イエス様の道④苦しみ
6月
13日
私たちは、互いに影響し合って存在している。ということを話しています。イエス様は赤ちゃんとして来てくださったという意味と力について学んでいます。今日は、神の苦しみについて話したいと思います。神の苦しみが私たちにどう影響しているのか。また私の苦しみが神に影響を与えたりしているのでしょうか。。。。
ルカ15:11-24
11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。12 弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』
この章は次の言葉で始まます。イエス様はいつも罪人と一緒だって。。。
ルカ15:2
すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」But the Pharisees and the teachers of the law muttered, “This man welcomes sinners and eats with them.”
イエス様は、問題のある人、苦しむ人、に近くいて下さる方でした。。。自分には問題があっても、問題がないと威張っている人には一緒にいられませんでした。
★私たちの苦しみ
いつも言っている通りに、私たちの苦しみは、三種類あります
①自分の罪の結果から来る苦しみ。言わば、私たちの自由意思によって、チョイスしたことが自分に帰ってくるというタイプ。自分の内に原因があるもの。
②いわれのないところから飛び掛かって来る苦しみ。災害や、盗難、事故、事件、差別なんかもそうかもしれません。自分の外から来るもの。
③訓練としての苦しみ。No pain no gain. 筋トレだって、スポーツだって、練習をしつかりしなければ強くなれません。それと同じように、自分の弱さ、至らなさ、技術的なことに関して何かをできるようになるためには練習、訓練、自己鍛錬が必要ですから、ある意味そこに苦しみが伴います。しかし、この苦しみは、必ず報いがついて来まます。
★放蕩息子の苦しみ v12-13
12 弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
弟息子は、しつけの苦しみを自ら避け、好き勝手なことをすることを決めました。父のいるところから遠く離れました。財産の分け前をもらって、家を飛び出し、お金を全部湯水のように使い果たしました。自分の選んだ道とやったことの結果、生活ができなくなりました。そして、第二の苦しみ、災害の類ですが、その地に飢饉がおこり、ますます食べれなくなりました。それから、そうなってみて、初めて、豚の世話をするという、第三の訓練としての苦しみを味わうようになるのです。
みなさん、私たちも思い当たることがあるのではないでしょうか。私も若い時は、自分の気持ちの赴くままに決断し、神様にろくに聞かずに、まず鍛錬して自分を磨かずに何かをしようとしたものです。しかし、そうしても、必ず、自己訓練、しつけ、筋肉を鍛えるという段階に導かれるのです。この息子は、父のひざ元でそれをすることもできたのですが、ここまで落ちぶれなければ、自己訓練に耐えることができなかったのです。
この息子は、ある時、はっと我に返ります。すべてを失ってからです。全部を失っても、私には、たくさんの使用人を持っている父がいるではないか。あそこで働く方が、ここで働く方よりはるかにいい、と気が付くのです。
よく、この我に帰ったことが、放蕩息子を変えた出来事だと思うのですが、実はそうではなかったということを今日は教えられています。
★放蕩息子を変えたものとは v18-19
18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
息子は、こうリハーサルして、こう言って、雇人にしてもらおう。と、父に甘えて、お金をもらったときのように、父の好意をあてにして家路につきました。
そうするとどうでしょうか。家が近づくと、遠くから急いで自分の方に駆け寄って来る年いったおじさんがいるではないですか。あれ、お父さんかな。お父さんだ。その、父の慌てて走る様子。その必死さを彼は見たのです。その顔を遠くから見たのです。何ということでしょう。父は、私を待っていたのだろうか。。。。と、思ったでしょう。
苦しみが放蕩息子を変えたのではなかった。父の顔を見たから変わったのです。。苦しみぬいた、涙にむせぶしわくちゃの顔。子を愛する父の顔である。その顔を見たとき、放蕩息子は、リハーサルしたあの言葉が、本心として腹の底から出てきたのだ。「今までどれほど、父を心配させたか、父を傷つけたか、父を苦しめたか、今までどれほど父が私を愛していてくれたか、それは、今日も変わらないのだ。」それと直面した時、全てが変わったのです。
◎放蕩息子の苦しみは、帰る家を見つけたのだ
父の苦しみ、愛しているから苦しんだその苦しんだ顔が、放蕩息子を変えたのです。神の苦しみは、愛ゆえであった。この苦しみの意味が分かる時、私たちは、魂の家を見つけることができる。神の苦しみと私の苦しみは決してかけ離れていないものであり、私の苦しみは神の苦しみであり、神の苦しみは私たちに癒しと慰めをもたらすものである。
究極的な愛の図がキリストの十字架の苦しみ。
◎苦しみには家がある。その家は、神の苦しみであり、イエス・キリストである。
私たちの苦しみ感情は、消化されないかぎり、傷となり、私たちを過去に縛る縄目となる。私たちの感情が解決する時は、誰かが、わたしの苦しみを味わってくれ、共感してくれ、一緒に泣いてくれる時に、慰められる。自分の中で消化する助けとなる。
私たちは、誰かがいないと存在できないのです。赤ちゃんの時からこうして私たちは存在している。
◎私の苦しみの証し(不妊) --- 苦しみの家を見つけた。神の苦しみと一体化したとき慰めを受けた
神様は、苦しむ必要のない方なのに、放蕩息子の父のように、私たちを愛するがゆえにご自分が苦しむことに甘んじてくださっています。全世界を完璧に造られた方なのに、この世界が罪によって、被造物すべてに影響していること。数千年も、神様に背く人たち、すべての人の救いを完成するために、わが子イエス様を地上に赤ちゃんとして送り、十字架の苦しみを味わわせなければならなかった。私たちを愛するがゆえに、神は私たちの行動によってインパクトを受けていらっしゃるのです。
一方、私たちの苦しみというのは、もっていきどころがないともっと苦しく感じます。イエス様は、私たちの苦しみの帰る家を作ってくれました。
◎あなたは今、何に苦しんでいますか。何番の苦しみを味わっていますか。あなたが苦しんでいる時、天の父も苦しんでいることをぜひ知ってください。父の苦しみ抜いた顔を見てください。
あなたには帰るところがある。苦しみには家があるのです。