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本日から、高速鉄道の可能性についてと言う話題でお話を進めて行きたいと思います。戦後の輸送量は飛躍的に増加し、経済成長率は戦前の水準を越えたと思われ、昭和32年当時、輸送申込みの60%しか輸送できなかったと、国鉄線の記事では出てきますが、当時は他の輸送機関が殆ど発達しておらず、(飛行機も60人程度の定員で東京~福岡などは、特急1等運賃で東京~博多まで行くのとほぼ同じ金額(当時はあえて、航空運賃を高く設定すると言う政策的な部分がありました。)利用者の多くは、鉄道に頼らざるを得ない状況でした。 そのような中、輸送力の拡大(特に東海道線)は喫緊の課題だったのです。 当時、国鉄本社の予測では、現在の経済...
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昭和31年に、「特急あさかぜ」は旧形客車を連ねた編成で誕生します。荷物・3等合造車 3等寝台車3両、3等座席車2両、食堂車、2等座席車、2等AB寝台車(個室&開放室)2等C寝台(開放室非冷房)の編成でした。当初案では、大阪を無視する列車(実際には停車・客扱を行う)として計画され物議をかもしたものでした。考えられた案は下記の3つ1)東海道夜行+山陽昼行特急とする案。(東京発は深夜になる)2)つばめ・はとに続行する形で、山陽区間を夜行にする案(昼間の走行時間が長くなる。3)大阪を深夜に通過するダイヤとし、東京を夕刻、博多には到着する案3案は、前例がないと大阪鉄道管理局は反発しますが、関西始発の九州...
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昨日も書きましたが、朝鮮動乱に伴う外貨の獲得は日本に好景気をもたらすきっかけとなり、昭和29年からは神武景気と呼ばれる好況な状況が作り出され、貨物・旅客ともに需要は増えていく状態でした。 そんな中で、国鉄では積極的に輸送力の増強に努めるとともに、ディゼルカーによる地方ローカル線の輸送改善なども本格的に行っていきました。当初投入されたのはキハ01と呼ばれる気動車で、戦時中に不要不急路線として撤去された白棚線復活用の車両として計画されたものですが、ご存じのとおり白棚線はその後専用道で復活することとなりましたが、白棚線に代えて、木原線(現在のいすみ鉄道)に投入することとなりました。 模型等で見られた...
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今回は、オリジナル記事として神武景気と鍋底不況と国鉄と言うことで書かせていただきます。日本史で聞かれたことはあるかと思いますが、神武景気は昭和29(1954)年 12月から 昭和32(1957)年6月まで 31ヵ月間続いた好景気の俗称ですが、国鉄も、好景気を受けて第1次5か年計画がスタートするのは前述した通りですが、その原資となるべく運賃値上げは当初18%で申請しますが、運輸審議会の答申でその値上げ額は15%に圧縮され、さらに国会審議を経て13%に圧縮されたと言われています。そこに来て、第1次5か年計画の当初に国際収支の悪化を端緒とした、公定歩合の引き上げが5月を始め、金融引き締めを強化したこ...
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「もはや戦後ではない」が合言葉となった昭和30年代、昭和33年に初めて特急電車「こだま号」により6時間半で東京~大阪間を走破するようになりました。昭和30年代という時代を総括しますと、なべ底不況と言われた景気調整局面は有ったものに、昭和29年から昭和36年12月まで右肩上がりの経済成長を遂げた時代と言えます。経済成長と公害問題をの両方を内包した時代ではありましたが、経済の成長は確実に個人所得を増やし、三種の神器と呼ばれた(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)の購入することが目標となった時代でした。道路の整備なども進み、高速道路建設が計画される等国鉄を取巻く環境も変わりつつありました。そんな中、国鉄は昭和3...
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昨日は、地方納付金の話にお話がずれたのですが、その辺のお話はまた改めてお話をさせていただくことになるかと思います。 再び第一次5か年計画のお話に話題を戻したいと思います。 第一次5か年計画は、老朽資産の取替という目的だけは100%達成し、動力近代化(蒸気機関車を1975年までに全廃し、電気もしくは内燃機関による運転に切替)の端緒も開けましたが、肝心の輸送力増強が追い付かず、昭和35年までで20%程度であったと記録されています。結果的に輸送が行き詰まり運輸収入が伸びないので、現金が不足することとなり、経済成長に伴うインフレで人件費の向上や物件費の高騰もあいまって、当初予算は昭和35年度で枯渇、昭...
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元々国鉄は非課税組織であった。国鉄は、元々は国の機関である運輸省から派生したもので、その公共性から、国鉄法第六条では左記のように非課税が明記されていました。第六条 日本国有鉄道には、所得税及び法人税を課さない。2 都道府県、市町村その他これらに準ずるものは、日本国有鉄道に対しては、地方税を課することができない。但し、鉱産税、入場税、酒消費税、電気ガス税、木材引取税及び遊興飲食税、これらの附加税並びに遊興飲食税割については、この限りでない。昭和二三年制定 日本国有鉄道法このように、国鉄は地方税が賦課されないとされていましたが、昭和二八年に地方税制が左記のように改正される事となりました。地方税の改...
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今日からは、戦後の老朽資産取替と電化・複線化等による輸送力増強のお話を中心に進めて行きたいと思います。昭和30年代とはどんな時代だったのか? さて、ここで技術的な話から少し外れて、昭和30年代のお話をしてみたいと思います。 昭和25年の朝鮮戦争を契機として、日本は本格的に復興の道を歩み始め、昭和30年前後には、国民所得が戦前の水準を上回る水準にまで達し。「もはや戦後ではない」という言葉が言われたのもこの頃です。 重厚長大産業(鉄鋼など)の発展は著しいものがありました。 国鉄ではこれら産業基盤の整備の一環として、動力の近代化と幹線の電化などで対応しようとして、積極的に電化工事等が行われました。...
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〇交流電化のメリット交流電化のメリットは、地上設備(変電所)の削減、直流では数キロ置きに設置される変電所が数十キロと長くなるほか、高い電圧を流せるので電流量が減少するため饋電線を細くすることが可能となり、その結果電柱などの構造物も軽くなると言うメリットがあると言われました。〇デメリット実際には狭小トンネルなどの場合路盤の掘り下げもしくは新規のトンネル開削などを行う必要が生じたこと、更に当時の国鉄の方針として動力分散化が進められていて機関車列車よりも加減速などでも有利な電車が優先されたことから、メリットよりもデメリットが目立つようになってきました。 結果的に、在来線における交流電化は、東北本線の...
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北陸本線は、昭和32年10月1日、田村駅~近江塩津駅~敦賀駅間が交流電化されましたが、米原~田村間は、その区間を非電化として蒸気機関車(E10)で連絡したことは前述しましたが、昭和昭和38(1963)年12月28日、米原駅~田村駅間が直流電化され、田村駅の米原寄りにデッドセクションが設置されることとなりました。米原~田村間は小運転の専用機関車で接続すると言うことで、EF55-3の部品を流用して(実際はモーターなど一部のみ)(記事によればEF10という記述もあり)の直流機器と475系の交流機器を使って昭和37(1962)年10月初旬に浜松工場でED30形電気機関車が誕生したそうです。 この機関車...