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四季織々〜景望綴

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章◆ 3

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章...
   大蛇

その翌日には、旦那さまが出張から戻って、昼食会が催されることになった。
 紫乃は、朝から腕を振るい、祐里も台所を手伝った。あやめは、お屋敷の隅々までを奉公人総出で磨きあげた。
 光祐さまは、台所の椅子に腰かけ、紫乃と祐里が料理を作る様子を眺めていた。
「坊ちゃま、殿方がお台所に入るものではございません」
 紫乃は、こころもち嬉しそうに困った顔をして注意した。
「父上さまと母上さまのお邪魔にならないように、ここにいるだけですよ」
「まぁ、光祐さまったら」
 祐里と紫乃は、顔を見合わせてくすっと笑い合った。光祐さまは、幼少の頃から隅の椅子に座って、祐里や紫乃との談笑を楽しみにしていた。祐里は、紫乃から料理を習い随分と腕を上げていた。
その頃、旦那さまの書斎では、旦那さまが奥さまに祐里の運命を左右する重大な話をしていた。
「これからは女の子も高等な学問を受けていた方がよいと思い、勉学熱心な祐里を女学校に進学させる事にしたけれど、昨日商談でお会いした榛様から縁談の話が持ち上がった。突然だが本日の昼食会にご子息を連れて来られるそうだ」
旦那さまは、満更でもない話だと思いながら奥さまの同意を求めた。
「えっ、祐里さんにお見合いの話でございますか。まだ、祐里さんは、十五でございますのよ。光祐さんは、長男で後継ぎでございましたから都の学校に出す覚悟は出来ておりましたが、わたくしは、まだ、祐里さんを手放すなんてことは出来ません」
 何時でも、旦那さまに従う奥さまが初めて意見をした。
「薫子、そう、私を責めないでおくれ。私とて祐里は可愛い。本当の娘だったらいつまでも手元に置きたいくらいに可愛い。しかし、光祐も祐里も年頃になった。榛様も気にしてくださったのだが、間違いが起こる前に祐里を嫁に出したほうがいいような気がしてな」
 旦那さまは、奥さまを優しく諭した。
「間違いだなんて。わたくしは、光祐さんと祐里さんを兄妹のように育てて参りました。光祐さんは、桜河家の後継ぎであることを自覚していますし、まして、あのように遠慮深い祐里さんがそのような気になるとは思えません」
 奥さまは、自分の育てた光祐さまと祐里を信じていた。
「祐里はともかく、光祐は、私に似て真っ直ぐな性格だ。私は、薫子と結婚すると子どもの時から決めていた。光祐だって益々美しくなっていく祐里に情が移らないとも限らないだろう」
「わたくしと旦那さまの場合は、生まれた時から父上さま方が許婚としてお約束されてございましたもの。ですから、わたくしは、物心ついてから旦那さまだけをお慕い申し上げて参りました。でも、光祐さんは、兄として祐里さんと接して可愛がってございます。恋愛感情などあろうはずがございませんわ」
 奥さまは、娘時代に思いを馳せながら、旦那さまへの変わらぬ深い愛情を感じていた。
「私は悔やまれてならない。祐里を引き取る時に桜河の籍に入れるべきだった。まだ、ご存命だった母上が反対されなければ、祐里は養女とはいえ、光祐とは戸籍上でも兄妹の間柄になっていたのだが・・・・・・後継ぎの光祐には、それなりの良家から嫁を迎えねばならぬ」
「榛様は、祐里さんの事情はご存知でございますの」
 奥さまは、祐里のしあわせに思いを巡らせていた。
「事情は申し上げた。先日の晩餐会に薫子が貧血で出られずに、祐里に供をさせたことがあっただろう。あの時にご子息が祐里の振り袖姿を見初めてくださって、是非にとのお話だ。文彌くんは、二男だから祐里の生まれのことは、それほど気にされていない様子だった。榛家ならば申し分のない家柄だろう。それに近々海外事業部に力を入れようと思っていた矢先の榛銀行との縁組は桜河電機にとって願ってもないことなのだよ」
「まぁ、わたくしの貧血がきっかけで、祐里さんが計略結婚の道具にされるなんて・・・・・・」
奥さまは、後悔の念に心を痛めた。
「計略結婚はさて置き、お見合いと言ってもそう大袈裟に考えずに、榛様をお招きしての気軽な昼食会と思いなさい。光祐と祐里にも伝えておくれ」
「旦那さま、わたくしは反対でございます。それにわたくしからは、祐里さんに伝えかねますので旦那さまがおっしゃってくださいませ。わたくしから、光祐さんだけではなく、祐里さんまで取り上げるなんて酷うございます」
奥さまは、断言して、渋々着替えのために自室へと向かった。旦那さまは、奥さまの剣幕に苦笑いをしながら、光祐さまを捜して明るい笑い声のする台所へ向かった。
「光祐。祐里。昼食会には、取引銀行の榛様とご子息を招待しているから、失礼のないようにきちんとした服装で席に着きなさい。そうだね、祐里は、華やかになるから振り袖を着なさい」
 旦那さまは、光祐さまと祐里の顔をしっかり見据えていった。光祐さまと祐里が楽しそうに一緒にいる姿は、子どもの頃から変わらず微笑ましく感じられた。
「はい、父上さま」
「はい、旦那さま、畏まりました」
 光祐さまと祐里は、旦那さまに返事をして顔を見合わせた。
「祐里さま、ここはもうよろしゅうございますから、お支度をされてくださいませ」
紫乃は、怪訝な顔で祐里を促した。
「はい、紫乃さん」
祐里は、自室に戻り箪笥から振り袖を取り出して衣紋掛けに掛けた。奥さまが桜河家に嫁入りの時に持ってこられた振り袖は、桃色地に満開の桜文様が総刺繍で施された見事なもので、先日の晩餐会に旦那さまのお供をすることになって、奥さまが祐里にくださった振り袖だった。祐里は、光祐さまに振り袖姿を見ていただけると思うだけで嬉しかった。
光祐さまは、不安になって奥さまの部屋の扉を叩いた。
