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ボンビーでもしあわせのカタチはあります

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Since July 18, 2015

 

「平屋住宅ブログ」に参加中 内容が統一していないので、見放されないようにアップします。

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こういうのも、いいかと思ったけ...
こういうのも、いいかと思ったけど、家具を運び入れました。
  雨漏り付きの、昭和の家の家...  
雨漏り付きの、昭和の家の家具を運び込みました。なかなかレイアウトは難しいものです。
な~んちゃってカフェを作りまし...
な~んちゃってカフェを作りました。カウンターは5万円ぐらいでできました。
ネットで見つけたレトロ風な家。...
ネットで見つけたレトロ風な家。

こ、これが、今の若人に受けている昭和の平屋ですか。

私たちは、このダサい空間を逃れるために、洋風な家にあこがれてきました。

こんなのボンビー父さんにとっては「得意科目」ですよ。
本屋をぶらぶらしていたら「FLAT HOSE LIFE」という本が目に入った。
 うむ。フラットといったら、確かアパートの事だったような・・・・・

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「無料」訳あり夏野菜 やや! 1026件のアクセス【終了】

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「無料」訳あり夏野菜 やや! ...
スーパーや道の駅で買える野菜をイメージしてる方は、期待外れでガソリン代と時間がもったいないので、申し込まないでください。
 
過剰な期待は禁物です。
 
「ただより高いものはない」といいます。「くたびれ損」とならないようにお願いします。
 
人参の皮をきんぴらにするとか、徒長した野菜でも工夫する人向けだと思います。
 
芽が出るのを防止したスーパーのような、コバルト照射のジャガイモではありません。
 
そのかわり不格好で、虫食いも多少あります。 それを受け入れられる方に、喜んで差し上げます。
 
鶏ふんや牛糞と一握りの化学肥料で育てています。 1円でもお金をいただけば、それに見合った価値を要求されます。
 
「人様に差し上げるのなら、立派なものでなきゃ」というプレッシャーも受けたくありません。

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レトロなカメラ LOMO LUBITEL 166 ■終了しています。  132件のアクセスしかありませんでした。

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実用的ではありません。写真のよ...
実用的ではありません。写真のように組み合わせて使いたい方へ。

錆も出ています。
1976年に登場した、レニング... 1976年に登場した、レニングラード光学器械合同が製造したカメラです。 上下のレンズがギアで連動、チー... 上下のレンズがギアで連動、チープな見た目ですがきちんとピント合わせが可能です
ハッキリいって、おもちゃです。なんとなく、ヴィンテージな雰囲気を出すために使ってください。

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家具は自分で修復しよう ウレタン仕上げと、オイル仕上げはどちらがオススメ?!

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 まず、ニトリ価格でこんな家具...  まず、ニトリ価格でこんな家具を買います。数万円であります。

イギリスのアンティークなので、ターブルの高さが、体に合わないことがありますので、気をつけましょう。

私は、木工所で少し低くしてもらいました。2万円前後かかるかもしれません。
ひどく傷んでいます。 木の繊維...
ひどく傷んでいます。

木の繊維をふさぐことなくオイルを浸透させることにより汚れを防ぐ塗装なので、おすすめです。

木の風合いを生かした仕上がりになります。

使っていくうちにオイルが揮発して抜けてくるため、保護膜が失われてシミや汚れがつきやすくなります。
仕方ありません。100年ぐらい...
仕方ありません。100年ぐらい経っています。

敢えて傷や汚れなどのヴィンテージ感を楽しんでいったり、

定期的にオイルを塗ったりテーパーで表面を削ったり、

メンテナンスをしながら永くお使いいただけます。
仕上がりは如何でしょう。...
仕上がりは如何でしょう。
前回もアップした準備の品々です...
前回もアップした準備の品々です。
ユーチューブで、やり方のノウハ...
ユーチューブで、やり方のノウハウが学べます。
椅子も40年ぐらい使ってます。...
椅子も40年ぐらい使ってます。長持ちさせたほうがお得でしょうか。
株式会社 OKUTA(オクタ)サイトより引用
 
どちらの塗装にもそれぞれメリットデメリットがあるため、絶対にどちらの塗装がいいとは言い切れません。お客様のご使用環境、生活スタイルによってお考えいただきお選びいただけるとよいでしょう。
 
