をして俯いた。柾彦は、笙子を冬山に返り咲いた菫の花のように感じていた。いじらしく可愛らしい笙子を小さな菫に例えて、寒風から両手で包み込むように守りたいと思い、後部座席でしおらしく座っている笙子に声をかけた。
「それならば、父上さまにきちんとご挨拶をするよ。その前に笙子さんの気持ちを聞くべきだよね」
 柾彦は、車を路肩に停めて後ろを振り向くと、真剣な表情で笙子を見つめた。
「笙子さん、ぼくとお付き合いをしてください」
「はい、柾彦さま。よろしくお願い申し上げます」
 笙子は、胸の中でしあわせの花が一斉に開花するのを感じながら返答した。柾彦は、にっこり笑って、前に向き直ると車を発進させた。昼過ぎには売り切れる桜屋の桜餅を結子から頼まれて、偶然にも助手席に積んでいたことを幸運に思った。
 柾彦は、店先の邪魔にならない場所に車を停めると、後部座席の扉を開けて笙子を車から降ろした。笙子は、紫紺の暖簾を開けて、柾彦を店に招じ入れた。
「いらっしゃいませ。笙子、お帰り」
「いらっしゃいませ。お嬢さま、お帰りなさいませ」
 颯一朗と店の奉公人が一斉に柾彦と笙子を迎えた。
「ただいま帰りました。お兄さま、こちらは、鶴久柾彦さまでございます。父上さまはどちらでございますか」
 笙子は、まっすぐに颯一朗をみつめて、柾彦を紹介した。
「はじめまして、鶴久柾彦です」
 柾彦は、颯一朗に挨拶をして、ゆっくりと店内を見渡した。
「いらっしゃいませ。笙子の兄の颯一朗でございます。笙子、父上と母上は、奥でお昼だよ。お客さまを座敷にご案内しなさい」
 颯一朗は、大人しい笙子のこのところの変わり様に驚きを隠せなかった。店の奉公人でさえ、恥ずかしそうに話をする笙子が男性を連れて来たことが信じられなかった。
「柾彦さま、こちらへどうぞ。ご案内申し上げます」
 笙子は、柾彦を座敷へと案内した。
「少々お待ちくださいませ。父母を呼んで参ります」
 笙子は、柾彦を上座に案内すると、熱い決意を胸に抱いて奥座敷に向かった。柾彦は、姿勢を正すと、こころを落ち着かせようと庭の枯山水を眺めた。
「父上さま、母上さま、ただいま帰りました。会っていただきたいお客さまをお連れいたしました」 
笙子は、奥座敷に入ると正座をして、しっかりと弦右衛門と紗和の瞳をみつめて話をした。
「笙子、お帰り。もしや、鶴久病院の先生をお連れしたのかね」
 弦右衛門は、突然のことで驚きを隠せなかった。大人しい娘のどこに結婚相手を自分で決める大胆さが隠れていたのだろうと思っていた。
「まぁ、それは大変でございます。どういたしましょう」
 滅多な事では驚かない紗和も、左右をみまわしてあたふたとしていた。
「私は、お茶をお持ちしますので、父上さま、母上さま、お先にお越しくださいませ」
 笙子は、立ち上がって台所に向かった。弦右衛門と紗和は、顔を見合わせると、手を取り合って座敷に向かった。
「失礼いたします」
 弦右衛門と紗和は、硬い表情で柾彦の前に座った。
「突然に伺いまして申し訳ありません。鶴久柾彦と申します。どうぞよろしくお願いします。先日、久世萌さんより笙子さんをご紹介いただきまして、本日は、お付き合いのお許しをいただきに参りました。どうぞこちらをお納めください」
 柾彦は、はきはきと元気よく挨拶をして、風呂敷から桜屋の菓子箱を差し出した。
「ご丁寧にありがとうございます。先日、娘から、鶴久先生をお慕いしている旨を聞きまして、御門違いと思っておりました。世間知らずの娘で、とてもご立派な鶴久病院の先生とお付き合いをさせていただけるとは思ってもおりませんでした。こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
