English日本語

Blogllet - 外出先からの投稿がこれまでになく簡単になる無料のモバイルアプリです。今すぐお試しください!

Download on the App Store®

ハッシュタグ検索

"#歴史"の検索結果
  • 気動車の発展と開発 液体式気動車の苦悩2 第5話

    軽量化された。キハ45000 概要液体式気動車として、キハ44500形に試作車をベースにして、前面を貫通構造にしたキハ45000形が、昭和28年10月上旬から随時完成したと記録が残っています。当初の車両は客車をそのまま気動車に置き換えたような配置でドアのすぐ横まで4人ボックスが並ぶ全クロスシートでした。非力なエンジンをカバーするために、車体幅はキハ44000に準じた大きさで、車体幅は2700 mmにするなど従来に客車などと比べると一回り小さな車体となっていました。また、車内も軽量化されており、ひじ掛けも省略し、座席の高さも低くするなど徹底的な軽量化がなされました、ただし、台車はその設計に難があ...
  • 気動車の発展と開発 液体式気動車の苦悩 第4話

    本日は、液体式気動車の発展と言うことで綴らせていただこうと思います。現在は電車の部品と共用する目的から、鉄道車両では電気式を選択する例も増えていますが、国鉄時代はDMH17エンジンに液体変速機の組み合わせが圧倒的で、昭和43年から量産された181系や同エンジンを積んだ、キハ65等を除けば非電化区間の主役としてそれこそ日本全国走っていました。日本で液体式が発展した背景には、欧米と比べると貧弱な線路にもその原因はあったと言われています。DMH17系エンジンは、戦前のGMH17(ガソリンエンジン)をディーゼルエンジンに設計変更したものが基本で、液体変速機共々戦前に設計されたもので初期のDMH17系エ...
  • 気動車の発展と開発 電気式気動車試作のお話 第3話

    本日は、戦後の電気式気動車のお話をさせていただこうと思います。電気式気動車自体は、戦前キハ43000形式が試作されましたが、戦争の激化により開発は中止、戦後は中間付随車が電車の付随車として飯田線で使われたそうです。さて、今回は戦後試作された電気式気動車、キハ44000のお話を中心にさせていただきます。開発が再開されたディーゼル気動車戦後しばらくの間は、石油も未だ自由に使うことができず、かつ列車増発の要請も強かったことから、千葉並びに新潟では天然ガスが噴出することから。天然ガスを動力源とする天然ガス動車が改造で使用されましたが、石油も比較的安価に流通するようになったこと、特に軽油は比較的安く手に...
  • 「これがアメリカの人種差別」

    この写真は1956年、アラバマ州百貨店の店頭です。服装から黒人母娘と思われる二人 が貧困家庭でないことは明らかです。ここで「COLORED ENTRANCE」というサインに注目して下さい。「有色人種 入り口」という意味ですが、此の頃は「黒人」をさしています。奇麗なネオンサインです。これを揚げた経営者はお金のある買い物客は「黒人」でも大歓迎、但し白人の御客様とは別の入り口からということです。勿論、日本人は有色人種ですよ。日本が経済力をつけて「preferred colored」 と呼ばれた事もありました。「優遇有色人種」です。今の米政権は「再び偉大なアメリカを」標榜していますが、これは一部の白人...
  • 気動車の発展と開発 天然ガス動車のお話 第2話

    戦後の仇花、天然ガス動車今回は、戦後一時的に使われた天然ガス動車のお話をさせていただこうと思います。戦後の一時期、新潟県と千葉県で天然ガスが採取できたことから。ガソリン不足で休車となっていたキハ42000(後のキハ07)を改造して天然ガスで走れるようにした車両が存在したそうです。天然ガスが噴出する千葉では鉄道の救世主にそこで、当時の技術資料などを参考にしてみますと、昭和21年頃から天然ガス動車を活用してはどうかという意見があったそうです。天然ガス動車の技術は昭和10年頃には完成していたそうで、小湊鉄道は昭和16年に内燃気動車(ガソリン車)の天然ガス気動車化の改造を行い戦時中も気動車を運転したと...
  • 気動車の発展と開発  戦前の気動車のお話 第1話

