アルフォンヌ・ミュシャ(現地発音ではムハ)は、アールヌーヴォーの旗手として日本でもファンが多い現代チェコの巨匠。絵画ばかりでなく様々なデザインを手がけ、プラハの現市庁舎、市民ホール、近隣の建物などに多くの意匠を残す。「ヒヤシンス姫」などは誰でも一度は目にしたことがあるだろう。私なぞは江口寿史が出てきた時に「ストップひばりくん」にミュシャ的表現を感じたものだ。(笑) 共産主義を嫌いアメリカに渡り、画家としては珍しく生前から金銭的な成功を収めたミュシャだったが、民族主義的な思想の持ち主で祖国であるチェコへの思いを忘れることはなかった。 スメタナの「我が祖国」六楽章に影響を受け、音楽=聴覚的にに祖国を表現したスメタナに対し視覚的に祖国を表す衝動に駆られ着手した連作が「スラブ叙事詩」と伝えられる。 このミュシャの「スラブ叙事詩」が、今はプラハで見られる。この大作は、チェコのブルノと言うプラハから約200㎞離れた田舎町にある「モラフスキークルムロフ城」に飾られていたが、その所有権を巡って国と自治体が揉めていて、当面は2年毎の展示を定めたらしい。観光本などでは、「今だけ」とか「好評なので特別に延長」とか書いてあるが、これが真相ならば2015年は、また「モラフスキークルムロフ城」に帰ることになる。 そんな事情もあるのだが、そもそも、この現代を代表する絵画が一般に公開されたのは1928年の事であり、この大作が世界の美術史に認知され見れるようになってから、今だ90年も経っていないのだ。 プラハ国立美術館に着いたが、いささか早く開館時間まで15分程度待つことになった。この建物自体が「ヴェレトゥルジュニー宮殿」と呼ばれる。この美術館には年代毎の美術品を展示した「宮」や「修道院」「聖堂」がある。現代を代表するcチェコキュビズムを展示するのは「黒い聖母の家」だ。 既に併設のcafeは営業していた。モノトーンにモダンなモニュメントを配した吹き抜けの広大な空間で、朝のコーヒーを楽しむ人々も居た・・・が、開館を待つ多くはバックパッカーで階段に居座る。当然、私たちもだ。 スラブ叙事詩は特別展になっていて、一階のエントランスすぐ左の専用スペースで展示されている。 重い扉を開くと、絵画と同じサイズの大スクリーンにミュシャの生涯を描いたVTRが映写されている。ここからミュシャの世界に入る、という趣向だ。 スラブ叙事詩は6X8m程度の大絵画20枚組で見るものを圧倒する。一枚目の「その地に居たスラブ人」から連作を見ていくと、この地の歴史観など何もない身にも大きな感動が押し寄せてくる。画家の凄さだと思い知らされる。 平日の開館直後とはいえ来館者数の少なさに驚き、撮影する身としては有難く思う。そう、この稀代の傑作はストロボを焚かなければ撮影フリーなのだ。
『ウ フレク』で散々酔っぱらった後は宿から程近くの『旧市街広場』の夜景を撮りに出た。恐らく、『プラハ』に滞在する限り、何度も訪れるロケーションと思ってはいるが、アルコールも手伝って、はやる心を抑えられない。 『ボヘミア』の角を曲がれば火薬塔から続く目抜きのシュトゥバルツカー通りだ。左右に土産物屋や博物館が並ぶ通りを暫く行けば『旧市街広場』に出る。 まず、息を飲むほどに圧倒されるのはライトアップが美しい「ティーン教会」。観光本などで、この双子の塔を持つ教会の記事を見てきたが、現物は想像を超えて全くもって圧倒されるほどに美しい。女房は「ディズニーランドみたいだね」と譫言の様に何度も言っていた。いいや、こちらの方が遥かに美しい。 恐らく、ここまで心象風景として美しく感じる被写体は、写真に収めると、大方の場合は現地での感動の何十分の一、いや何百分の一に減じてしまうものだが、なんとか、その感動をおさめたいと何枚もシャッターを重ねた。とにかくシャッターを押したい、と思わせる被写体には、そう滅多に出会えるものではない。ある意味至福の時だ。 旧市街広場のもう一つの目玉は旧市庁舎と付随する天文時計。残念ながら、この時間ではカラクリは動かないが、金字の装飾が夜の闇に映えて美しい。