 子どもの頃からずっと接客をしてきた弦右衛門は、一目で柾彦の誠実さと明るさを感じ取っていた。
「失礼いたします」
 笙子が、障子を開けて静かに座敷に入って来た。座卓にお茶を出しながら、父母の穏やかな表情を見て、柾彦が父母に受け入れられたことを感じ取った。柾彦は、爽やかな笑顔で、堂々と頼もしかった。
「笙子さんは、大切に育てられたお嬢さまです。私も大切にお付き合いをさせていただきます。それに笙子さんは、鶴久病院ではなく私と付き合う訳ですから」
柾彦は、笙子の瞳を見つめて話した。笙子も熱い瞳で柾彦を見つめ返した。
「そのように思っていただきまして、笙子はしあわせものでございます。ありがとうございます」
 紗和は、ようやくいつもの落ち着きを取り戻した。
「失礼いたします。父上、藤原さまがいらっしゃいました」
 障子を開けて、颯一朗が事の成り行きを心配して顔を出した。
「颯一朗、鶴久柾彦先生だ。笙子とお付き合いをしてくださることになったからね。鶴久先生、笙子の兄の颯一朗でございます。嫁の繭子は、臨月で里帰りをしております。それでは、私は、失礼させていただいて店に戻ります」
 弦右衛門は、柾彦に颯一朗を紹介して、座敷を後にした。
「どうぞ、笙子をよろしくお願い申し上げます」
 颯一朗は、廊下で丁寧にお辞儀をして、弦右衛門の後に続いた。
「本日は、お店の忙しい中、突然伺いまして申し訳ありませんでした。今から、笙子さんをお誘いしたいのですがよろしいでしょうか。夕方には、送って参ります」
 柾彦は、紗和に申し出た。
「こちらこそ、ご丁寧にありがとうございました。何もおもてなしできませんで申し訳ございません。どうぞ、笙子をお連れくださいませ。」
 紗和は、柾彦の中に清々しい青空を感じ、古い老舗の呉服屋に爽やかな風が吹き込んだように感じていた。
柾彦は、笙子の紹介も兼ねて銀杏亭に車を走らせた。
 杏子の熱い好奇な視線を浴びながら、柾彦は、笙子と向かい合わせで、遅い昼食を食べた。柾彦は、祐里と過ごす掴み処のなかったしあわせとは異なる、今まで感じたことのない満ち足りたしあわせを感じていた。
「杏子の言う通り、柾彦先生を好いてくださる方に巡り合ったでしょ。それにこんなに若くて可愛らしい方なのですもの。本当によかったですわね」
杏子は、明るい声で、恥ずかし気な俯き加減の笙子に笑いかけた。
「ありがとう、杏子。これでまた杏子には頭が上がらないよ」
 柾彦は、背中を押してくれた杏子に感謝していた。
「笙子さま、柾彦先生がじれったい時は、杏子におっしゃってくださいませ。厨房の火をお貸ししますからね」
「ぼくは、食材ではないのだから」
「杏子さま、ご指導をよろしくお願い申し上げます」
 柾彦と杏子の笑い話に、笙子もすっかり打ち解けて一緒になって声をたてて笑っていた。
柾彦は、駆け足で沈む師走の夕日が輝く中、笙子を送って車を走らせていた。
「笙子さんと一緒にいると時間が一瞬のようだね。このままぼくの家に連れて帰りたいくらいだ。明日は、迎えに行って、ぼくの父と母に紹介するよ」
柾彦は、笙子と離れることが寂しく感じられ、一刻も早く結婚したいと思った。
「はい、柾彦さま。父上さまと母上さまに気に入っていただけると嬉しゅうございます」
「笙子さんなら、一目で気に入るよ」
 笙子は、後部座席から運転席の柾彦に熱い想いで応え、柾彦は、鏡越しに頷き返した。
「奇麗な夕日だね」
 柾彦は、路肩に車を停めて笙子を降ろし、ちょうど山に沈んでいく緋色の夕日を笙子と寄り添って眺めた。
