若い人が和室を好まない、という話を聞くと、つい「もったいない」と思ってしまう。 けれど、それを嘆いたり、価値観の違いを裁いたりする気にはならない。たぶんそこには、世代ごとの感覚の差が、静かに横たわっているだけなのだと思う。
絨毯の上に、家具の角に、ソファーの背もたれに、静かに光が広がっていく。 考えてみれば、陽が差すのは当たり前のことだ。特別な出来事でも、祝うほどの事件でもない。 それなのに、冬の光はどうしてこうもありがたく感じられるのだろう。 寒さや曇り空に慣れてしまった分だけ、ほんの少しの明るさが、過剰なくらいに心に染みるのかもしれない。 チンチラ猫が陽だまりを選んで、のんびりと体を伸ばしている。何を急ぐでもなく、何を悔やむでもなく、ただ今を受け取っている姿。その気楽さが、少しうらやましい。
足元を見ると、チンチラ猫が陽だまりを選んで、のんびりと体を伸ばしている。 何を急ぐでもなく、何を悔やむでもなく、ただ今を受け取っている姿。その気楽さが、少しうらやましい。 さて、と小さく区切りをつけて、窓辺のカウンターに向かう。 今日だけの「おうちカフェ」を開こう。 凝ったことはしない。 湯を沸かし、カップを選び、外の光を眺めながらゆっくり飲む。それで十分だ。
絨毯の上に、家具の角に、ソファーの背もたれに、静かに光が広がっていく。 それだけのことなのに、なぜか胸の奥がふっとゆるむ。 「うれしいな」と、誰に言うでもなく心の中でつぶやいている自分がいる。 考えてみれば、陽が差すのは当たり前のことだ。 特別な出来事でも、祝うほどの事件でもない。 それなのに、冬の光はどうしてこうもありがたく感じられるのだろう。 寒さや曇り空に慣れてしまった分だけ、ほんの少しの明るさが、過剰なくらいに心に染みるのかもしれない。
一月の、ある日の午前十一時。 冬のまっただ中だというのに、部屋には思いがけず明るい陽が差し込んでいる。 絨毯の上に、家具の角に、ソファーの背もたれに、静かに光が広がっていく。それだけのことなのに、なぜか胸の奥がふっとゆるむ。
昭和の部屋は、過去の遺物ではない。 いまも呼吸をし、暮らしを受け止めている場所だ。 そこに身を置くと、急ぐ必要も、整いすぎる必要もないのだと思えてくる。 この部屋は、何かを教えてはくれない。 ただ、黙ってそこにあり、私が立ち止まるのを許してくれる。 それだけで、十分なのだと思う。
洋風が和風より優れている、という考え方も、この部屋では意味を持たない。 和室に置かれた洋風の椅子や、昭和の棚の上に並ぶガラスの小物。 それらは不思議と馴染み、互いに主張しすぎない。 生活の中で選ばれ、残されてきたもの同士は、自然に折り合いをつけるのだろう。
箪笥の角の丸み、少し低い天井、年季の入った畳。 電灯の光は白くもなく、均一でもない。けれど、その淡い灯りが、部屋の中の影までも受け入れているようで、落ち着く。ここでは、すべてを明るく照らす必要がないのだと、身体が先に理解する。 古さは、欠点ではない。 傷や色あせは、暮らしがそこにあった証しで、何も語らずとも多くを含んでいる。 新しさには新しさの良さがあるが、古いものが持つ「慣れ」のような温度は、簡単には手に入らない。時間だけが、それを育ててくれる。