さて、『プラハ』初日の夜は、この街最古の酒場『ウ フレク』目指して繰り出す。 傘を差した人形が何人も空中を回っている大通りから、反対側の路地に入ると、既に『ウ フレク』の前は人だかりが出来ていた。 大きな時計が目印の店の入り口は、黄色い外壁に相まって、また、黄昏時の『プラハ』の街にも相まって、実に良い感じの佇まいを見せている。外壁には「Pivovar U Fleku l.p.1499」の文字。「ビール居酒屋 音部記号 開業1499年」だ。音部記号とはト音記号とかヘ音記号とかいう、あれの事だ。それにしても、開業15世紀かい。室町幕府だぞ。 中に入ると、左に狭いホール。ええ、このサイズ?席ねーじゃん、と思っていたら、奥へ行けという。奥に進むと、いきなり中庭、そこを左に折れると「離れ」があって、1階は100人位は入れそうなホール。階段上がって2階へ行くと10人掛けのテーブルが4つある「二階席」みたいな造り。実際、この離れは劇場的な用途にも使われているのだろう。 2階に陣取りグヤーシュやらオーダー。何せビールは一択だから迷う必要なし。この店のビールは自家醸造のクラフトビールだが、この店以外には門外不出。つまり、ここでしか飲めない「黒ビール」なのだ。 食事も頼んだのでビールの前にアペリティフが出てきた。このアペリティフ、なんか太田胃散カクテルみたいな感じで、飲む前には、本当に打ってつけ。ウチの女房は、全然ダメ、との事なので貰って2杯飲む。さぁー、ビール、出てこぃやぁ。 そうこうしている内に1階にはイタリア辺りの団体さんとアメリカ辺りの団体さんが入って、あっという間に満席の大盛況。居酒屋は、こうで無くてはいけません。ボヘミアンなアコーディオン弾きの爺さんが、各々の団体客のお国柄の曲を弾いて、どっかんどっかんの大盛り上がり。 気が付けば「ウ フレク」特製ビール 6杯(3l)行っちゃってます。 勿論、こういう店に来たらトイレも制覇せねばと、ビアサーバー前の清潔で綺麗で大きなトイレへ向かえば、そこに「アルコールテスター」の看板発見。トイレ前のホールに件のアルコールテスターが有り、1コインでアルコールの回り具合を判定してくれるようだ。しかし、んなこと知ってどーする。(試しにやってみれば良かった) 用を足して席へ戻るとボヘミアン爺さんが上がって来て、「スキヤキ」を演奏している。んー、やはり海外では、この曲かぁ。次は、何が来るかと思ったら「おお牧場は緑」だ。なるほど、この曲はチェコ・モラヴィアの民謡にして文部省唱歌=日本人皆歌える。誰が教えたかは知らんが、良く出来た選曲だ。それにしても、この曲のチェコ語の原題は「菩提樹が燃えている」って言うのだが。(チェコの国木であるセイヨウボダイジュの紅葉の様を歌っている) さて、ひとしきり飲んで食って歌ったので退散する事にする。 帰り際に確認したら、入り口入って直ぐ左の小さいホールは「velky sal」と表札が出ていた。日本で言えば「角打ち」みたいなもんで、まぁ「ひっかけ酒場」というところだ。 鉄格子なので会計かと思っていたところは店の土産物屋。結構、色々なオリジナル商品が有った。何か買ってくればよかったが、すっかり酔っぱらいなので頭が回らない。 表に出て見ればとっぷり暮れて、『プラハ』の夜に満月が綺麗だった。
この旅の目的に『プラハの春 音楽祭』のオープニングコンサートを聴くって事がある。タキシードは大袈裟にしても、それなりのドレスコードは必要だ。日本人はダークスーツが無難なのだろうが、フォリナーの気楽さゆえに今回はトラッドで軽くこなすことにした。 ジャケは冬物のJPと迷ったが、室内だし「春」だからと軽めのミラショーンの格子柄にした。フォーマルシーンを意識して少し濃い目のグレーのパンツを合わせる。 だが、しかし、日本から一晩のために、わざわざ靴を持っていくのは、少し抵抗があった。欧州は靴の本場だし、チェコは革製品が有名なので靴は現地調達することに決めた。 当初はコンサート当日に買いに行くつもりだったが、時間が開いたので『ボヘミア』に荷を解いた後に「共和国広場」」の『パラディウム』に出かけた。 この街中にある「見た目は古く中身は近代的」なSCは、200テナントを有する大型モールだ。入って、すぐ左手にあるATMでコルナをキャッシングしておいた。 事前にチェコの靴を調べると『Bata』(バチャ、バッタじゃないよ)というメーカーが良さそうだ。『パラディウム』ではB1に入っている。 日本の最新SCなみの『パラディウム』B1にある『Batta』の店に入り物色する。ロープロフィールで落ち着いた良い感じのウィングチップが日本円換算約15000円位だ。試し履きしてみても、中々いい感じなので決定。 レジに持ち込もうとしたら、奥の婦人物コーナーで女房が鞄を品定めしている。近寄れば「これ。」とか言う。はぁ~、ここ、私の靴買いに来たんじゃ…、はい、これですね。 チェココルナで払ったが、当然東洋人の客など珍しいに決まっているので、店員のおばちゃんは「Tax free」と言って免税レシートを切ってくれた。
