「宗教改革はルター、カルヴァンでは終わらない!」
9月
7日
先週で8週間学び続けたEラーニングが終わったのですが、その総括・まとめをしてみました。
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キリスト教2,000年間の歴史は、キリストがご自身の体である教会を花嫁としてふさわしく装い続け、育てあげている経緯と言えないでしょうか。
黙示録が最後の啓示の書として書き上げられたのは期限1世紀末ですが、その直後から繰り返された教会会議によって27巻の正典が新約聖書として編纂されていき、
同時にアリウスやネストリウス派が異端として退けられ、正統な信仰が作り上げられ、保持されてきました。
しかし3世紀に入るとアレキサンドリア神学と呼ばれるギリシャ哲学を背景にした思想がオリゲネスを中心に流行します。
4世紀後半にこれを東方教会から西方教会に紹介したのがヒエロニムスでありアウグスチヌスでした。
以後カトリック教会はキリスト教からその母体であったはずのユダヤ的要素を全て取り除き、異邦人中心の教会形成と神学の中で「失われた」中世の暗黒時代約千年期へ進みます。
ルターが中世のカトリック教会から本来の「聖書に帰ろう」とのスローガンのもと、初代使徒時代に隆盛であった本来の教えを回復したとして私たちは宗教改革とします。
それは信仰義認と言うものが主軸でありましたが、カトリックが逸脱し、脱落してしまったキリスト教の他の側面においては手付かずのまま残されていたと言わざるを得ないと思います。
それはパウロがローマ書9-11章で特に論じているユダヤ人の救いと回復、イエスへの民族的信仰覚醒があってから後に、神の異邦人を含めた全世界を救う計画が完成するというものです。
テキストではルターが中世と近代の境目にある人物として取り上げていたようですが、彼の運動としてはそうであったとしても、彼個人は中世暗黒時代に属する人物であると私は捉えています。
ルターは教会の中でこんなことを言ったとする記録が残っています。
「ユダヤ人のシナゴーグは破壊せよ。その書物を全て焼き付くしてしまえ。ユダヤ人を見つけたら殺してしまえ!」
それは彼の特異な意見ではなく、カトリック教会一般のユダヤ人に対しての偏見でした。
その社会的偏見には神学的根拠が横たわっています。
ユダヤ人はキリスト殺しの犯人であるとし、「その血は私と私たちの上に降りかかっても良い」(マタイ27:25)と言った呪われた民族であるとしました。
旧約時代には神の選ばれた民・所有とされた聖なる国民としての立場であったが、新約時代になってそれがキリスト教会に取って代わったと教えられてきたのです。
つまり旧約のイスラエルが新約時代以後はキリスト教会に置き換わったとする「置換神学」が支配しました。
先述のアレキサンドリア学派の新神学が広まっていくのと同時にカトリック世界に広がったのが、ユダヤ的要素を骨抜きとした置換神学です。
ルターもこの置換神学から本来の聖書の教理を回復できませんでした。
現在でもカトリック教会や東方教会はこのイスラエルの聖書的な立場を理解していませんし、認めようとしていません。
今日の多くの日本を含めたプロテスタント教会もまたその置換神学の長い伝統の影響の下に置かれていると言えるでしょう。
ヒトラーによるホロコーストがヨーロッパ中を席巻した時、カトリックはもちろん多くのルター派国教会は見て見ないふりをしました。
そこにはこのような彼らの聖書理解から来る長い伝統がバックボーンとしてあります。
ルターはヴォルムスの帝国議会で「我ここに立つ」と命をかけて自らの信じる教理のために戦う決意をしたことを学びました。
彼のたったその立ち位置は信仰義認と言う境地であったとしても、神の義の全世界的成就のためのイスラエルの役割と言う側面には盲目だったのです。
すなわち宗教改革は救済論においては本来あるべきところへの回復運動であったに違いはありませんが、終末論においてはまだ改革を始めてすらいなかったと私は理解しています。
第8回目の学びで戦中に統合された日本キリスト教団が軍国主義政府に「屈服」したのではなく「主体的信従」であったことを知って衝撃を受けました。
しかしその誤った世間的常識に陥らず捕縛され投獄されていった多くの牧師たちはホーリネス系であったのはなぜか?
その理由は彼らが再臨信仰に生きていた群れであったことと関連しないでしょうか。
つまりキリストが再臨し、エルサレムにおいて「ダビデの座」に着座され1,000年間の王国支配を全世界に広め統治すると言う明確な終末論が確立されているのなら、
どんなに小さな日本国内で強烈な天皇現人神の軍国主義に染まっていたとしても、そんなものは一時の茶番でしかないことをわきまえ知ることができたのです。
警察当局も再臨信仰ゆえに見過ごし出来ないキリスト教会として目をつけたとされています。
「改革派教会は改革し続ける教会」であるとの彼らの告白を学びました。
人の一生の中で人はどこまでも完成へと向けて成長し続けるように、キリスト教会もまたその長い歴史の中で完成へと向かい、改革し続けているのではないでしょうか。
その改革が進みいよいよ完成した時、整えられた花嫁としてキリストが迎えに来て下さると私は信じています。
その改革に自らも参与するために聖書を偏見なく学び、それに生きるものとさせていただきたいと願いを新たにできた学びとなりました。
教会の伝統よりも聖書に最終的な権威を認める者として。
テキストの帯に記されていた「宗教改革はルター、カルヴァンでは終わらない!」の言葉は、その意味で的を得ていると思いました。