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投稿日 2017-12-10 02:13
つれづれなるままに
by
高橋京太
マルチンルターがヴッテンベルク城教会に95箇条の質問状を掲示してから500年。ローマカトリック教会のヨーロッパ支配に楔を打ち込む事となりました。ただしルター自身にはそのようなつもりは全くなく、新しく台頭してきた時代勢力が彼をして革命の旗手に仕立て上げたのでしたが。それから17年、イエズス会が誕生しま...
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昨日は、151系電車は大人気で、急きょ増備することになったと言うお話をさせていただきましたが、実は昭和33年10月の、「こだま」運転開始前から検討はされていたそうです、そこで問題になったのは、「こだま」は、2・3等車のみの編成でありながら冷暖房完備であるのに対し、「つばめ・はと」は1等展望車並びに食堂車以外は非冷房では差が付き過ぎることから、検討されたのですが、その時は、「こだま」号が運転開始前であり、当時は客車にするか電車にするか決めかねていたのでした。昭和31年には、EH1015が歯数比を変更して高速試験が行われたのも、当時としては長距離列車は、客車列車というイメージがあったからでした。結...
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昨日は、小田急の車両を借り入れて高速試験を行ったと言うお話をさせていただきましたが、実は3000系の設計には国鉄の技術研究所がかなり設計に関しては技術協力をしたそうですが、小田急としてもかなり部内で物議は有ったそうです。特に、運転台が低くなることが万が一の事故の場合どうするのかとか、見通しが悪くなると言う問題提起がなされたと言います。また、連接台車に関する保守も保守部門からは不安が有ったそうです。また、、お役所以上に固い(融通が利かない)と言われた国鉄ですが、この高速試験は結果的には大成功であり、最終的に3000系で培われた軽量化の技術は、国鉄の車両設計にも大いに影響を与えたようです。なお、高...
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本日は、小田急が開発したSE車が、国鉄線を走った頃のお話をしてみたいと思います。1)国鉄技術研究所の協力で始まったSE車小田急のSE車は、ご存じのとおり小田急が最初に開発した特急専用電車であり、現在も1編成が海老名車両基地(神奈川県海老名市)の専用保管庫に保存されています。当初は、鉄道技術研究所の協力で開発が始まったそうで、完成後は小田急線内で最高速度を出せるところがなかったので、これまた国鉄で試験をさせて欲しいということになったそうです。 国鉄の部内にも私鉄の車両を借り入れることに対して反対意見も多かったそうで、借入費用が大きくなることや、車両自体が信託(住友信託銀行)されていたこともあり、...
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引続き、101系のお話を少しだけさせていただく前に、中央線に最初に101系が投入されたのかという経緯を知る必要があるかと思います。中央線沿線は、戦後の人口増加が大きかったと言われています。いささか乱暴な話ですが、中央線が通過する八王子市の人口を八王子市の統計で見てみますと、上記のグラフに有るように、昭和30(1955)年に大きく増加し、その後昭和40(1965)年までは周囲の町村合併もあったとはいえ人口が爆発的に増加していることが理解していただけると思います。これは、戦後、東京都民が郊外に引っ越したことも原因としてあったかもしれませんが、この頃から東京一極集中の問題は起こっており、鉄道輸送にあ...
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本日から、新性能電車の幕開けとということで何回かに分けてお話をさせていただこうと思います。しばしお付き合いくださいませ。1)今までの常識を変えた湘南電車 昭和25年に「運行を開始した湘南電車は、今までの電車の常識を覆すこととなりました。 それまで、電車は振動も多く長距離の移動には向かないのでせいぜい60km程度までの距離を走るものと思われていました。 100km以上の距離を走る湘南電車は、電車の新しい可能性を示すものと言えました。 80系電車は性能的には吊りかけ駆動のため、分類上は旧型国電ですが、電車による可能性を広げたことは間違いありません。2)新駆動方式による高性能電車の誕生 昭和27年に...
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本日から、高速鉄道の可能性についてと言う話題でお話を進めて行きたいと思います。戦後の輸送量は飛躍的に増加し、経済成長率は戦前の水準を越えたと思われ、昭和32年当時、輸送申込みの60%しか輸送できなかったと、国鉄線の記事では出てきますが、当時は他の輸送機関が殆ど発達しておらず、(飛行機も60人程度の定員で東京~福岡などは、特急1等運賃で東京~博多まで行くのとほぼ同じ金額(当時はあえて、航空運賃を高く設定すると言う政策的な部分がありました。)利用者の多くは、鉄道に頼らざるを得ない状況でした。 そのような中、輸送力の拡大(特に東海道線)は喫緊の課題だったのです。 当時、国鉄本社の予測では、現在の経済...
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昭和31年に、「特急あさかぜ」は旧形客車を連ねた編成で誕生します。荷物・3等合造車 3等寝台車3両、3等座席車2両、食堂車、2等座席車、2等AB寝台車(個室&開放室)2等C寝台(開放室非冷房)の編成でした。当初案では、大阪を無視する列車(実際には停車・客扱を行う)として計画され物議をかもしたものでした。考えられた案は下記の3つ1)東海道夜行+山陽昼行特急とする案。(東京発は深夜になる)2)つばめ・はとに続行する形で、山陽区間を夜行にする案(昼間の走行時間が長くなる。3)大阪を深夜に通過するダイヤとし、東京を夕刻、博多には到着する案3案は、前例がないと大阪鉄道管理局は反発しますが、関西始発の九州...
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昨日も書きましたが、朝鮮動乱に伴う外貨の獲得は日本に好景気をもたらすきっかけとなり、昭和29年からは神武景気と呼ばれる好況な状況が作り出され、貨物・旅客ともに需要は増えていく状態でした。 そんな中で、国鉄では積極的に輸送力の増強に努めるとともに、ディゼルカーによる地方ローカル線の輸送改善なども本格的に行っていきました。当初投入されたのはキハ01と呼ばれる気動車で、戦時中に不要不急路線として撤去された白棚線復活用の車両として計画されたものですが、ご存じのとおり白棚線はその後専用道で復活することとなりましたが、白棚線に代えて、木原線(現在のいすみ鉄道)に投入することとなりました。 模型等で見られた...
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今回は、オリジナル記事として神武景気と鍋底不況と国鉄と言うことで書かせていただきます。日本史で聞かれたことはあるかと思いますが、神武景気は昭和29(1954)年 12月から 昭和32(1957)年6月まで 31ヵ月間続いた好景気の俗称ですが、国鉄も、好景気を受けて第1次5か年計画がスタートするのは前述した通りですが、その原資となるべく運賃値上げは当初18%で申請しますが、運輸審議会の答申でその値上げ額は15%に圧縮され、さらに国会審議を経て13%に圧縮されたと言われています。そこに来て、第1次5か年計画の当初に国際収支の悪化を端緒とした、公定歩合の引き上げが5月を始め、金融引き締めを強化したこ...