「母上さま。少し、よろしいでしょうか」
 奥さまは、着物に着替えて頭を押さえて考え込んでいた。
「どうぞ」
「お加減が悪いのですか」
光祐さまは(父上さまも母上さまもご様子が変だ)と感じていた。
「少し、頭が重くて。でも、昼食会までには回復しますから、心配なさらなくても大丈夫でございます」
奥さまは、憂いを含んだ笑みを浮かべた。
「父上さまが祐里に振り袖を着なさいとおっしゃったのですが、榛様は、それほど大切なお客様ですか」
「旦那さまは、本日の昼食会を榛様のご子息と祐里さんのお見合いのお席になさるお考えなの。わたくしも先ほどお聞きしたばかりで、反対と申し上げたのでございますが、既にご招待されたからって旦那さまがおっしゃるの」
 奥さまは、いつになく興奮した面持ちで、旦那さまの意向を光祐さまに話した。
「ぼくも反対です。祐里は、まだ十五ですよ。祐里に何も知らせないで突然見合いだなんて、そのような事があっていい筈がありません。父上さまは、何をお考えなのですか」
光祐さまは、心臓を打ち抜かれた気分になり、どうにかしなければと心ばかりが焦った。旦那さまがこれほど早急な行動にでるとは予想だにしなかった。
「旦那さまは、貴方と祐里さんに間違いが起こってからではと心配されておいででございますの。そのようなことは取り越し苦労でございましょうに」
「はい・・・・・・も、勿論です」
 光祐さまは、こころを見透かされた気がして返答に詰まった。
「そろそろ榛様がお着きになられる時間でございますわ。とにかく、光祐さん、お支度をしていらっしゃい」
 奥さまに促されて光祐さまは、気が向かないまま着替えのために自室へ戻った。光祐さまの部屋には、旦那さまの命で既にあやめが式服を準備して掛けてあった。
 昼食会は、晴れやかな榛家とにこやかな旦那さま対重苦しいお顔の奥さまと光祐さまに、訳が分からないままお雛さまのようにちょこんと席に着いている祐里の三様の雰囲気で始まった。祐里の振り袖姿は、しっとりとした気品漂う奥さまの藤色の留め袖姿と共に、桜河家の応接間を一際艶やかに輝かせていた。
「ようこそ、いらっしゃいました榛様。妻の薫子です。長男の光祐です。それから、長女の祐里です」
 旦那さまが家族を紹介し、名前を呼ばれて会釈を返しながらも奥さまと光祐さまは、何時になく儀礼的な様子で、祐里は、二人が気になって落ち着かなかった。
「本日は、お招きに預かり恭悦至極に存じます。榛恭一郎でございます。これが妻の千鶴子でございます。それから、二男の文彌でございます」
 榛恭一郎の挨拶が終わるとすぐさま、正面の席の文彌は、長卓の下から足を伸ばして祐里の足袋に触れて、馴れ馴れしく声をかけてきた。祐里は、自分の足が当たって失礼をしたと思い恐縮して足を引いた。
「祐里さんは、振り袖がとても似合っているね。先日の晩餐会の時も美しかったけれど、今日は一段と美しい。惚れ惚れします」
「先日の晩餐会でございますか。気づきませんで申し訳ございませんでした」
文彌は、祐里を凝視したまま、間髪を入れずに次から次へ話しかけ、祐里は、受け答えをしながらも、文彌の鋭い眼にたじろいで俯いた。
祐里は、先程まで上機嫌だった光祐さまが初めて見て頂く振り袖姿にも無言のままで、とても怖い顔をしているのが気になって、文彌との会話も会食も上の空で(早く時間が経つとよろしゅうございますのに)とばかり思っていた。光祐さまは、自分以外に向けられた祐里の艶やかな振り袖姿が腹立たしくて仕方がなく、祐里から視線を反らせていた。
 ようやく、食後の苺と珈琲が運ばれてきた。祐里が珈琲を飲干して、ほっとしたのもつかの間、旦那さまからの提案があった。
「祐里、文彌くんを我が屋敷自慢の庭園に案内しておくれ。ゆっくりと文彌くんと歓談してきなさい。光祐は、ここにいて榛様から経済界のお話を聞かせていただきなさい」
 旦那さまは、気を利かせて、立ち上がりかけた光祐さまを制した。
「はい、畏まりました」
祐里は、落ち着かないまま返事をした。光祐さまは、長卓の下で不安げな表情の祐里の手を優しく握って頷いて、文彌を睨みつけた。文彌は、不敵な勝ち誇った笑みを返した。祐里は、光祐さまの優しい手の温もりに元気付けられて、仕方なく、洋館の玄関から日本家屋の前に広がる荘厳な日本庭園へ文彌を案内した。
「ねえ、君、僕と結婚しようよ」
文彌は、祐里と二人きりになったのを確認すると、突然に求婚の言葉を口にして、庭園を案内する祐里の肩を掴み自分の方に向かせた。祐里の振り袖に描かれた桜の花弁が舞い散るように大きく揺れた。
「おっしゃっている意味がよくわからないのでございますが」
祐里は、とっさに身構えた。同時に奥さまと光祐さまの不機嫌な態度を理解した。
「桜河の旦那さんから、今日の見合いの話は聞いてないの。初めて会って、結婚の申し込みだなんて冗談だと思われるかもしれないが、僕は、ずっと以前から君の事を見知っていた。初めて見たのは、光祐坊ちゃんの中学入学祝いの宴だった。君は、まだ幼さを残しながらも美しく輝いていた。それから、年々女らしく綺麗になっていく君を見る度にますます僕の心は、君に釘付けになったのだよ。僕の瞳に映った今日の君は、最高に美しい」
 文彌は、ぎらぎらとした獲物を捕らえる大蛇のような眼で、振り袖を透かして祐里の裸体を見ていた。祐里は、文彌の鋭い視線に振り袖を切り裂かれた気分に陥りながら、頭の中で『見合い』という言葉が波紋となって広がっていった。
「私は、今日はじめて榛様とお目にかかりました。榛様の事は、何も存じておりませんし、春からは女学校に進学するものとばかり思っておりました」
 祐里は、後退りしたい気持ちでいっぱいになり、大蛇に睨まれた獲物のように身体の力が抜けていくのを感じていた。見慣れた庭園が一瞬にして藪と化した気分だった。