『プラハ』の宿は『グランドホテル ボヘミア』。 立地は、市民会館の真裏、という旧市街のど真ん中である。この旅行に出る前に、プラハの街でロケが行われた「のだめカンタービレ 完結編」の映画2本を女房とYouTubeで見てきたのだが、主人公二人が初めてプラハに着いた時に取った宿が「ボヘミア」だった。普段から、日本人旅行客の対応が多いのだろう。朝食には珍しく「目玉焼き」があったし(その場で焼く、という訳では無い)、ご飯もインスタントみそ汁なんかも有った。これは得点大。(更にスパークリングワインも。) それにしても、このホテル。やったら重たい玄関のドアは寒い国の象徴なのだろうか、回転ドアにしてほしい所だ。部屋からの眺望は普通に向かいの建物が見えるだけだったが、廊下の装飾にはプラハの名所と音楽家がコラージュされているような絵画が飾られていたが、どうなんだろ。いい宿なんだからシンプルな古地図や楽譜の方が良いような気がする。
『プラハ城の旧王宮』を出ると『聖ヴィート大聖堂』の正門である東側に出る。 ここには『プラハ城』で一番古いとされる『聖イジ-教会』がある。『第三の中庭』で竜を退治していた、あの「イジ-」さんである。拡大し、信仰心が高まるプラハの街において、この規模の教会では賄えなくなって「司教」による「大聖堂」が建設されたのだろう。壁面には、ここにも「ヤンさん」が居た。 広場を進み左手に折れると、昔、王室御用達の錬金術師が暮らした、と言う『黄金の小路』である。 ちなみに、「ショートツアー」のチケットは、『聖ヴィート大聖堂』『旧王宮』『黄金の小路』に入場できる。チケットにバーコードが印刷されていて、それを各々の施設の入口に設置された「ぐるりんぱ」のリーダーに当てて入場する仕組みだ。チケットを失くすと、当然入れない。 それにしても『大聖堂』とか『旧王宮』とかが有料入場なのは判るとして「ただの路地」である『黄金の小路』が有料ゲートの入場なのは、いささか面食らうというか笑えた。イメージとしては「竹下通り」が有料でーす、って感じだ。 『黄金の小路』は、城内から入ると下り坂になっていて左側に小さな家々が長屋みたいにつながっている。2011年にリノベーションされて綺麗になったらしい。 フランツ・カフカが暮らした、という小さな家が有って、現在でも表札は「Franz Kafka」と出ている。他の家並みと同じくショップになっているのだが、流石に「本屋」だった。 それにしても人波が多い。凡そ、海外の観光地で、一番混んでる感じの人並だ。よって、人波に押されて路地を進むだけ、という感じでショップを見る、なんて気にもならない。カメラも「動画回しっぱなし」である。(笑) 100mも進めば「EXIT」と書いてある階段との分岐に当たる。右に階段を降りれば『プラハ城』の東門に出る。ここには全裸の少年の像が有るのだが、ハイティーンの御嬢さんが二人、少年のチ〇ポに手を当てて記念撮影をしていた。おおらかだねぇ。 門を出た右手がテラスになっていてプラハの町並みが美しいのだが、結構な人だかり。ここで、人垣を押し分けるよりも一段下がり、下城する坂道の左にあるリフレッシュメントのショップの中庭の方が人が居らずに景色は同じで良い感じだ。
『聖ヴィート大聖堂』の南面広場が『第三の中庭』。大聖堂の西側が出来上がるまでの期間は、この南面が正門として使用されていた。天文時計、黄金のモザイク、最後の審判など見どころも多い。 その東側に小さな噴水をもった建物入口が有り、そこから旧王宮に入る。中に入れば、すぐに『ウラディスラフ・ホール』だ。 田舎の小学校の講堂ほどのホールは2つの意味で見ておく価値がある。 1つは、その意匠。ホール天井を支えるリブボールトが花弁の様にあしらわれていて美しい。ゴシック造りの教会の代表的な建築構造として紹介される事が多い「リブボールト」だが、このホールにおいては、構造体そのものが内装の意匠として立派な装飾となっている。ゴシックも最後期のホールだけに、建築史の変遷の一端を垣間見れる。余談だが、2011年の東日本大震災で多くの体育館の屋根が落ちた。「吊天井」という構造の物が殆どなのだが、地震の無い国とは言いながら15世紀のホール建築が美しく残っているのを見ると建造物のコストバランスという物を考えさせられてしまう。 