「笙子さん、桜の頃にぼくと結婚してください。今すぐにでも結婚したいくらいだけれど、いろいろと準備があって、そういうわけにもいかないだろうからね。ぼくは、この夕日のように熱く笙子さんを愛しているよ」
「はい、柾彦さま。喜んでお受けいたします。どうぞ笙子をよろしくお願い申し上げます」
 柾彦は、真剣なまなざしで笙子を見つめ、肩を抱き寄せた。笙子は、柾彦の情熱的な愛情を感じながら、柾彦にぴったりと寄り添い、寒さも忘れてしあわせいっぱいに輝いていた。
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   笙子

 笙子は、桐生屋の店先に座っていても、いつも柾彦のことを考えていた。柾彦の爽やかな笑顔が目に浮かんで離れなかった。
「笙子、先程から何度も呼んでいるのに返事をしないけれど、どうしたのかね」
 桐生弦右衛門が、笙子の前に立った。
「父上さま、申し訳ございません。何かご用でございますか」
 笙子は、我に帰って弦右衛門を正視した。
「先程から、その反物にばかり触れているけれど、気に入ったのかね」
 弦右衛門は、笙子がここ一週間ばかり、接客にも身が入らず、夢うつつの表情をしているのが気になっていた。大人しい性格の笙子ではあったが着物の見立てには定評があった。店は、長男の颯一朗が継ぐ事になっているが、着物好きの笙子に婿を取って暖簾を分けてもいいと常々考えていた。
「申し訳ございません、考え事をしておりました」
 笙子は、弦右衛門の厳しい表情に恐縮して、頭を下げて謝った。
「お嬢さま、そちらの反物は、私が棚に戻しましょう」
 すぐに見兼ねた倉三郎が助け舟を出してきた。
「お願いします」
 笙子は、倉三郎に反物を差し出した。
「考え事があるのならば、今すぐ奥に下がりなさい。お客さまに失礼になるからね」
 弦右衛門は、厳しく笙子を諭した。
「はい、父上さま」
 笙子は、涙ぐんで奥に下がった。
 弦右衛門は、妻の紗和に目配せをした。紗和は、笙子の後を追って呼び止めた。
「笙子、お話を聞きましょう」
 紗和は、奥座敷に笙子を招き入れて正座した。笙子は、一粒の涙を流して俯くと、紗和の前に正座した。
 その時、心配顔の弦右衛門が奥座敷に入ってきた。笙子に厳しい注意をしたものの笙子のことが気になって、店を颯一朗に任せて顔を出したのだった。
「父上さま、母上さま、どのように申し上げたらよろしいのか・・・・・・」
 笙子は、弦右衛門に反対されると思い、恋する胸のうちを明かす事に抵抗を感じていた。それに笙子が慕っているだけで、柾彦の気持ちが分からなかった。華道展以来、柾彦からの音信は途絶えたままだった。
「笙子、どなたか好きな方が出来たのですね。最近の笙子は、恋をしているようですもの。そろそろ、縁談のお話が出てもおかしくない年頃ですものね」
 紗和は、弦右衛門の表情を覗いながら、笙子の恋する瞳をしっかりと見つめた。
「笙子、それはまことかね」
 弦右衛門は、身を乗り出して大きな声をあげた。その声に驚いて、笙子は、俯いて身を縮めた。
「旦那さま、そのように大きな声を出されては、笙子が何も申し上げられなくなってしまいます。さぁ、笙子、あなたの気持ちを聞かせてちょうだい」
 紗和は、弦右衛門を抑えて、穏やかな微笑を笙子に向けた。
「萌先生のお知り合いの方で、二度しかお会いしておりませんし、私がお慕い申し上げているだけでございます」
 笙子は、俯いたまま小さな声で返答した。
「二度も会っておるとは、いったい、何処のどなたなのだね」
 弦右衛門は、大切に育ててきた笙子が自分の知らないところで、男性と会っていたことで、裏切られた気分になって強い口調で問い質した。