「困惑した君の顔もなかなか美しいね。僕は、二十三で、君はもうすぐ十六。結婚できる年齢だけど、進学したいのだったら結納を交わして、君が女学校を出てから結婚ということにしてもいいよ。こんなに美味しそうな君を目の当たりにすると、待てなくてすぐに結婚ってことになるだろうけれど。君は、会う度に美しい女に変化していくからね。他の男の視線に触れさせるのがもったいないから、今すぐにでも榛の家に連れて帰りたいくらいだ。いくら好き合っていても、孤児の君が光祐坊ちゃんと結婚できるわけがないだろう」
祐里に恋焦がれる文彌は、光祐さまと祐里のお互いに惹かれ合う気持ちを瞬時に察知していた。文彌は、燃え盛る恋の眼差しで祐里を見下ろし、激しい恋情をぶつけるように、祐里の華奢な肩を抱き寄せて唇を奪おうと迫った。
「お許しくださいませ。お会いしたばかりでございます。お見合いのお話すら旦那さまから伺ってはございませんし、それに私は、まだ結婚など考えられません」
 祐里は、光祐さまを想い、頑固に文彌を拒絶し、抱擁から逃れた。
「まぁ、楽しみは後にとっておいてもいいか。君はもう僕のものなのだから。桜河の旦那さんは、乗り気になっているからね。それはそうだろう、後継ぎの光祐坊ちゃんの側にいつまでも綺麗な君を置いていては、間違いが起こってからでは遅すぎるもの。それとも、もう、光祐坊ちゃんには抱かれたの。それで日陰の女にでもなるつもり」
 文彌は、孤児という立場からして自分の意のままにおとなしく従うと思っていた祐里の頑なな拒絶にあい、ますます祐里への恋情を滾らせていた。
「光祐さまに失礼でございます。そのようなことはございません。光祐さまは、精錬な兄上さまでございます。それに、私は、ものではございません」  
 祐里は、初めて会った文彌から容赦ない侮蔑を受けながらも(この方に怯むわけには参りません)と真っ直ぐに見詰めて言い返した。
「ふふっ、光祐坊ちゃんは、兄上さまか・・・・・・自分の身分を弁えているのならば話は早い。僕は、身分違いの君を正妻にしてやると言っているのだよ。感謝してもらいたいね」
 文彌は、必死になって受け答えをする祐里をますます愛おしく感じていた。
「感謝などいたしません。私は、邪な考え方をされる榛様が嫌いでございます」
 祐里は、思わず正直な気持ちを口にしていた。そして、旦那さまの招待客にこのような発言をした自分に驚きながらも、権力を笠に着る文彌に涙を見せてはならないと、瞬きをしてしっかりと見返した。こんなにも早く光祐さまとの別れの日がくるとは、こころが張り裂けんばかりに哀しかった。
「さすがに桜河家で育っただけあって気丈な女だ。だが、君は、世話になっている桜河の旦那さんの意向には逆らえないだろう。桜河電機は、海外進出で榛銀行の融資を当てにしているからね。君を担保にもらう条件を附帯して、次に会うときには、僕にそんな口が利けないように君の全てを僕のものにしてやるからな」
 文彌は、大蛇が鎌首をもたげるように高い壁となって立ちはだかり、弱い立場の祐里を甚振ることで、めらめらと燃え上がる激しい恋情を感じていた。
「旦那さまのご意向には従わざるを得ません・・・・・・榛様とのお付き合いをお望みでございましたら従います。でも、私のこころは、決して榛様のものにはなりません」
 祐里は(身分違いとおっしゃるのでございましたら、私を妻になどなさらなければよろしゅうございますのに)と精一杯の思いを込めて文彌を拒絶した。文彌は、不敵な笑みを浮かべて祐里の前に君臨し、祐里の拒絶をも楽しんでいた。
光祐さまは、途中で席を立ち、その様子をバルコニーから見て悔しい思いをしていた。文彌と祐里の間に割って入って、どんなに文彌を殴りたかったことか。バルコニーの手摺りを握る手に血が滲むほど力が入っていた。
「そのように怒った顔も魅力的だ。君の全てを食べ尽くしたいくらいだ」
文彌は、再び祐里の細い肩を強引に抱き寄せてくちづけを迫った。その時、奥さまの足音が聞こえてきた。
「祐里さん、文彌さん、午後は陽射しが強うございますので、テラスでお茶にいたしましょう。祐里さん、紫乃にお茶の用意をお願いしてくださいね。文彌さんは、テラスへご案内しますのでこちらへどうぞ」
 奥さまは、時間を見計らって台所に行き、紫乃にお茶の用意を催促し、祐里を心配して庭に呼びに出た。
「はい」
 奥さまの申し出では文彌も断れず舌打ちをして、祐里を振り返りながらもテラスへ向かった。
「はい、奥さま。すぐにお茶をお持ちいたします」
 祐里は、安堵の溜息をついて、何事もなかったかのように台所へ向かった。
「祐里さま、お顔の色が悪うございますが、帯がきついのではございませんか。昼食会がお見合いの席とはびっくりいたしましたね」
 紫乃は、心配して祐里の帯を心もち緩めた。紫乃は、突然に降って湧いた祐里の見合いに驚いていた。口には出せないけれど、旦那さまの意向とはいえ、三歳の時から育み、台所仕事を手塩にかけて教えてきた祐里を嫁に出したくないと強く思っていた。
「ありがとうございます、紫乃さん。楽になりました」
「お茶は、紫乃と菊代で運びますので、祐里さまはお先にテラスへお越しくださいませ」
祐里は、紫乃の優しさに触れて元気を取り戻すとテラスへ向かった。
 祐里は、旦那さまとお客さまの手前、愛想よく振る舞っていたけれども、時間が早く経つことばかりを念じていた。奥さまと光祐さまは、そんな祐里の横で、こころを痛めて見守ることしかできなかった。祐里に横暴な態度をとった文彌は、旦那さまの前では上手に立ち振る舞い、好印象を与えていた。反面、旦那さまに気付かれないように光祐さまには、敵意に満ちた毒牙を鳴らすような視線を放っていた。光祐さまは、文彌の剥き出しの敵意をしっかりと受け止め、傷ついた手を握り締めて耐えていた。
お茶の時間の後、榛一家は、満足して帰っていった。文彌は、玄関先の車寄せで見送る祐里を凝視し、大蛇がとぐろを巻いて締めつけるかのごとく祐里のこころを暗黒の闇へと束縛していた。
