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今回から、何回かに分けて新幹線開業までのお話をさせていただこうと思います。新幹線に関しては、戦前の弾丸列車計画まで遡ることができます。実際に、丹那トンネルなど一部の区間は建設に着手していましたし、日本坂トンネルのように戦前には完成し、一時期は在来東海道線で利用された区間もあったと言われています。昭和30年代の輸送力はひっ迫しており、東海道線の全線複々線化も視野に入れて検討されましたが、鉄道技術研究所が新幹線による東京~大阪3時間運転の可能性を示したことを受け、鉄道が斜陽産業と思われていた中に光明を見出したと言えます。最終的には、十河信二の決断が大きかったと言えましょう。世間は鉄道斜陽論が一般的...
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昨日は、151系電車は大人気で、急きょ増備することになったと言うお話をさせていただきましたが、実は昭和33年10月の、「こだま」運転開始前から検討はされていたそうです、そこで問題になったのは、「こだま」は、2・3等車のみの編成でありながら冷暖房完備であるのに対し、「つばめ・はと」は1等展望車並びに食堂車以外は非冷房では差が付き過ぎることから、検討されたのですが、その時は、「こだま」号が運転開始前であり、当時は客車にするか電車にするか決めかねていたのでした。昭和31年には、EH1015が歯数比を変更して高速試験が行われたのも、当時としては長距離列車は、客車列車というイメージがあったからでした。結...
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昨日は、小田急の車両を借り入れて高速試験を行ったと言うお話をさせていただきましたが、実は3000系の設計には国鉄の技術研究所がかなり設計に関しては技術協力をしたそうですが、小田急としてもかなり部内で物議は有ったそうです。特に、運転台が低くなることが万が一の事故の場合どうするのかとか、見通しが悪くなると言う問題提起がなされたと言います。また、連接台車に関する保守も保守部門からは不安が有ったそうです。また、、お役所以上に固い(融通が利かない)と言われた国鉄ですが、この高速試験は結果的には大成功であり、最終的に3000系で培われた軽量化の技術は、国鉄の車両設計にも大いに影響を与えたようです。なお、高...
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本日は、小田急が開発したSE車が、国鉄線を走った頃のお話をしてみたいと思います。1)国鉄技術研究所の協力で始まったSE車小田急のSE車は、ご存じのとおり小田急が最初に開発した特急専用電車であり、現在も1編成が海老名車両基地(神奈川県海老名市)の専用保管庫に保存されています。当初は、鉄道技術研究所の協力で開発が始まったそうで、完成後は小田急線内で最高速度を出せるところがなかったので、これまた国鉄で試験をさせて欲しいということになったそうです。 国鉄の部内にも私鉄の車両を借り入れることに対して反対意見も多かったそうで、借入費用が大きくなることや、車両自体が信託(住友信託銀行)されていたこともあり、...
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引続き、101系のお話を少しだけさせていただく前に、中央線に最初に101系が投入されたのかという経緯を知る必要があるかと思います。中央線沿線は、戦後の人口増加が大きかったと言われています。いささか乱暴な話ですが、中央線が通過する八王子市の人口を八王子市の統計で見てみますと、上記のグラフに有るように、昭和30(1955)年に大きく増加し、その後昭和40(1965)年までは周囲の町村合併もあったとはいえ人口が爆発的に増加していることが理解していただけると思います。これは、戦後、東京都民が郊外に引っ越したことも原因としてあったかもしれませんが、この頃から東京一極集中の問題は起こっており、鉄道輸送にあ...
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昨日は、地方納付金の話にお話がずれたのですが、その辺のお話はまた改めてお話をさせていただくことになるかと思います。 再び第一次5か年計画のお話に話題を戻したいと思います。 第一次5か年計画は、老朽資産の取替という目的だけは100%達成し、動力近代化(蒸気機関車を1975年までに全廃し、電気もしくは内燃機関による運転に切替)の端緒も開けましたが、肝心の輸送力増強が追い付かず、昭和35年までで20%程度であったと記録されています。結果的に輸送が行き詰まり運輸収入が伸びないので、現金が不足することとなり、経済成長に伴うインフレで人件費の向上や物件費の高騰もあいまって、当初予算は昭和35年度で枯渇、昭...
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元々国鉄は非課税組織であった。国鉄は、元々は国の機関である運輸省から派生したもので、その公共性から、国鉄法第六条では左記のように非課税が明記されていました。第六条 日本国有鉄道には、所得税及び法人税を課さない。2 都道府県、市町村その他これらに準ずるものは、日本国有鉄道に対しては、地方税を課することができない。但し、鉱産税、入場税、酒消費税、電気ガス税、木材引取税及び遊興飲食税、これらの附加税並びに遊興飲食税割については、この限りでない。昭和二三年制定 日本国有鉄道法このように、国鉄は地方税が賦課されないとされていましたが、昭和二八年に地方税制が左記のように改正される事となりました。地方税の改...
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今日からは、戦後の老朽資産取替と電化・複線化等による輸送力増強のお話を中心に進めて行きたいと思います。昭和30年代とはどんな時代だったのか? さて、ここで技術的な話から少し外れて、昭和30年代のお話をしてみたいと思います。 昭和25年の朝鮮戦争を契機として、日本は本格的に復興の道を歩み始め、昭和30年前後には、国民所得が戦前の水準を上回る水準にまで達し。「もはや戦後ではない」という言葉が言われたのもこの頃です。 重厚長大産業(鉄鋼など)の発展は著しいものがありました。 国鉄ではこれら産業基盤の整備の一環として、動力の近代化と幹線の電化などで対応しようとして、積極的に電化工事等が行われました。...
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〇交流電化のメリット交流電化のメリットは、地上設備(変電所)の削減、直流では数キロ置きに設置される変電所が数十キロと長くなるほか、高い電圧を流せるので電流量が減少するため饋電線を細くすることが可能となり、その結果電柱などの構造物も軽くなると言うメリットがあると言われました。〇デメリット実際には狭小トンネルなどの場合路盤の掘り下げもしくは新規のトンネル開削などを行う必要が生じたこと、更に当時の国鉄の方針として動力分散化が進められていて機関車列車よりも加減速などでも有利な電車が優先されたことから、メリットよりもデメリットが目立つようになってきました。 結果的に、在来線における交流電化は、東北本線の...
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北陸本線は、昭和32年10月1日、田村駅~近江塩津駅~敦賀駅間が交流電化されましたが、米原~田村間は、その区間を非電化として蒸気機関車(E10)で連絡したことは前述しましたが、昭和昭和38(1963)年12月28日、米原駅~田村駅間が直流電化され、田村駅の米原寄りにデッドセクションが設置されることとなりました。米原~田村間は小運転の専用機関車で接続すると言うことで、EF55-3の部品を流用して(実際はモーターなど一部のみ)(記事によればEF10という記述もあり)の直流機器と475系の交流機器を使って昭和37(1962)年10月初旬に浜松工場でED30形電気機関車が誕生したそうです。 この機関車...