-
はじめに連日、踏切事故などの硬い話題ばかり続いていましたので。今回から新幹線開業までのお話をさせていただこうと思います。今回は、新幹線の貨物輸送ということでお話をさせていただこうと思います。現在の新幹線は、0:00から6:00までは原則的に新幹線は走行せず、その時間帯は線路の保守に充てられることになっていますが、計画段階では貨物列車の一部も新幹線で夜間に運んでしまおうと言う計画がありました。最近の資料では、夜間の貨物輸送は世界銀行から借款を得るための口実だったとか、実際には貨物輸送を実施する気が無かったのではないかという記述もありますが、当時の交通技術と言う雑誌を読む限りでは、本気で新幹線によ...
-
増える自動車登録台数と踏切事故昭和30年代の経済成長は、旅客並びに貨物輸送の増大に伴う輸送力増強や。投資不足に伴う数々の事故を発生させたほか、経済の発展は自家用車の登録を増加させていきました。踏切事故件数および自動車台数を見ていただくとわかるのですが、昭和31年以降急激に伸びていることがわかります。弊サイトでは、当時の事件事故を年表にしていますが、昭和30年代は無謀運転のトラックや乗用車の他、バスとの接触事故などが後を絶ちません。特に踏切事故では自動車の乗員が死亡する等悲惨な事故になる場合が多く、その対策は急務とされましたが、踏切対策以前に輸送力の増強に追われていたため。その整備は後手に回るの...
-
高度経済成長と輸送力増強 第5話 鶴見事故一昨日は、三河島事故のお話をさせていただきました。三河島事故の場合、国鉄の事故報告書では本線への合流前に信号を無視したことで機関車が安全側線に進入、本線を支障した、となっています。当時の部内誌などを見ますと、出発信号並びに場内信号のいずれも無視したと言う記述も見られます。二回の停止現示をいずれも見落としたと言うことになります。おそらく、当時の国鉄線などという雑誌に書かれているように、出発信号機を見落とした上、場内信号機を通過したという可能性は捨てきれないと思います。こうした事故が起こった場合、それまでに潜在的な問題があったと思われます。いわゆる、ハイ...
-
昭和36年からの第二次長期計画は、車両の増備を中心に輸送力増強に努めたのであるがそれでも経済の発展に追いつけず、慢性的な輸送力不足を呈しており、複線化が急がれていたのですが、昭和37年5月に、国鉄にとっては悪夢のような事故が起こりました。死者160人、重軽傷者296人を出す大惨事、三河島事故でした。当時の概要は、既に多くの記事等でご覧の方も多いかと思いますので、詳細な解説は省略しますが、貨物列車の乗務員が信号を見落として本線に進入、安全側線に突入したが止まりきれずにそのまま本線を支障、そこに上野発、取手行き電車(2117H)が接触 1.2両目が脱線して、今度は対向線を支障、乗客はドアを開けて線...
-
第二次長期計画は、主に車両の増備等がメインであったと昨日は書かせていただきました。特に電車や気動車の投資効率が高かったため、国鉄は積極的にそうした車両を投入していったわけですが、YouTubeを検索してみますと昭和35年の高崎線の列車通勤風景が写った動画がありました。調べてみますと、高崎6:05発上野行きで、上野着は8:25で休日運休の客車列車だったようです。その5分前並びに11分後にも上野行きの列車が走っていますが連日このような混雑だったのでしょうか。少し興味はあります、併せて当時の時刻表を貼らせていただきましたので併せてご覧ください。少なくとも、高崎線に限らず、中央線などでもその問題は大き...
-
昭和36年度を初年度とする第2次5カ年計画は、当初の投資総額が9,750億円という巨額であり、その概要は下記の通りとなっていました。第2次5箇年計画の内容は,次のとおりです。 (1) 東海道線に広軌鉄道を増設すること。 (2) 主要幹線区約1100キロを複線化し,150キロの複線化に着手すること。 (3) 主要幹線区を中心に約1700キロの電化を行い,これを電車化すること。 (4) 非電化区間および支線区の輸送改善のために約2600両のディーゼル動車と約500両のディーゼル機関車を投入すること。 (5) 通勤輸送の改善のために,約1100両の電車を投入するとともに,駅その他の施設を改良すること...
-
本日から、国有鉄私見として第2次5カ年計画についてお話をさせていただこうともいます。高度経済成長と輸送力増強 第3話 第2次5か年計画と国鉄 http://jp.bloguru.com/jnrerablackcat/311526/5 も併せて参照していただければ幸いです。昭和32年から始まった5カ年計画は、主に老朽資産の取り替えなどを中心に行われましたが、人件費の高騰などで計画予算が枯渇したこともあって、計画自体を変更せざるを得なくなりました。【これに関しては国鉄だけに帰属する問題では無く、国民経済成長に国鉄の輸送力が追いつかなかったという側面もありました。】一般に資料などを見ていますと、資金...
-
キハ55の成功は、無煙化と高速化を同時に達成する手段として各管理局からの配置要望も多かったそうです。準急気動車が気動車化されても、急行は客車列車の場合も多く、気動車化は喫緊の課題でした。ただ、キハ55は気動車としては優秀でも、車内設備は貧弱であったことから、特急列車並みの車体幅とした、急行気動車の開発が進められることになりました。実は、製造に関しては北海道向けの車両開発が先行したため形式的にはキハ56【北海道用】キハ57【信越線】キハ58の順で製作されました。昭和36年1月に先行試作車が完成しました。キハ55と基本的なスタイルは同じですが、車体幅は2900 mm となり、車体幅を絞る形となった...
-
今回から、新しい取り組みと思ったのですが、新年から新しい話題にするのが良いかと思いましたのでもうしばらく続けさせていただきます。液体式気動車の系譜戦後の液体式気動車(昭和35年頃までは液圧式)は、キハ44500(称号改正後はキハ15)からスタートしました。液体式気動車の歴史を簡単に振り返ってみますと、上記のキハ44500試作車を経て、昭和29年から量産型と言える、キハ45000(後のキハ17)が製造され、派生して2エンジン車仕様のキハ44600(後のキハ50試作車を経て)キハ44700(後のキハ51)が誕生、その後、準急用としてキハ44800(後のキハ55)が誕生します。キハ55が誕生して、初...
-
アジア鉄道首脳者会議 がきっかけで始まった特急気動車開発特急気動車の開発は、昭和34年から開発がスタートしました。昭和31年キハ55により、2エンジン車体と軽量車体により高速の優等列車の可能性が高まったことから、以前から構想はあったようです。当時、日本国有鉄道総裁であった十河信二の提唱で始まった、アジア鉄道首脳者会議 (ARC = Asian Railways Conference)、(昭和33(1958)年に第1回が開催)が再び昭和35年に開催することが決定したこともあり、客車特急はつかり号を気動車に置き換えることで接客サービスの向上を図ることが正式に決定されたのでした。エンジンは従来のエン...