 旦那さまと奥さまが屋敷に入るのを見届けて、祐里は、ひとり桜の樹の下に向かった。桜の樹は、傷ついた祐里のこころを陽だまりの暖かさで包み込んだ。(桜さん、祐里は、お嫁になど行きとうございません。光祐さまのお側で、ずっとこのお屋敷に居とうございます)祐里は、桜の樹を見上げてこころの中で呟き、大粒の涙を零しながらその太い幹に顔を伏せた。桜の樹は、爽やかなそよ風と可愛い鳴き声の小鳥たちを呼び、お雛さまのように可憐な振り袖姿の祐里を優しく慰めた。その真上のバルコニーでは、光祐さまが(桜の樹、ぼくに力を貸しておくれ。ぼくは、祐里を守りたい)と真剣に桜の樹に祈っていた。
 しばらく、桜の樹の下にいた祐里は、辛いこころを抱えたまま、夕食の支度を手伝う時間を気にして、振り袖を着替えに自室へ戻った。
 夕食の時間は、奥さまも光祐さまも気分がすぐれないと食堂に出て来なかった。祐里は、食欲がないまま、旦那さまと二人で食事をとった。
「祐里、文彌くんはどうだった。しっかりした青年だろう」
旦那さまは、縁談の話にご満悦でにこやかに祐里に話しかけた。祐里は、返事のしようがなく小さく頷いた。
「そうか、お茶の時間にも話がでたが、婚約して、祐里が女学校を卒業してから結婚というのはどうかね。私は、文彌くんに望まれて嫁に行くのだからいい話だと思うがね。女は、良き伴侶に恵まれてこそ、しあわせになれるのだからね」
 旦那さまは、優しく祐里を諭した。祐里は、良縁に喜び、結婚を望んでいる旦那さまの様子を目の当たりにして、文彌から受けた侮蔑を口にできなかった。
「旦那さま、あまりに突然のお話で、どのようにお答えしてよろしいのか・・・・・・私のことは、旦那さまに全てお任せいたします。どうぞよろしくお願い申し上げます」
 祐里は、こころを殺して旦那さまの前で涙を見せないように懸命に我慢した。
「そうか、そうか、私に任せてくれるか。私は、祐里にしあわせになってもらいたい。心配せずとも桜河家の娘として立派な支度をするからね。榛家ならば、家柄は申し分ないし、生活に苦労をする事もないだろう。どうした、胸がいっぱいで食が進まないのかね」
「そのようなことは・・・・・・あの、旦那さま、私が光祐さまに先置いて縁談を決めてもよろしゅうございますか」
「光祐の心配は無用じゃ。光祐は、桜河家の後継ぎとして、大学を卒業するころには相応しい良家の子女と縁組をすることになるだろう」
祐里の視界には、無限の闇が広がっていた。旦那さまは、上機嫌で祐里の蒼白な顔色を気に留めなかった。初めての見合いで気疲れもし、更に自分の眼鏡に適った好青年の文彌を気に入って胸がいっぱいなのだろうと感じていた。
 紫乃は、台所で夕食の片付けを手伝う蒼白な顔色の祐里を気遣って(今の祐里さまをお慰めできますのは、坊ちゃまだけでございます)と思い、祐里に声をかけた。
「祐里さま、今日はお疲れでございましょう。片付けは紫乃と菊代でいたしますので、坊ちゃまに食後の果物をお持ちして、ゆっくりなさってくださいませ」
「祐里さま、さぁ、前掛けを外されて、坊ちゃまにこちらをお持ちくださいませ」
「はい。紫乃さん、菊代さん、ありがとうございます」
 祐里は、心配顔の菊代から果物の盆を受け取って、光祐さまの部屋へ向かった。
「紫乃さん、旦那さまは、あまりにも酷いことをなされます」
「菊代、旦那さまのなさることに私たちが口を挿むことは許されません。せめて坊ちゃまが祐里さまのおこころをお慰めになられることを祈るばかりでございます」
 菊代は、祐里を不憫に思って切ない涙を流し、紫乃は、旦那さまの意向に必死に耐え忍んでいる祐里のひとときの安らぎを祈っていた。
「光祐さま、食後の果物をお持ちいたしました」
 祐里が円卓に盆を置くと、光祐さまにそのまま抱きしめられた。
「祐里。昼間は、何も助けてあげられなくてすまなかった。よくひとりで頑張ったね」
 光祐さまは、祐里を泣かせてばかりいる自分の力のなさにこころを痛めていた。優しい光祐さまの包み込むような声に、祐里は、昼間からの緊張がどっと解けて、光祐さまの温かい胸に縋って泣きじゃくる。文彌に見つめられ、抱きつかれて汚されたような気分になっていたこころの漆黒が涙とともに晴れていった。
「祐里の振り袖姿は、榛様に見せるのが惜しいくらいにとても似合って綺麗だったよ。ぼくは、何があろうと絶対に祐里を守るからね」
 光祐さまは、祐里を長椅子に座らせて向き合うと、指先で祐里の溢れる涙を拭った。祐里は、光祐さまが振り袖姿を褒めてくださったことに喜びを感じながら、光祐さまの手の傷に気付いて優しく包み込んだ。光祐さまの傷口からは、悔しさと深い愛情が痛いほどに感じられた。祐里の慈悲深いこころが光祐さまの傷口を少しずつ癒していった。
「旦那さまは、榛様との御縁組をお慶びでございます。旦那さまの仰せのとおりにいたしますが、でも、祐里は、いつまでも光祐さまのお側に居とうございます」
 祐里は、涙を湛えた瞳で真っ直ぐに光祐さまを見つめた。
「勿論だよ。ぼくの大切な祐里、いつまでもぼくの側に居ておくれ」
 光祐さまは、しっかりと祐里を抱きしめて、優しく祐里の黒髪を撫でながら(大切な祐里を誰にも渡しはしない)とこころに誓う。文彌に渡すくらいなら、今すぐにでも無垢な祐里を抱いてしまいたかった。しかし、立派な男として祐里を守る立場にない学生の自分にその資格はないし、何よりも祐里が大人の女性に成長するまで大切にして待ちたいと思っていた。現に祐里は、安心しきって自分に抱かれている。光祐さまは、これほどまでに大切にしている祐里に、初対面でくちづけを迫る文彌に対して不信感を擁いていた。
 その晩、祐里は、なかなか寝付けなかった。瞳を閉じると、大蛇のように凝視する文彌の眼と光祐さまの優しい笑顔が交互に現れた。ようやく明け方になって、うつらうつらした時に夢を見た。