「本当に私がお慕い申し上げているだけでございます」
 笙子は、消え入るような小さな声で返答した。
「何処のどなたなのだね。名前を言いなさい」
 弦右衛門は、世間知らずの笙子が相手に騙されているのではないかと考えて声を荒げた。
「旦那さま、もう少し、やんわりとお話をしてくださいませ。笙子、お相手は、どなたですか。萌先生のお知り合いでしたら、それなりのお方でしょう」
 紗和は、弦右衛門が落ち着くように緩やかな優しい声で笙子を促した。
「あの、鶴久病院の柾彦先生でございます。最初は、萌先生とご一緒にお車で送っていただきました。次は、先日の華道展にいらしてくださいましたので、会場をご案内申し上げました」
「鶴久病院・・・・・・」
 弦右衛門は、思ってもみなかった名前を笙子から聞き、驚いて言葉を失った。紗和もお門違いの病院の名を聞き、驚きを隠せなかった。笙子と同級生だった鶴久志子と母の結子の鮮やかな印象を思い出していた。同じ絹でも洋装の結子は、いつもモダンな雰囲気で煌いていた。そのような家に和装暮らしの娘が通用できるのかが疑問でならなかった。
「笙子、今日は店に出なくていいから奥にいなさい」
 弦右衛門は、返す言葉が見つからず、そそくさと立ち上がって奥座敷を出て行った。
「柾彦先生だなんて。あちらは、大きな病院ですし、笙子の片思いでは仕方がありません。世間には、つり合いというものがございます。今日は、奥でゆっくりなさい。そろそろ、倉三郎と笙子の縁談話を進める潮時なのかもしれませんね」
 紗和は、小さな溜め息をついて店に戻った。
店では、浮かぬ顔の弦右衛門が帳場に座り、接客をしながら笙子を気にしている颯一朗や奉公人たちが落ち着かない様子だった。
笙子は、自室に戻り、柾彦の笑顔を思い出しながら、溢れる想いを抱えて涙ぐんだ。
窓の外では、笙子のこころを映して、時雨が降り出していた。
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   紫乃〈しの〉

 柾彦は、往診の帰りに桜河のお屋敷に車を停めた。紫乃が、柾彦を迎えた。
「柾彦さま、いらっしゃいませ。奥さまと祐里さまは、外出中でございますが、ちょうど、栗の渋皮煮が出来あがったところでございますので、召し上がっていかれませんか」
 豊かな微笑を湛えて紫乃は、柾彦を招き入れた。
「そろそろ、おやつの時間だと思って、寄ったところです。勿論、いただきます。今日はお屋敷の中が静かですね」
 柾彦は、台所に入って椅子に腰かけた。
「午後の休憩時間でございます。私は、台所を一番好いてございますので、いつもここにおります」
 紫乃は、手際よくおやつの膳を用意して、柾彦の前に差し出した。
「美味しそうですね。いただきます」
 柾彦は、手を合わせて栗の渋皮煮を口に入れた。ほろ苦さと甘さが合わさって、秋の豊かな香りが口の中に広がった。
「奥庭で採れた栗でございます。本当に柾彦さまは、美味しそうに召し上がられますね」
 紫乃は、柾彦の食べ振りから元気をもらっていた。
「紫乃さんの作るものが美味しいからですよ。お屋敷の方がたは、しあわせですね。毎日、紫乃さんの美味しいご馳走が食べられるのですから。ところで、紫乃さんは、どうして結婚しなかったのですか」
柾彦は、はじめて紫乃と二人きりになり、紫乃のことを聞いてみたくなった。
「私のことでございますか。恥ずかしゅうございますね」
 紫乃は、柾彦の真剣な眼差しを受けて、顔を赤らめながら昔を思い出すように話し始めた。