無垢建材メーカーのOK-DEPOTは、安心安全で無垢の素材感がそのまま味わえるオイル塗料をお勧めしております。

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ギューリック博士は返礼は不要だと断りましたが、日本人形を贈ろうということになりました。

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ギューリック博士は返礼は不要だ... ギューリック博士は返礼は不要だ... ギューリック博士は返礼は不要だ... ギューリック博士は返礼は不要だ... ギューリック博士は返礼は不要だ... The Welcome Party in Washing... The Welcome Party in Washington D.C.
Gulick is in the center of the back row.
(photo:owned by Shibusawa Memorial Museum)
ギューリック博士は返礼は不要だと断りましたが、日本人形を贈ろうということになりました。
 
その結果四十七都道府県と、東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸の六大都市、さらに当時は日本領でした樺太、朝鮮、台湾、日本が既成事実を作ろうとしていた関東州(後の満州:現中国東北部)、そして大日本に、それぞれ相応しい名前をつけて贈ることとなりました。
 
人形交換事業は世界的な人形交換につながるかに思われたが、1933年の日本の国際連盟脱退、1937年の日独伊防共協定の締結、そして暴動の勃発を経て、太平洋戦争中の 1941 年 12 月 7 日、かつて日米友好の象徴であった友情人形は、戦時中のスローガン「鬼畜米英」(「アメリカ人やイギリス人は悪魔か野獣だ」)のもと、厳しい迫害を受け、拒否されました。 ')。
 
スポーツ用品、日用品、娯楽用品など、米国に関わるあらゆるものが憎悪の対象となった。
 
1943 年 2 月頃から、「青い目の人形よ、あなた方は我々の致命的な敵だ」といった見出しが掲げられた。
 
「我々は決して許さない」「『青い目の人形を打ち倒そう』と子供たちは叫んだ」とか、「我々が打ち負かすまでアメリカとイギリスに対する敵意を煽るためにアメリカの人形を焼き払え」という書き込みが紙面のあちこちで見られた。
 
 
■いせはら文化財サイトより引用
 
Though it seemed as if the doll exchange project would lead to worldwide exchange of dolls, after the withdrawal of Japan from the League of Nations in 1933, the conclusion of Anti-Comintern Pact among Japan, Germany and Italy in 1937 and the outbreak of the Pacific War on December 7th, 1941, the friendship dolls, which once were the symbol of the Japan-US friendship, were severely persecuted and rejected, under the wartime slogan, ‘kichiku-beiei’ (‘Americans and Englishmen are devils or beasts.’). Everything concerning the US was the target of hatred including sports goods, daily necessities and pastime articles. From around February 1943, such headlines as ‘Blue-eyed dolls, you are our deadly enemies. We will never forgive you,‵“Let’s knock down the blue-eyed dolls,” shouted the children,’ or ‘Burn down the American dolls to excite hostility against America and Britain until we defeat them,′ were found here and there on the newspapers.

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アメリカから贈られた12,739体の人形はどこに?! わたしの住んでいる県に182体が届きました。現存しているのは5体のみです。

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アメリカから贈られた12,73... アメリカから贈られた12,73... アルバムの写真を拡大してみまし... アルバムの写真を拡大してみました。一松人形も日本らしくいいですね。日本からのお返しも進みましたが、その件はまたいつか。 アメリカから贈られた12,73...
日本では、「親善の人形」と称し、また通称「青い目の人形」と呼んで歓迎しました。
 
そしてこの人形使節の答礼に、58体の高級日本人形が、クリスマスまでにアメリカに贈られました。
 
しかし太平洋戦争のさなか、この「友情の人形」は「敵国の人形」として多くが廃棄処分され、現存している人形は全国で300体あまりにすぎません
 
当時の日米関係【伊勢原市サイトより】
 
日本からアメリカへの移民は1868年(明治元年)の明治維新とともに始まりました。当初、移民はハワイ諸島に向かったが、1879年にカリフォルニア州議会が中国人移民を禁止する法案を可決したため、1880年代以降、北米への日本人移民の数が増加した。
 
以来、広島、山口、熊本、福岡県など中国・九州地方からの安価な労働力としての日本人移民が増加した。
 
彼らは北アメリカ中西部で鉄道建設や鉱山開発に従事していました。1905 年当時、米国に居住していた日本人は約 6 万人に達し、そのうち約 1 万人が鉄道建設の労働者でした。
 