 ・・・・・・・・・暗闇から大蛇がしゅるしゅると忍び寄り、祐里の身体に巻き付いた。ひんやりとした感触が祐里を暗黒の奈落へ引きずり込んでいった。祐里は、ぎらぎらとした大蛇の視線を目の当たりにして恐怖に駆られ、必死に「光祐さま」と名を呼び助けを求めた。そこに一筋の光が差し込んで、桜の花弁がひとひら祐里の黒髪に舞い降りた。「祐里」と光祐さまの優しい声がした途端に暗闇と大蛇が掻き消え、祐里は、青空に輝くの桜の樹の下に佇んでいた・・・・・・・・・。
祐里は、目を覚まして「光祐さま」と呟いて寝返りを打ち、再びうつらうつらと夢に引き込まれていった。そして、場面は父母を亡くした日へ移っていった。
・・・・・・・・・ 季節は梅雨だった筈なのに桜の花弁が舞っていた。突然、轟音と共に裏手の山が崩れて、土砂が津波のように襲ってきた。父と母が、祐里を抱きしめて守ってくれていた。そこに大きな樹の枝が伸びてきて祐里を包み込み、土砂の上を滑っていった。樹の枝は、土砂の津波を潜り抜けて安全なところに祐里を運ぶと、いつの間にか幻のように消えていた。祐里の父と母は、家と共に山崩れで亡くなったが、祐里は、奇跡的に助かった。泣いているところを村人に見つけられ、桜河のお屋敷に連れて行かれた・・・・・・・・・。
 父と母の顔はもう思い出せなかった。ただ、二人の優しい『ゆうり』という声だけが今も耳に残っている。(お父さま、お母さま、祐里を助けてくださいましてありがとうございます。これからも祐里をお守りくださいませ。どうぞお屋敷に置いていただけますようにお力添えくださいませ)祐里は、こころの中の父母に手を合わせた。
翌早朝、奥さまは、真剣な表情で光祐さまの部屋を訪れた。
「おはようございます、光祐さん。わたくしは、貴方が帰省されているのに心苦しいのですが、今回だけは旦那さまのお考えに添うことができませんので、しばらく東野の里に帰ります。わたくしの留守の間は紫乃に家事を任せますが、わたくしの代わりに旦那さまと祐里さんをお願いしますね」
「はい、母上さま。ぼくは、父上さまに祐里のことをお願いしてみます」
 奥さまは、光祐さまの手を取り、固い決意の表情で頷いた。それから、旦那さまに置き手紙を残して、紫乃に家事を委任すると、森尾の車で実家に帰って行った。
光祐さまは、朝食の食卓に着きはしたが、怖い顔で旦那さまを見つめ無言のままで通した。いつもにこにこと愛らしい声で話をする祐里までが、泣き腫らした瞳を気にして俯き加減で食事をしていた。旦那さまは、久しぶりに家族が顔を合わせたというのに、奥さまと光祐さまの抵抗に遭い、どうしたものかと考えていた。奥さまが嫁いで二十年、今までに旦那さまに逆らったことはなかった。そのことでも旦那さまは、心を痛めていた。
朝食を終えると、旦那さまは、光祐さまを書斎に呼んだ。
「光祐、私に何か言いたい事があるのならば、はっきりと口に出して言いなさい。三年ぶりに家族が揃ったというのに昨日からずっとそのしかめ面だ。母上は、実家に帰ってしまうし、奉公人達の様子もおかしいし、祐里のめでたい縁談の何処が気に入らないのだ」
 旦那さまは、腹を立てながらも光祐さまの意見を聞くことにした。
「父上さまは、十五にしかならない祐里の縁談をどんどん進められて、あまりにも強引です。父上さまの仰せに祐里が逆らえるとお思いですか。結婚はとても大切なことですよ。祐里の気持ちを考えておられるのですか」
 光祐さまは、真っ直ぐに旦那さまを見つめて熱心に訴えた。
「祐里は、現在は十五でもこの春で十六になり、嫁に行ける歳になる。突然のことで驚いてはいるが、榛様を気に入ったようで、全て私に任せると申しておる。榛様から是非にと請われて行くのだから願ってもない縁談ではないか。光祐は、桜河家の後継ぎで祐里の兄なのだぞ。可愛い妹のしあわせな結婚を喜んでやるべきではないのか」
 旦那さまは、まだまだ子どもだと思っていた光祐さまの意見を聞いて成長を感じながらも、お屋敷の当主としての威厳を保った。
「祐里のしあわせは、ぼくも望んでいます。でも、祐里は、未だ十五ですし、進学も決まっているのですから、結婚話は女学校を卒業してからでも遅くはないでしょう。それに榛家は良家でしょうが、文彌さんはしっかりとした人物なのですか。昨日の文彌さんの態度を拝見した所、祐里を大切にして、本当にしあわせにしてくれるとは思えません」
光祐さまは、祐里を守り通さねばと心に決め、真剣に旦那さまに訴えた。旦那さまは、光祐さまの意見を受け、しばらくどうしたものかと考えて口を開いた。
「家としてではなく、個人としてということか。光祐も一人前の口を利くようになったな。そこまで申すならば、調べさせてみるか。調査で榛様が好青年であると太鼓判を押してもらえば、母上も光祐も納得するだろう。いいかね光祐、何度も言うようだが、光祐は、桜河家の後継ぎで、祐里は、妹なのだぞ。何時かは嫁に出さねばならぬ」
 旦那さまは、昨日の文彌の振る舞いを見て、仕事上でも付き合いのある榛家に何も疑問の余地はないと考えていた。そして、尚更光祐さまの兄としての立場に念を押した。
「父上さま、祐里が妹ということは重々承知しております。それならば、どうぞ、父上さまの娘である祐里のしあわせを考えてあげてください。よろしくお願い申し上げます」
 光祐さまは、一筋の光を見つけた気分になって旦那さまに笑顔を見せた。
「さぁ、私は、仕事に行ってくる。光祐、ご機嫌伺に母上の好きな菓子でも持って、東野の家へ顔を出しておくれ。籐子おばあさまも三年ぶりの光祐をお待ちかねだろうからね」
 旦那さまもようやく笑顔を見せて、光祐さまの肩を優しく叩いた。
「はい、父上さま」
 その時、祐里が書斎の扉を叩いた。
「入りなさい」
「失礼いたします。旦那さま、そろそろご出勤のお時間でございます」
 祐里は、いじらしくも旦那さまに笑顔を向けた。
「祐里、支度を手伝っておくれ」
 祐里が書斎に入ると、光祐さまは、明るい表情で頷いた。祐里は、光祐さまの笑顔に安堵して、旦那さまの支度を手際よく整えると、奉公人一同と共に玄関先で見送った。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章◆ 2