「私が、東野のお屋敷にご奉公に上がったのは、十二歳の時でした。奥さまは、五つで、本当に可愛らしいお嬢ちゃまでございました。紫乃、紫乃と私に懐いてくださいまして、私がお世話をする事になりました。桜河の旦那さまは、東野のご長男の圭一朗さまと同い年の十で、奥さまがお生まれになられた時からの許婚でございましたので、よく遊びにいらしていました。旦那さまも、私のことを姉のように慕ってくださいましてね。私は、何処に行くにも奥さまのお供をいたしました。奥さまが十八で、こちらにお嫁入りの時には、貧血ぎみの奥さまのことが心配で、桜河のお屋敷にお供してご奉公することになりました。お暇をいただいて、結婚も考えたのでございますが・・・・・・その頃に柾彦さまのようなお方と巡り合っておりましたら、私もきっと結婚してございました」
紫乃は、柾彦に微笑みかけて話を続けた。
「でも、奥さまのご希望もございましたし、私自身が奥さまと離れとうございませんでした。その頃、祐里さまの産みの母の小夜さんがお手伝いに来ていました。小夜さんは、素直な働き者でございましてね、私も小夜さんとすぐに仲良くなりました。東野の籐子奥さまに家事を習い、こちらでは、厳しい方ではございましたが、大奥さまの濤子さまにお料理を丁寧に教えていただきました。桜河のお屋敷のお料理は、大奥さまから全て教えていただきましたので、祐里さまに私からお伝えいたしました。光祐さまがお生まれになり、産後の肥立ちがお悪い奥さまと光祐さまのお世話をすることが嬉しゅうて、結婚など考えられませんでした。そのうち、可愛い祐里さまも来られて、旦那さまの代になリまして、いつの間にか、ここが私の家のように思えまして、私は、死ぬまで桜河のお屋敷にご奉公するつもりでございますのよ」
 紫乃は、しあわせな微笑を湛えながら、懐かしむように話をした。
「ここが紫乃さんの家ですし、桜河のお屋敷では、紫乃さんは、かけがえのない家族です」
 柾彦は、紫乃のしあわせをともに感じていた。
「はい、もったいのうございますが、私は、勝手にそのように思ってございます。柾彦さまは、そろそろ、ご結婚でございますね。奥さまからお話をお聞きいたしました。どうぞ、おしあわせになられてくださいませ」
紫乃は、柾彦の晴れ晴れとした笑顔を自分のことのように嬉しく思っていた。光祐の弟のように感じていた柾彦が良縁に恵まれたことが嬉しかった。
「まだまだですよ。出会ったばかりですから。紫乃さん、ご馳走さまでした。病院に戻ります」
柾彦は、照れ笑いをして手を合わせると、時計を見て立ち上がった。紫乃は、玄関横の車寄せまで柾彦を見送り、茜色に染まった庭の桜の樹を見上げた。桜の樹は、華やいだ茜色の葉を揺らし、紫乃を労ってくれていた。
「婆や、ただいま帰りました」
優祐と祐雫が、石畳を駈けて学校から戻って来た。
「優坊ちゃま、祐嬢ちゃま、お帰りなさいませ」
 紫乃は、玄関前で二人を抱きしめた。
「婆や、今日のおやつは、何」
 優祐と祐雫が、同時に問いかけた。
「さぁ、何でございましょうね。お着替えをなされて手を洗われましたら、食堂にいらしてくださいませ。それまでのお楽しみでございますよ」
「はい。婆や」
「祐里さまは、お留守でございますが、お二人で大丈夫でございますね」
 紫乃は、日本家屋に向かう優祐と祐雫の背中に伝えた。優祐と祐雫が生まれてから光祐と祐里は、日本家屋に移り住んでいたが、平日の朝食から夕食までの時間は、ほとんど洋館で過ごしていた。紫乃は、あどけない二人から元気をもらっていた。
「はぁーい」
 優祐と祐雫は、着替えをするために日本家屋の玄関へ競って走っていった。
「紫乃さん、ただいま帰りました」
 祐里は、石畳を静かに歩いて、紫乃の背中を優しく見つめていた。