移民労働者には1日あたり1ドルの給料が支払われていた。
 
第一次世界大戦後、1 ドルは 2 円に相当しました。移民労働者の賃金は日本で働く労働者の 2 倍以上でした。
 
1920 年、米国および他の国々は第一次大恐慌に見舞われました。その結果、反日運動が起こり、アメリカ人は、アメリカ人労働者の賃金が引き下げられ、低賃金で働き、多くの物を送り込んでいる日本人移民によって仕事が奪われたとして、日本人をカリフォルニアから追放すべきだと叫んだ。
 
彼らは自分の国のために稼いだのです。アメリカ社会にアングロサクソン至上主義の傾向があったのは事実だが、アメリカ社会に同化しようとしない日本人移民の排他的な態度にアメリカ人はますます警戒感を強めていたのかもしれない。
 
Relations between Japan and the US in Those Days
The immigration from Japan to the US started in 1868 (the 1st year of the Meiji period), with the Meiji Restoration. At first, the immigrants headed toward the Hawaiian Islands, but since 1880s, the number of Japanese immigrants into North America increased, for in 1879 the California State Assembly passed the bill that Chinese immigration be prohibited. Since then, Japanese immigrants as cheap labor force increased in number, many of whom came from Chugoku and Kyushu Regions such as Hiroshima, Yamaguchi, Kumamoto and Fukuoka Prefecture. They were engaged in the railway construction or the mine development in central and western North America. Around 1905, the Japanese residents in the US amounted to about sixty thousand, about ten thousand of whom were laborers for the railway construction. Immigrant laborers were paid a dollar a day each. One dollar was worth two yen after the World War I. The immigrant laborers were paid more than twice as much as those working in Japan. In 1920, the US, as well as other countries, was struck by the First Great Depression. As the result, anti-Japanese movement arose, in which Americans exclaimed that Japanese should be expelled from California, claiming that the wages for American laborers were lowered and their jobs were deprived by the Japanese immigrants, who worked hard for low wages and sent what they earned to their own country. It is true that American society had a tendency toward Anglo-Saxon supremacy, but Americans might as well have been increasingly alarmed by the exclusive attitude of the Japanese immigrants, who were unwilling to assimilate into American society.
Since around the World War I (1914 ~ 1918), the relations between Japan and the US got worse and worse due to the conflict of interests concerning the colonial policies. In 1912, Yukio Ozaki, the mayor of Tokyo, concerned about this undesirable situation, presented Boston City with about 3,000 young cherry trees, hoping for the goodwill between the two countries.
The cherry trees grew up, and Cherry Blossom Festival held every year along Potomac River in Washington D.C. has been famous as the annual event celebrating the coming of spring. On the other hand, however, the fact that young dogwoods were presented Tokyo in return in 1915 is not known very much.
In Japan, the Kanto Great Earthquake occurred in 1923, which brought Japan the economic depression. In 1925, the Maintenance of Public Order Act and the Universal Manhood Suffrage Act were proclaimed, followed in the next year by the death of Emperor Taisho and the change of the name of the era to Showa. In 1927, the Japanese government dispatched troops to Shangtung in China, while inside Japan a number of banks failed successively due to the financial crisis, which led some people into selling or killing themselves.
 In the US, many people lost their jobs due to the prolonged economic depression, and the anti-Japanese sentiment intensified due to the Japanese unchanged attitude not to try to assimilate into American society. Under such circumstances, in 1924, the US Congress passed the New Immigration Law (the Anti-Japanese Immigration Law), on the purpose of excluding Japanese immigrants. Even though the citizen volunteers and the church leaders throughout the US collected money to offer relief supplies to the victims in Japan immediately after the Kanto Great Earthquake (they were brought to Japan by the American relief ships, the Merit and the Möbs, which arrived in Japan on September 18th, 1923, only 17 days after the earthquake), the anti-Japanese movement was unstoppable. The blue-eyed dolls came to Japan under such an oppressive situation.