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章...
   桜の樹

 それから、六年の歳月が流れた。
 祐里は、少女から美しい娘へと成長し、間もなく十六の歳を迎えようとしていた。四月からは、町の女学校に進学する。桜河のお屋敷では、十三年間、旦那さまと奥さまからは、実の娘のように可愛がられ、奉公人達からは、祐里さまと愛しまれていた。
「祐里さん、今し方電報が届いて、光祐さんが春の休暇で、三年ぶりに帰っていらっしゃるの。森尾と一緒に駅までお迎えに行っていただけるかしら」
 華やいだ声は、奥さまの薫子さま。貧血気味の奥さまは、透き通るような色白の肌で大切に育てられた薔薇のようなお方。祐里の部屋の扉を叩いて笑顔を向けた。
「光祐さまがお帰りになられるのでございますか。はい、すぐに参ります」
三年ぶりに帰省される光祐さま。お便りは届いていたけれど、どんなにお会いしたかった事か・・・・・・祐里のこころは、春の陽射しに包まれた。
「今夜は、光祐さんの好物を紫乃に揃えてもらいましょうね。駅に行く途中に魚桜で特別なお魚を注文してくださいね。森尾が玄関に車を廻していますからお願いします」
「はい、奥さま」
 祐里は、桜色のワンピースに着替えて、若葉色のカーディガンを羽織ると玄関へ急いだ。祐里の長い黒髪と色白の肌に桜色のワンピースが映えて、一足早い桜満開の雰囲気を辺り一面に醸し出した。
「森尾さん、お待たせいたしました」
 祐里は、奥さま専属運転士の森尾守の開けた後ろの扉から車に乗りこみ、光祐さまのいなくなったこの六年間を思った。
 光祐さまが祐里にくださったお仕事だったから、淋しくても元気に振る舞い、旦那さまと奥さまが淋しくないようにと配慮した。
「祐里さま、ようやく、光祐坊ちゃまがお帰りでございますね」
「はい、嬉しゅうございます。森尾さん、先に魚桜に回ってください」
 祐里は、満面の笑顔を森尾に向けた。森尾は、祐里の華やいだ気持ちを受けて、快く車を発進させた。魚桜では、祐里の顔を見るなり、店主が活きのよい真鯛を掲げて見せた。
 駅前に車を駐車して、改札口を出ると定刻通りに列車が到着した。光祐さまは、祐里が想像していた以上に長身になり、爽やかな笑顔で列車から降り立った。
「祐里。帰ったよ」
 光祐さまは、祐里を見つめ、優しい声で包み込んだ。
「光祐さま。お帰りなさいませ」
 祐里は、光祐さまのきらきらと眩しい姿を仰ぎ見て、例えようがないくらい胸がしあわせでいっぱいになった。
「光祐坊ちゃま、お帰りなさいませ。ご立派になられて、爺は、嬉しゅう御座います」
 森尾は、涙ながらに光祐さまの鞄を受け取った。
「ただいま。爺も元気そうで安心したよ。ぼくは、祐里と散歩して家に戻るから、爺は先に帰って母上さまに無事に着いたと知らせておくれ」
 光祐さまは、森尾に優しいまなざしを向けた。
「畏まりました。どうぞ、光祐坊ちゃま、祐里さま、お気を付けてお帰りくださいませ」
 森尾は、光祐さまと祐里に深々とお辞儀をすると一足先にお屋敷へ戻って行った。
「祐里、桜川を散歩しながら帰ろう」
光祐さまが先に歩き出した。
「はい、光祐さま」
 祐里は、光祐さまの広い背中を見つめながら、一歩後ろをお供した。
「祐里、綺麗になったね。驚いたよ」
 振り向いた光祐さまのまなざしを浴びて、祐里の胸はどきどき、頬が桜色に染まっていく。光祐さまは、三年のうちに少女の殻を脱いで、女性の衣を纏い始めた祐里の変化にしばし見惚れていた。
「光祐さまは、ご立派になられました」
 光祐さまは、にっこり笑って頷いて祐里の手を取り、川の土手を降りて行った。
 菜の花の咲く川原は、紋白蝶が飛び交い、春の陽射しに包まれてのどかで暖かだった。光祐さまは、ずっと祐里の手を引いて歩いた。祐里のこころもぽかぽかと温かくなっていた。
「いつも、祐里とこうして散歩したね。いつの間にか日が暮れて、よく母上さまが心配なさって叱られたよね」
 光祐さまは、祐里の足元に気を配りながら優しい眼差しを向けた。
「はい、光祐さま。懐かしゅうございますね」
 祐里は、真っ直ぐに光祐さまを見つめて返事をした。光祐さまと一緒にいると何時の間にか時間が過ぎてしまい、気が付くといつも暗くなっていたのを思い出していた。暗い道でも、光祐さまが手を引いてくだされば全然怖くはなかった。
 突然に光祐さまは、祐里をぎゅっと抱きしめた。お屋敷の光祐さまと孤児の祐里では身分違い。どれほどお慕いしても、叶わぬ恋。旦那さまと奥さまがいくら可愛がってくださっても、光祐さまに愛される資格などあるわけがない。でも、光祐さまの胸の中で溶けてしまいそうなしあわせを感じている祐里がいた。(このまま、時間が止まってしまうとよろしゅうございますのに)と、祐里は、こころの中で念じていた。
「祐里の香りがする。ぼくの大切な祐里。ぼくだけの祐里」
 光祐さまは、胸いっぱいに祐里の香りを吸い込んだ。
「光祐さま。もったいないお言葉でございます」
 祐里の瞳からは、はらはらと涙が零れて、光祐さまの濃紺の上着を涙の雫で滲ませた。光祐さまの逞しい胸に包まれて、至福の真っ只中にいながら、同時に奈落の不安を感じている祐里だった。お屋敷の光祐さまは、雲上人のように手の届かぬ御方だった。
「ぼくは、祐里を愛している。どのようなことがあろうとも、必ず、祐里と結婚する。それとも祐里は、ぼくのことが嫌いなの」
光祐さまの真剣なまなざしを受けて、祐里は、首を横に振った。
「ずっと、お慕い申し上げております。でも、光祐さまには、孤児の私など分不相応でございます。まして結婚など畏れ多うございます。祐里は、このようにご一緒させていただくだけでしあわせでございます」
 祐里は、瞳を涙でいっぱいにして、光祐さまを見上げた。
「父上さまも母上さまも祐里のことを可愛がっておられる。身分など関係ないよ。それにぼくが誰よりも愛しているのだから、祐里は、ぼくを信じてついてきておくれ。さぁ、涙を拭いてあげよう。祐里が泣いていると、母上さまが心配されるからね。祐里は、泣き顔もまた美しいけれど、やはり笑顔が一番似合っているよ」
 光祐さまは、ハンカチを取り出して祐里の涙を拭った。そして、もう一度、強く抱きしめて優しく髪を撫でると、手を繋いだまま歩き出した。
(ぼくは、ひとりの人間として、こころの優しい祐里を愛している。ただ、それだけのことなのに、どうしていけないのだろう)と光祐さまは考えていた。
「休暇は、いつまででございますか」
「祐里の誕生日の三日に発つ。入学式までにはまだ日にちがあるのだけれど、父上さまとご挨拶に伺う御邸が多くてね。滞在は十日間だけれど、祐里と一緒に過ごすと、都に帰りたくなくなるよ」
「十日間でも、光祐さまとご一緒に過ごせますのは嬉しゅうございます」
川原の小さな草花が光祐さまと祐里を優しく包み、小鳥たちは可愛い声で囀って二人の仲を祝福していた。光祐さまと祐里は、至福の世界に包まれていた。
 川原を過ぎて桜橋を渡った所で、光祐さまは、祐里から手を離し、しきたりを重んじて一歩前を歩いた。
「桜河のお坊ちゃま、お帰りなさいませ。祐里さま、こんにちは」
 光祐さまと祐里は、家並みの続く道で、光祐さまの帰省を祝いに出てきた衆から声をかけられた。衆は、立派になった光祐さまを仰ぎ見た。
「ただいま帰りました。お元気で何よりです」
「こんにちは。ご機嫌いかがでございますか」
 その一人一人に光祐さまは、会釈を返し、祐里は、一人一人に丁寧に声をかけた。
 光祐さまの帰省の知らせは衆に知れ渡っていた。桜川地方では、桜河のお屋敷に足を向けられないと衆が言う。旦那さまも奥さまも光祐さまも衆から敬われていた。そして、祐里の出生を知っている衆でさえ、今では祐里のことを桜河のお嬢さまとして敬っていた。祐里が道を通るだけで、衆は不思議としあわせな気分になるのだった。
光祐さまは、お屋敷の八脚門をくぐり、庭の長い石畳を抜けて、東側の住まいである有名な建築家が設計した洋館と西側の亡き祖父母の住まいであった荘厳な日本家屋を三年ぶりに懐かしい思いで眺めた。そして、洋館の玄関へ歩を進めた。
「光祐坊ちゃま、お帰りなさいませ」
 女中頭の森尾あやめを先頭に女中たちが足音を聞きつけて、玄関の端に一斉に並んで出迎えた。
「ただいま、あやめ。皆も出迎えありがとう」
 光祐さまは、あやめに笑顔を向けた。あやめは、立派になった光祐さまの姿に胸がいっぱいで涙ぐんだ。他の女中たちも光祐さまの健やかな成長に見惚れていた。
「お帰りなさいませ、光祐さん。お帰りを待ち侘びてございましたのよ。祐里さん、ご苦労さま。ご一緒にお茶にしましょう」
奥さまが居間から出てきて、成長した光祐さまを誇らしげに見つめた。
「母上さま、ただいま帰りました」
 光祐さまは、よく透る澄んだ声で挨拶をした。
「奥さま、ただいま帰りました。遅くなりまして申し訳ございません。お茶を入れて参ります」
 祐里は、泣いたあとの顔が気になって、台所に続く廊下の鏡を覗きこんだ。それから急いで洗面室で顔を洗って台所へ向かった。
「ただいま、紫乃さん。魚桜から真鯛は届きましたか」
 笹生紫乃は、奥さまが嫁いだ時に実家から連れて来た婆やで、奥さまのよき相談相手だった。お屋敷の台所を取り仕切り、女中頭のあやめと共にお屋敷の奉公人を束ねていた。紫乃は、光祐さまの好物を腕に縒りをかけて沢山準備していた。
 祐里は、お屋敷では養女と同等の待遇を受けていたが、進んで台所や掃除の手伝いをしていた。紫乃は、祐里を見込んでお屋敷に代々伝わる数々の料理を教え込んでいた。
「祐里さま、お帰りなさいませ。絶品の鯛が届いてございます。坊ちゃまがお帰りになられて、賑やかにおなりでございますね。おやつは坊ちゃまのお好きなお茶と苺のタルトの準備ができてございます。お茶は紫乃が運びますので、祐里さまはタルトのお盆をお願いいたします」
 紫乃の料理は、天下一品。食する人の気持ちに添って料理が食卓に並べられた。紫乃の口癖は『お料理はこころの匙加減で決まります』だった。
「はい。紫乃さん、おいしそうでございますね」
祐里がお盆を抱えると甘酸っぱい苺の香りに包まれた。紫乃の畑で採れた春の香り。
 奥さまと光祐さまは、長椅子に並んで腰かけて、にこやかに話をしていた。その様子に(奥さまのしあわせ溢れる笑顔は、本当に久しぶりでございます。光祐さまがいらっしゃるとお屋敷の中が光り輝くようでございます)と祐里は感じ入った。
「坊ちゃま、お帰りなさいませ」
 紫乃は、朗らかな笑顔を光祐さまに向け、香り高い紅茶を茶碗に注いだ。
「婆や、ただいま。婆やのご馳走を楽しみに帰ってきたよ」
 光祐さまは、変わらない紫乃の笑顔に生家に帰ってきた安らぎを感じた。
「まぁ、嬉しゅうございます。坊ちゃま、紫乃にお任せくださいませ」
 お屋敷は、光祐さまの帰省で、陽だまりの暖かさに包まれていた。