もう1つの価値は、このホールが舞台となった歴史的イベントに由来する。もちろん、多くの戴冠式などが執り行われたのだが、何と言ってもハイライトは「三十年戦争」の切っ掛けとなった「デフェンストラツェ」=「窓外投擲」事件の現場だからだ。 「窓外投擲」事件とは、1618年にボヘミアの貴族が、ハプスブルク家の皇帝代理人を「窓の外に放り出した」という事件である。何か、昔からボヘミアでは「抗議」=「窓外投擲」という伝統が有ったらしい。ホンマかいな。 いずれにしろ、そこからヨーロッパ全土を戦渦に巻き込む「三十年戦争」が始まった。この戦争が歴史上、非常に有名なのは、その規模やドイツ全土を荒廃させた戦禍の悲惨さも然ることながら、戦争の終結となった1648年の「ヴェストファーレン条約」において「主権国家」「政教分離」という概念が提示され、これが現代の「国際法」の創出につながった為である。(一応、法学部政治学科出身) それにしても窓から放り出されてはたまらない。ちなみに放り出した窓の高さは地上15mと伝えられる。 ホールを出て廊下を進むと『ボヘミア王の玉座の間』に至る。ここには、「ボヘミア王の三種の神器」(レプリカ)を展示されていた。本物は『ヴァーツラフ礼拝堂』の奥に「7つの鍵の扉」によって守られている。
『プラハ城 第三の中庭』にある『聖ヴィート大聖堂』は、チケットセンターのある『第二の中庭』から建物を潜って向かって左側の扉から中に入る。荘厳な装飾の壁面に、そこそこ大きな門構えなのだが、こちらは実は「裏口」。教会建築だから東側が正面玄関で、こちら側は西=裏口に当たる。 裏口から大聖堂の中に入れば、ゴシックの極みの様な高い天井の大ホールである。午前中に見た『聖バルボラ教会』よりも、更に大きい。ん~、流石は「世界最大の城」の中の最大の建造物だけの事はある。でかい。 壁面を飾るステンドグラスは、どれも見事だが一番有名な『アルフォンス・ミュシャのステンドグラス』は、入って直ぐ(西側3枚目)の壁面にある。流石に美しい色使い。この世界的に有名なステンドグラスのモチーフは大モラヴィア帝国にキリスト教を布教したギリシャ人の兄弟「聖キリルと聖メトディウス」。 ステンドグラスはスポンサーが教会に出す看板みたいなものなのだが、このミュシャのステンドグラスのスポンサーは「スラブ銀行」である。そのモチーフが「聖書をスラブ語に翻訳して布教した逸話」で知られる二人の聖人であるあたり、生前から金銭的成功を収めたミュシャらしくて笑える。 なお、日本人である私なぞには良く判らないが「大聖堂」と「教会」は違う物らしい。「カトリック」の定義では「大聖堂」は「カテドラル」=「司教座聖堂」と表記される。「司教座聖堂」って何よ?という事だが、Wikiによれば「司教座聖堂」とは、「祭壇の内陣中央に設けられる司教が座るための椅子すなわち司教座(ラテン語で cathedra)を持つ聖堂(教会堂)のことであり、司教が長を務める聖堂」と説明されている。「教会」とは、その下部組織にあたり小教区を司教では無い聖職者が担当する施設の事を言うらしい。ちなみに教区を持たない聖職者の施設が「修道院」なのだそうだ。 さて、その内陣中央に陣取る「司教座」の回りをぐるりと回れば、『聖ヤン・ネポムツキーの棺を抱える天使像』がある。2トンも有る大きな銀製の像で見ごたえあり。『クトナー・ホラ』の銀山のお蔭か? 『聖ヴィート大聖堂』において、もっとも有名で重要な場所と言われる『聖ヴァーツラフ礼拝堂』だが、何気に地味で観光客も少なく危うく見過ごしてしまいそうな「部屋」だった。 「黄金の漆喰に1300以上の貴石に飾られ」とか観光本に書いてあったので、さぞやギンギラキンキラと思っていたが、本当に地味で暗い。むしろ、外に描かれた「ボヘミア」「モラヴィア」「シレジア」の紋章の方が、余程に美しい。でも、この礼拝堂の奥には本物の「ボヘミアのジュエルクラウン」が安置されている、との事。一般観光客は礼拝堂には入れず覗くだけ、と聴いていたが普通に人が入っていた。(普通の人ではないのかもしれんが) さて、内部をぐるっと見て回ったら外に出て南面へ回る。東西に長い建物なので一番見応えがあるのが、この南側面だ。黄金のモザイクが輝き美しい。幾何学的に計算されつくしたダブルに張られたフライングバットも良く見える。この広場には「聖ゲオルギウス(聖イジー)の騎馬像」が建ち、お定まりのドラゴン退治をしている。角のオベリスクは、結構新しい物だそうだ。