試練の中での戦い
11月
26日
1コリント10:12-14
12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
今日は、自分の外側からくる戦いについて、特に自分の選択によらず降りかかる試練、困難につて話したいと思います。二週間前に話した通り、それらは、私たちの環境circumstance & environment による困難です。家族の必要、病気、事故、災難、介護、自然災害、等々
パウロは、コリントの教会に、イスラエル人たちの歴史から話し、長い歩みの中に困難に会うこともある、しかし、その困難によって先人たちの失敗のように失墜しないで、神が与えてくれる脱出の道を通って乗り越えようと、励ましています。また、このみ言葉の前後に偶像礼拝に落ちらないように。。と忠告しています。
私たちも、長い人生の中で、困難の無い人はいません。また、いつ困難が自分の身に降りかかるか私たちには分からないのです。
★ 倒れそうな時 When you fall
立っているものは、倒れないように、とパウロは書いていますが、私たちは、倒れていない時に誰によって支えられているか忘れてしまうのです。私は、いつも困難と闘っていた時ほど神様と近く歩み、み言葉に近く歩んだものだと短い人生の中でも思い返すのです。また、つらい時ほど、希望と夢を持っているものです。これを克服したら、私は、こんな風にしようと夢をもつのです。しかし、すでに到達している人は、なかなか希望を持つことができません。
先日、日本の歌手(つんくさん)がのどのがんにかかり、声帯を取ったドキュメンタリーを見ました。とても感動しました。彼は、歌手にとってなくてはならない声帯を失うような病気でさえも、悔やんでいません。むしろ、これが無ければ今の自分ではなかったと、感謝しているのです。そして、感謝することが一番人間にとって大切なことだと話していました。人は、感謝する時に、自分よりはるかに大きな存在、私たちで言えば造り主と繋がれるのだと思います。感謝すると脳にオキシトーシンがでる。ハグしたときにも出る。
今週は感謝祭でしたね。私たちも、自分の身に起こることの愚痴ばかりではなく、感謝を数えられたらどんなに強く生きれるのかと思います。聖書に、感謝せよ、と何回もでてきますね。全てのことについて感謝しなさい。(テサロニケ)と。
★ 人の知らないような試練ではない You are not alone
災難に会う時,私たちは行き詰ります。たくさんの「なぜ、どうして」が出てきます。人の人生が楽に見えて、自分だけ苦しんでいるような気持になります。しかし、パウロは、あなたの試練は、あなただけに降りかかったものではない、とノーマライズしています。
これって、とても大切なことだと思います。自分だけが、こんな目にあっているとすると、私たちは次にどんな思いを持つでしょうか。自分は、選ばれてない、神に見放された、神に愛されていないという疑いを受け入れてしまいます。それは、敵の嘘です。誰かが通った道であると、知れば、私たちは勇気と慰めを受けるのです。
今、あなたが苦しみの中を通っているなら、励まされてください。同じ道を通って、乗り越えた人がいるのです。自分がどれだけ孤独か、見放されているかではなく、日々の進歩と希望に感謝しましょう。
★ 試練のなかでの戦い Battle in the trial
私たちに降りかかる困難のことを聖書は、試練と言っています。何かに試されてるということで、また、神は克服できない試練を私たちに与えないと、先ほど読んだ箇所にもありますから、神が私たちを苦しめているのかと思うかもしれません。しかし、二週間前にも、話した通り、全ての創造の御業の上には神がいらっしゃいますし、野の花やすずめさえ養い、私たちの髪の数も知っていらっしゃる神ですから、全てをご存知です。しかし、私たちに苦しみを喜んで与えるかたではありません。私たちの目に困難と映るもののには、前にも言いました通り、自分の選択または他人の選択、創造の不思議、また神に敵対する者の攻撃の三種類があります。自然界は神に従います、イエス様が嵐を静められたように、しかし、何千年か前に設定した神の創造のからくりによって定期的に起きているものですね。そんな歯車の中で私たちは困難に出会っているのです。誰も、困難を避けることはできないのです。では、困難を避けることが私たちの本当の戦いでないとすれば、何が私たちの戦いの本質なのでしょうか。
試練、ということですから、困難に会う時、私たちは何かが試されるのです。何かがふるいにかけられるのです。
① 意味を知ろうとすることの戦い A battle of knowing the “why”s
私たちは、どうして? ということにこだわり、答えが知りたいと苦しむのです。どうして、私がこの困難に会うようにされたのだろうか。どうして、どうして。。。と
ヨブ記では、ひどい困難にあったヨブは、嘆きに嘆き、常に神を呼び求めます、神に質問したいと。直接神に懸け合いたいと。
私たちは、苦しみに対して納得したいという思いが出てくるのです。
② 苦しみと向き合うことの戦い A battle of being in suffering
また、苦しみ自体と向き合うことが非常につらいのです。ある人にとっては、肉体の痛みでしょう。人間関係、疲労、精神的苦痛。。。苦しみというものはいろいろな形がありますが、私たちは、苦しみに会う時に、どのようにしてそれを避けれたか、と苦しみよりも賢くなろうとしてもがくのです。そうすると、もっと辛くなります。心に休息がなくなるからです。
③ コントロール欲と信仰 Need of control vs. faith
私たちは、自分の内のコントロールを自分が取りたい、先を知りたい、危険は避けたい、というコントロール欲と結局は戦うのです。どうして、コントロールしたのでしょうか。それは、自分が弱々しく、脆弱である状態が我慢ならないからです。
これは、本当に難しいことを私が言っていることは、承知しています。しかし、聖書が脱出の道があるというなら、それを信じなければならないのです。
④ 答えは信仰 The answer is faith
V14 偶像礼拝に気をつけなさい。flee from idolatryとある通りに、コントロール欲は偶像礼拝に繋がっていきやすいのです。「これさえ叶えば」という強い思いが、刹那的な欲望現実を求めさせるのです。わたしたは、永遠への思いがなくなってしまっては、信仰がいらなくなります。
困難の中での戦いは、信仰の戦いであり、信仰が試される時であり、見えない神を時間を超えて信じることの戦いとなります。
この信仰は、ダニエルの友達たちがはっきり言ったように、「たとえこの祈りがかなえられても、それでも、私は神を信じる」という信仰です。
答えは、信仰しかない。
★ キリストの愛にとどまることが私たちの勝利 Our victory comes from dwelling in God’s love
1ヨハネ3:8
罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
1ヨハネ4:14-16
14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
私たちには、私たちのために一人子イエス様を十字架にかけるほどの愛を持つている神がいること、私たちのために命を捨てられたイエスの愛があること、ここにとどまる時に、私たちは勝利できるのです。
問題、戦いは、苦しみを取り去ること自体ではなく、神の愛にとどまれるかどうかということです。
これが、パウロの「試練」についてのメッセージの本質です。試されるが、神の愛から離れないようにということ。