春の朧月夜。祐里は、光祐さまへ紅茶を届けに部屋の扉を叩いた。
「光祐さま、お茶をお持ちいたしました」
「祐里、来てごらん。月が綺麗だよ」
 バルコニーから光祐さまの声。光祐さまの部屋のすぐ横には、蕾を膨らませた樹齢三百年を超える優美な桜の樹が枝を広げている。その枝の間に朧な月がかかっていた。月の薄明かりの中で木立が織り成す陰影が静かな湖のように青く広がっていた。時折明るさを増す月光が池の水面に輝く星空を展開していた。
「光祐さまとご一緒に拝見させていただくお庭は、御伽の世界のようでございますね。天空のようでもございますし、深い海の底のようにも見えてございます」
 祐里は、光祐さまと並んでバルコニーに佇み、幻想的な庭園の風情に感動していた。光祐さまの横にいるだけで満ち足りたしあわせに包まれていた。
「月の光を浴びて、祐里は、この桜の精みたいだよ」
 光祐さまは、庭に感動している祐里の横顔をみつめて、優しく肩を抱き寄せた。祐里は、静かに光祐さまに寄り添い温もりを感じていた。時間が止まったようにゆるやかに流れていた。
 祐里は、お屋敷に世話になった日の事を思い出していた。
 ・・・・・・・・・黒い喪服を着た人たちが行き来し、祐里は、ひとり、部屋の隅に座っていた。いつの間にか隣に光祐さまが座って「ゆうり」と優しく微笑んで手を握ってくださった。福祉施設に行く予定だったのに、光祐さまは、その手をお離しにならなかった。その姿をご覧になられた桜河の旦那さまと奥さまが光祐さまの遊び相手にと、祐里を引き取ってくださった。奥さまは、光祐さまの出産後に体調を崩され、子どもの産めないお体になられたらしく、お二人は、祐里を実の子と同じように育ててくださった・・・・・・・・・。
 祐里は、ご厚意に感謝しながらも遠慮して甘えられないでいたが、事情を知らない人が見ると、桜河のお嬢さまと思われても等しいほどに気品と優雅な雰囲気を持ち合わせて育っていた。
「おばあさまは、ご病気になられてからは、お側に寄せてはくださらなかったのでございますが、亡くなる少し前に私をお呼びになられて『この桜の樹は、桜河のお守りの樹だから、祐里がわたくしの代わりに大切にしておくれ』とおっしゃいました。それから毎日、桜の樹にお話に行くことにいたしましたの」
 祐里の胸の中には、優しいおばあさまの笑顔が蘇っていた。
「おばあさまは、とても桜の樹を大切にされていたし、桜と同じくらい祐里のことを可愛がっておられた。おばあさまは、ぼくと祐里の味方だったものね」
 光祐さまは、いつも背筋を伸ばしてお屋敷の采配をしていた祖母が、光祐さまと祐里には相好を崩し、厳しい顔を見せたことがなかったのを思い出していた。
「祐里、少し冷え込んで来たから部屋に入ろう」
 光祐さまは、祐里の手を引いて部屋の中へ入り、格子の硝子扉を閉じた。
「お茶が冷めてしまいました。温かいお茶をお持ちいたします」
 祐里は、冷めてしまった紅茶を気にかけた。
「お茶はいいよ。それよりもしばらくの間、祐里とこうしていたい」 
二人は、長椅子に座り静かに寄り添った。何も話さなくてもこころが満たされ、しあわせな時間が緩やかに流れていった。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章◆ 1

