学校で、子供と思春期のトラウマの回復、カウンセリングの授業がありましたが、そのシリーズでは、休み時間に遊ぶことを推奨されていて、お席にはクレヨンや、粘土が用意されていました。私は、餃子を作ってみました。アジア系の学生は大爆笑。食べれそうーーって。我ながら美味しそうにできたぞ!
2018年6月3日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、
この世においては、人というのは、ヒエラルキーのマインドセットに影響されて生きている。人にいいことを教えるものは、立場が上ではないといけない、なんて思っている人が多いのではないでしようか。私は、まだまだ聖書の知識がないから、伝道なんてできないなどということをいう方も多いです。しかし、それは本当でしょうか。イエス様はどうされたでょうか。
ヨハネ4: 3-9
3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」―ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。
①バウンダリーを越える
V4 サマリヤを通って行かなければならなかった。
サマリヤはユダヤとガリラヤの間にありますが、普通は、ユダヤ人ならばサマリヤを通らずに回り道をしてガリラヤに行きました。というのも、こないだからメッセージの中に出てくるように、サマリヤ人はユダヤ人は仲が悪かったからです。ユダヤの長い歴史の中で、ユダヤ人から出た人たちですが、サマリヤ人は、異邦人と混血の民であり、ユダヤ教と異教の混じったような信仰をもち、救い主はゲルジム山から来ると信じていました。皆さん、今の世の中も、宗教の違い、民族の違いというものは、少なくともアメリカでは大きな問題です。当時のユダヤ人サマリヤ人の対立というものは激しかったようですね。もしも、ユダヤ人がサマリヤを通ろうものなら、罵声をあびさせられたり、何かいやがらせをさせることもあったようです。ユダヤ人も、絶対にサマリヤ人とは口をききませんでした。
◎しかし、イエス様はサマリヤを通ることを選ばれた。
あえて、Vulnerable な状況に入られることにされた。あえて、対立の渦の中に行かれた。。。「行かなければならなかった」という言葉の中には、父なる神の意図があった。ご計画があり、そこには、出会わなければならない人がいた。。。ということを示しているのです。
②弱さを通して ---- 水を一杯くれませんか。V7
イエス様は疲れを覚えられました。このストーリーはイエス様の弱さから始まります。イエス様は、完全な人であり、完全な神であります。私たちと同じように疲れられたようです。なんだか親近感を覚えますよね。。。
第六時、現在のお昼頃、ある女が井戸に水を汲みに来ました。イエス様は、この女性に話しかけました。というシーンですが、ここで、またバウンダリーをいくつも越えているイエス様を見ることができます。ここで普通では起こらないことが起きています。
1. ユダヤ人がサマリヤ人に話しかける-- 先ほど説明した通り、こんなことはありません。
2. 男が女に話しかける – 当時の文化で、男女が個人的に話すということはなかった、イエス様はラビですから、その立場ではもっとなかったことです。
3. 第六時に水を汲みに来るようないわくつきの女に話しかける – 当時は、夕方水を汲みに来て、女性たちが井戸の周りにたまっておしゃべりをするのが普通でした。この女性は、誰も来ないうちにこそこそ水を汲みに来ている理由のある女性でした。村ではきっと悪名高い女だったに違いありません。
◎弱さを通して
イエス様は井戸に水を汲みに行ったサマリヤ人の女に水をくれと言った。パンを増やし五千人以上に食べさせ、水をワインに変えることのできる方が、水を一杯恵んでくれませんかと、この問題の多い女性に頼んだ。
イエス様は、しかし、人間のとしての性質、疲れ、弱さ、人の世話にならなければ存在できないというようなその脆弱性を通して、サマリヤの女とコミュニケーションをとったのです。
言うまでもなく、この女性は大変驚いて、あなたの言っている意味が分かりません的な反応をします。ユダヤ人なのに、どうして私に話しかけるの? 見たところによると、ラビっぽいけど。。。一体、水って言われても、汲むものも持ってないやん! と。。
◎会話が始まる V10-19
10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれという者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人を求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
女性は渇いていました。身も心もからから。。。もう渇かないなんて水、あったらほしい。。この女性は、心が渇いている人でした。イエス様は夫を連れてきなさいと言いましたが、彼女は、次々に男の人を渡り歩き、一緒に住んでいる人がいたが、その人は、正式な夫ではありませんでした。満たされない心を男の人に探していました。しかし、イエス様が、渇かなか水があるんだよ。と、教えてくれたのです。
◎その水を私にください。
女は、その水をイエス様に求め、自分の傷ついた心の癒し方が間違っていたことを認め、イエス様に出会うことができました。この後、この女性は、恥ずかしげもなく、自分の身に起きたすべてのことを人々に話し、サマリヤにリバイバルが来ました。誰がそうぞうしたことでしょうか。ちゃんとした宗教観、間違った礼拝をしていた混血のサマリヤ人にリバイバル、本当の救い主を受け入れたのです。
◎互いに影響を受ける
イエス様は、脆弱性を通して、いわば、ご自分の肉体の渇きを通して、この女性と繋がることができました。また、へりくだって、低い位置から、すみませんが、助けて下さいという態度で、女性に近づきました。なんと、私たちのマインドと違うことでしょうか。私たちは、良いものを与える者は、立場が上でないといけないような感覚を持っています。
◎宣教師を思い出す
私は、日本に来た宣教師たちを思い出します。
文化の違い、言葉の不自由さ。助けがいっぱい必要な外国人。何やら一生懸命私たちに伝えようとしている。。。人は、困っている人を見たら助けたい、気にいった人、気になる人を助けたいという思いを持つもの。。。また人とは、助け合わなければ存在できないというものです。日本に来た西洋の宣教師たちは皆助けが必要だった。日本語が流暢な自由な人はそんなに多くない。教会に来ている人も、来ていない人も、喜んで助けた。そんな中で、キリスト教が広まった。
◎ AA Meeting
先日、学校の宿題の一環で、AA meeting に出てきました。
まず不安だったのは、アルコール中毒でない私がいったら場違いで気まずいのではないか。ということでした。しかし、彼らは、大喜びで私を迎えてくれました。そして、一人の女性は泣き出しました。私たちに興味を持つてくれて、来てくれてありがとうと。。。
彼らの話を後で聞きましたが、みんな、アルコールのせいですべてを失っていました。友達、家族、職場、自尊心。全て。人に諦められても、興味を持たれることはありませんでした。
わたしも、彼らの話しを聞いていてたくさんの恵みを受けました。
そこに一人もクリスちゃんがいませんでしたが、私は神様をみましたし、大切なメッセージをいただきました。
コミュニティが人を癒すこと。彼らは、そこに集い、始まりと終わりに祈ることで力を得ていました。仲間に励まされていました。そこに、心からのケアと、愛がありました。教会が学ばなければいけないものがあると思いました。
わたしも助けがなければ、生きていけない。
イエス様は、赤ちゃんで生まれて来て、財産もなく何もなく、ただの小さいな赤ちゃんで来てくれた。私たちの腕の中に来てくださった、意味がここにあるのです。
私たちは、独立して決して存在しないんだというメッセージ。私たちは、相互依存して存在している。Interdependent. 私たちの三位一体の神もそうである。
◎伝道を恐れないで、あなたの弱さから始まるかもしれません。垣根を越えて、相手に興味を持ち、あなたの弱さを正直に示していく、そこからイエス様の働きが始まるかも知れません。
自分の境界線、カンフォートゾーンから出ることを心がけましょう
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