    1)戦前はガソリン動車、戦後はディーゼル動車戦前の国鉄でも、実は気動車は運用されており、特に地方ローカル線などでは経営の合理化として使われる例がありました。戦前の気動車としては、大宮の鉄道博物館に保存されている、キハ41000形(キハ04)やキハ07(キハ42500形)が存在しましたが、戦前はディーゼル機関車ではなく、ガソリンエンジンを搭載した気動車が一般的でした。ディーゼル機関の開発は遅く、試作エンジンが、昭和11年に作られました。試行錯誤の結果、予燃焼室付きのでエンジンが開発され一応の完成を見るのですが、戦争の激化により開発は中止されてしまいます。この時試作されたエンジンが、戦後の気動車化...
  • 国鉄VS東武 日光観光客争奪戦 第2話

    東武を震撼させた157系157系の登場が、昭和34年、東武の1720系(DRC)の登場が昭和35年ですから、東武が157系の登場に危機感を持ったのは言うまでもありませんでした。東武がどれ程危機感を持っていたかといいますと、昭和31年から製造していた1700系に代えて、新しい車両を投入したこと、更に従来車の1700系も、昭和45年、更新の際、ボディを載せ代えて1720系と同じ仕様にしています。157系諸元ここで、東武に1720系(DRC)を導入させる切っ掛けとなった157系について簡単に紹介させていただきます。157系直流電車 4M2Tの6両編成   Mc+M'+T+Ts+M'+Mc電車としては...
  • 国鉄VS東武 日光観光客争奪戦 第1話

    世界的観光地日光現在でこそ、JR東との相互乗り入れが行われていますが、かつて国鉄時代は国鉄と東武双方が競争していました。昭和31年、東武が1700系特急車と呼ばれるロマンスカーを導入、国鉄も負けじと同年10月10日から、準急用気動車として開発したキハ55を投入します。160PSのエンジンを2基搭載した強力型とはいえ、東武の1700系と比べれば見劣りする車両であり。決して有利な戦いとは言えませんでした。その後、昭和34年には、日光線も電化されることとなり、東武と競争条件がほぼ同じとなりましたので、ここで積極策に出ることになります。攻める国鉄と追われる東武国鉄は日光線の電化工事を行い、電車列車並び...
  • 新幹線建設と国鉄 第2話 新幹線計画概要と建設基準

    東海道新幹線は、十河総裁と島技師長が推進する形でスタートを切ることになりましたが。車両限界等の建設基準等は、昭和36年4月から国鉄部内に設けられた、新幹線建設基準調査委員会で検討されました。昭和36年8月には最終決定がなされ、その記事が「交通技術昭和36年10月号」にアップされていましたので、当時の記録を引用しながら簡単に解説させていただきます。なお、一時期通勤輸送に山手線をオール2階建てにすればいいと言う発言があり、車両限界を無視したものだと物議をかもしたことがありますが、これは在来線の車両に場合新幹線と異なりレール面上3m(車内から見れば2m付近から大きくカーブを描く車両限界のためです、ト...
  • 新幹線建設と国鉄 第1話 十河信二総裁と阿川弘之

    今回から、何回かに分けて新幹線開業までのお話をさせていただこうと思います。新幹線に関しては、戦前の弾丸列車計画まで遡ることができます。実際に、丹那トンネルなど一部の区間は建設に着手していましたし、日本坂トンネルのように戦前には完成し、一時期は在来東海道線で利用された区間もあったと言われています。昭和30年代の輸送力はひっ迫しており、東海道線の全線複々線化も視野に入れて検討されましたが、鉄道技術研究所が新幹線による東京~大阪3時間運転の可能性を示したことを受け、鉄道が斜陽産業と思われていた中に光明を見出したと言えます。最終的には、十河信二の決断が大きかったと言えましょう。世間は鉄道斜陽論が一般的...
  1. 4
  2. 5
  3. 6
  4. 7
  5. 8
  6. 9
  7. 10
  8. 11
  9. 12
  10. 13

ページ 9/210