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       桜  物  語


   桜 の 章


   序章

私の名は、榊原祐里。三歳の時に父母を山崩れで亡くし、桜河のお屋敷にお世話になった。母が私を産むまでの数年間、お屋敷の手伝いに通っていたことがあり、旦那さまが孤児(みなしご)の私を引き取ってくださった。
 祐里の『祐』は、光祐さまの『祐』。父母がお屋敷のご長男・光祐さまに肖って、私に祐里と名付けたと、後に婆やの紫乃さんから聞いた。
 お屋敷での私の仕事は、光祐さまの遊びのお相手だった。
中学生になられた光祐さまは、都の学校へと進学された。
「光祐さまが都にお出でになられましたら、祐里のお仕事がなくなってしまいます。祐里は、お屋敷を出て行かなければなりませんの」
 光祐さまが都に発たれる前日、私は、恐る恐る光祐さまに問うた。
「ぼくは、しっかり勉強をして立派な男になって、祐里のもとに帰って来る。祐里は、ぼくのお嫁さんになるのだよ。それまでの祐里の仕事は、父上さまと母上さまに甘えて、お二人を淋しがらせないことだ。頼んだよ、祐里」
 光祐さまは、私の手を握っておっしゃった。
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はじめに

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はじめに
4年前の梅雨にたった一人の弟が突然逝きました。今まで二人姉弟だったのに、突然ひとりっ子になってしまいました。

通夜・葬儀の日、泣かなかったわたしに息子たちは「冷たい母」だと今でも言います。
悲しみは、涙だけでは、表現できない時もあるのです。

その翌年の秋から、20年ぶりに文章を書きたくなって、一気に書いて2年がかりで加筆訂正しました。
わたしは、もう千回くらい読みました。
ひとり言のようにここに記していきます。


◇◇◇桜物語◇◇◇

・・・はじめに・・・

日本人は、桜の花を愛します。
私も桜の花が大好きです。

生家に桜の樹がありました。
毎年、私の誕生日を祝ってくれるかのように
満開の花を咲かせてくれました。
その桜の樹は成人して数年後の台風で
折れてしまいました。
今は、もう、ありません。
ほのかな薄紅色の花と黄緑色の葉を同時に
楽しませてくれる桜でした。
母がその葉で桜葉餅を作ってくれました。

いまでも私のこころの中の桜は満開です。
その想いをこの『桜物語』に籠めました。
生きていくにはいろいろなことが起こるので
ひとを思いやり信じるこころや
自然の神々の力を呼び覚まし
桜の花を愛でた時のような気分に浸れるよう
ただただ
しあわせな物語を書きたかったのです。
是非、素晴らしい桜の風情と究極の愛を
あなたのこころに感じてください。



    ◇◇◇桜物語・目次◇◇◇

  ◆ 桜 の 章 ◆
   ・序章
   ・桜の樹
   ・大蛇
   ・花蕾
   ・守り人
   ・秋桜
   ・紅葉
   ・遺言
   ・陽光

  ◆ 柾 彦 の 恋 ◆
   ・追憶
   ・杏子〈きょうこ〉
   ・恋慕
   ・美月〈みづき〉
   ・祐雫〈ゆうな〉
   ・萌 〈もえ〉
   ・笙子〈しょうこ〉
   ・紫乃〈しの〉
   ・笙子〈しょうこ〉
   ・告白
   ・桜の姫

  ◆ 追 章 神 の 森 ◆
   ・宿命
   ・神の森
   ・誘惑
   ・出生
   ・蜘蛛の糸
   ・静謐
       
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