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日米開戦の目前、文化的摩擦を超えようと青い目の人形が送られてきた。我が家の古いアルバムの裏表紙に貼ってあったもの。

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日米開戦の目前、文化的摩擦を超...
我が家で一番古いアルバムの裏表紙に、貼り付けられて大きな写真。
 
昭和2年(1927)、日米親善を目的として、1万2,739体もの「青い目の人形」が日本の子どもたちに贈られたエピソードがある。
 
 当時32歳で教職に在った祖父が所蔵していたものと考えられる。日本各地の小学校でこのような行事が催された。
 
その当時の時代背景は、「日本の経済状態は悪化していたので、職業を求めて多くの日本人が渡米したが、日本人移民とアメリカ人の間で、労働をめぐる摩擦が起こった」とある。
 
■引用文献
大正14年(1925年)の日本移民を締め出す「新移民法」の成立をめぐり、日米間の国民感情が悪化したのを憂えて、子供同士の「人形交流」を契機として、将来の日米の親善友好を育てたいとの、ギューリック等の念願と努力が実ったものです。【山武市教育委員会】
 
やがて1941年12月の日米開戦に至る訳だが、戦争の世紀を生き続けた先祖の苦労が想像できる。
 
Japanese friendship dolls or Japanese ambassador dolls and the American blue-eyed dolls were programs of goodwill between Japan and the United States. American Sidney Gulick, a missionary in Japan, initiated an exchange of dolls between children as a way to ease cultural tensions in 1920s. Japanese Viscount Eiichi Shibusawa responded by initiating a program to send 58 dolls to American museums and libraries. Here is a list of the ones located in our jurisdiction. In addition, Miss Tokyo-fu was sent to Richmond, Virginia but the present location is unknown.

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鉄砲の撃ち方 戦乱の世も治まって「砲術」も儀式的なものに

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おはようございます! 朝のご挨...
おはようございます! 朝のご挨拶から始めます。

いきなり、鉄砲の撃ち方の「秘伝書」を紹介します。
鉄砲の撃ち方 戦乱の世も治まっ...
戦乱の世も治まって「砲術」も儀式的なものに。200以上の鉄砲流派が生まれたといいます。

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平安時代からの「命の旅人」を迎えて、今、自分がいる。

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平安時代からの「命の旅人」を迎... 平安時代からの「命の旅人」を迎... 平安時代からの「命の旅人」を迎... 平安時代からの「命の旅人」を迎... 平安時代からの「命の旅人」を迎... 平安時代からの「命の旅人」を迎...
蔵に残された文化・文政時代から、明治維新に至る木版の和装本を見て、このまま消え去るのは無念であった。父の3回忌を機に、私たちの「物語」をまとめてみようと思った。     
 
 また、ファミリー・ツリーを遡行してみると、様々なドラマが展開していたことも知ることになった。        
 
 仕事・生活・子育てに追われながらも、激動の昭和史を駆け抜けた両親に、一番多くの「ありがとう」を言いたかったが、最も少なかったのではと思う。写真集を作成して意を表したい。  
                             
 写真や資料はあるものをかき集めて、短時間のうちに作製し た。写真類はスキャナーで読み取って、明暗・色合い・明瞭度を調整したが、限界があった。                
 
 私たちの歴史の「大いなる不思議」を感じながら楽しく製作することができた。      

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平安時代から、いのちの旅人を 迎える ■我々はどこからきたのか、我々は何者か、そしてどこに行くのか

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人類みな親戚。家系図の商売があ... 人類みな親戚。家系図の商売があって、みんな「桓武天皇」から始まっているってことも。

秀吉の「小田原征伐」で、滅ぼされ名前をかえて世を忍んで暮らしたというストーリー。「郷土史家」が新聞に書いていたので、まんざらウソでもないかな。

多摩市図書館や国会図書館にアクセスして調べたら面白かったです。何十万分の1かの遺伝子が受け継がれているかもというロマンがあります。
この写真集は100ページになる...
この写真集は100ページになる予定です。昔のものを家族の歩みとともに記録しておきます
平安時代から、いのちの旅人を ... 平安時代から、いのちの旅人を ... 平安時代から、いのちの旅人を ... 平安時代から、いのちの旅人を ...
我が家の歴史をまとめてみた。
なんか平安からの命のリレーが1本でも切れていたら、今の僕はないということ、どこからきてどこへ行こうとしているのかという人類の謎がおもしろいですよね。何十万年かの人類の歴史を考えると、みんな親戚ですね。

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