「祐里さま、お帰りなさいませ。柾彦さまと入れ替わりに、今、優坊ちゃまと祐嬢ちゃまがお帰りになられたところです」
「声が聞こえてございました。柾彦さまとは、途中の道でお会いしました。紫乃さんの美味しいおやつに、ご満足のご様子でございました。紫乃さん、今日のおやつは、何」
 祐里は、子どもたちの真似をして問いかけた。
「さぁ、何でございましょうね。可愛い祐里さま、手を洗われましたら、食堂にいらしてくださいませ。それまでのお楽しみでございますよ」
「はい。紫乃さん。おいしそうな匂いがしてございますね」
 紫乃は、子どもたちに答えるように返事をした。祐里は、子どもの時から優しく見守り続けてくれる紫乃に感謝の気持ちで微笑んで、子どもたちの後を追った。
夕方になって、薫子が帰って来た。
「奥さま、お帰りなさいませ」
「紫乃、ただいま帰りました。今日は、少し疲れました」
 薫子は、迎えてくれる紫乃の穏やかな笑顔を見るだけで、疲れが癒されていた。
「お疲れでございましたら、お部屋でゆっくりなさってくださいませ。すぐに熱めのおしぼりと甘いものをお持ちいたしますので」
 紫乃は、幾つになっても薫子のことが可愛くて仕方がなかった。東野の籐子から、よく『薫子の身体が弱いのは、紫乃が甘やかすからでございます』と叱られたものだった。それでも、つい手を出さずにはいられなかった。
「静かでございますね。祐里さんと子どもたちはどちらに」
「おやつを召し上がられて、木の実探しに奥庭へお出かけでございます」
紫乃は、扉を開けて薫子を部屋に入れた。
「紫乃、とても嬉しそうな顔をしているけれど、何かございましたの」
 薫子は、長椅子に座りながら紫乃をまじまじと見つめた。
「午後に柾彦さまがお寄りになられて、私の料理を誉めてくださったものでございますから。それにもったいないことでございますが、私のことをかけがえのないお屋敷の家族だとおっしゃってくださいました」
紫乃は、満ち足りた気分で、自然に微笑みが溢れていた。
「さようでございますとも。わたくしは、いつもそのように思っていてよ。紫乃、いつまでも元気でわたくしの側にいてくれなければ、嫌でございますよ」
 薫子は、今まで紫乃が側に居たからこそ、恙無く暮らしてこられたことを改めて感謝した。身体の弱い自分の代わりに、厳しい義母の濤子とも上手く接して助けてくれた。光祐と祐里の世話や広い屋敷の家事一般、奉公人の取り纏め及び出入人の采配を引き受け、家族が気持ちよく暮らせるように心配りをしてくれた。薫子は、啓祐に寄り添い、紫乃に甘えて、今日までこられたのだった。
「坊ちゃまと祐里さまがおしあわせになられましたので、今の紫乃は、奥さまとご一緒させていただけることが何よりのしあわせでございます」
紫乃は、温かな微笑みを湛えて、台所におやつを取りに行った。

夜になって、啓祐と光祐が一緒に帰って来た。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
 車の音がすると家族が一斉に玄関に集まり、声を揃えて啓祐と光祐を迎えた。
「美味しい匂いがしているね。紫乃、今夜の夕食は何だろうね」
 啓祐が鞄を薫子に渡しながら、後ろに佇む紫乃に問いかけた。
「本日は、旦那さまの好物にいたしました。ご用意が出来ておりますので、食堂にいらしてくださいませ。もちろん、デザートは、坊ちゃまの好物をご用意いたしております」
 紫乃は、啓祐と光祐に微笑んで、お屋敷の家族の一員であることでこころが満ち足りて、ただただしあわせだった。
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