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栃木県の歴史散歩

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下野の飛脚便 江戸や奥州も結ぶ三度笠

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江戸時代の″郵便配達″は飛脚であった。これには①幕府公用のための「継(つぎ)飛脚」②諸藩専用の「大名飛脚」③民間で営業する「町飛脚」─ の3種があった。このうち「継飛脚」は、各宿駅で人馬を継ぎ替えて信書や貨物を送るもので、天正18年(1590)、徳川家康が三河から江戸に本拠を移したさい、官用の書状箱を携行させたことが始まりである。元和年間には、日光東照宮造営などの通達や連絡の書状運搬にも利用されたが、元禄のころは、江戸─京都間の走行に82時間(昼夜兼行)を要した。それが宝暦年代では道路の整備や″御用飛脚″という威力による渡船優先通行などで六十八時間に短縮された。
 次の大名飛脚は、おもに江戸と領国の間を往復するもの。その代表は御三家で、それも尾張、紀伊の両家がいち早く設置し、両家は東海道宿駅に7里ごとに飛脚溜(たまり)小屋を設け、そこに脚夫数人を配置して書簡の逓送に当たらせていた。これを「七里飛脚」ともいう。
 最後の「町飛脚」は、元和元年(1615)、大坂(いまの大阪)在番の諸士が東海道の各駅主と相談の結果、毎月3度、8の日を限って出発させたことから、これにならって大坂の商人が飛脚を営業したものである。元和─寛永のころは大坂方の浪人や戦国大名の取りつぶされた家臣らが野盗になりさがっていたりして、世上、極めて物騒であった。そのため、脚夫には大小を持たせ、足自慢の浪人者を雇うなどした。これが民間飛脚のはじめである。
 寛文3年(1663)、京都、大坂、江戸の商人が三都間を往復するための飛脚業を制度的に始めた。この場合は、脚夫を武装させずに、商人の服装に変え、健脚の者を選んで東海道の往来は6日間で果たした。これを「定六」とも呼び、また毎月2の日の3回、大
坂を出発したことから「三度飛脚」ともいい、被る笠を「三度笠」と称した。
 天明2年(1782)、定飛脚は株制度となり、江戸では、京屋弥兵衛、大坂屋茂兵衛、山田屋八左衛門、島屋左衛門、伏見屋五兵衛、和泉屋甚兵衛、山城屋惣左衛門、十七屋孫兵衛の8軒が幕府道中奉行の許可を受け、独占的に営業権を獲得した。
 したがって、地方には原則として本当の意味の飛脚屋は皆無となったが、宇都宮、小山などには何軒か「飛脚屋」があった。特に下野国は、村数1452(享保9年)のうち、その半数以上が旗本の知行地になっていたことから、江戸の旗本屋敷(地頭用所)から下野の知行先の村々への指令、通達などの文書がひんばんに送達された。また、これに対する村々からの返書もしばしば送達されたから、飛脚の利用は多い方であった。が、その飛脚屋は、すべて取次店でしかなかった。たとえば、宇都官の丸屋小兵衛は京屋、白子屋仁兵衛は島屋の取次店であり、小山の清水四郎右衛門は京屋と島屋両店の取次店だった。いずれも江戸行き、奥州行きの日程が決められていて、通常、月9回は飛脚が出発していた。
 その飛脚便依頼の時、取次店から発行される飛脚代金の領収書には「御調べ三カ年限り仕り候」と但し書きが付いていた。もし、何か事故があった場合は「三カ年間のうちなら調査いたします」という保証のようなものだ。もっとも、これも文化年代までは五カ年間保証であったのが、天保ごろから三カ年限りと短縮されたのである。
 料金は、宇都宮から江戸麻布まで金6両2朱を送って運賃300文(文化5年)。宇都宮から小石川まで金3両に書状一通を添えて運賃350文(天保6年)という相場だった。村々の名主がわざわざ江戸まで出向いて金子(きんす)を届けることを考えれば、実に安かったから、想像以上に利用されていたのである。
 飛脚制度には、時折、幕府の検査があり、天保年間に改革され、さらに嘉永2年に改められている。「判鑑(はんかん)」は、嘉永2年に改められたときのもので、表に「定飛脚」と墨書され、裏面中央に丸の中に定の字のはいった焼印。その右肩に「嘉永改」の焼印がある。
 脚夫は、この飛脚札を身分証明として常時持参していた。上部の穴のところへ麻ひもを通し、木札と同じ大きさの革袋の中に収め、そのひもを腰に結びつけていた。
 この木札と同じものが、取次店および飛脚荷を扱う問屋などにも置かれていた。取次店や問屋では、汚さぬよう大切に取り扱い、厳重に保管。これを利用するのは、顔見知り以外の新らしい脚夫を確認するときだけで、普通には、ほとんど取り出さないのが建前であった。

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近世初期の土豪 主家没落で続々帰農

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江戸時代初期の検地帳(土地台帳)をみていると、田畑の反別の下に、耕作者である農民(名請人)の名前が書かれているが、これらの名前の中に監物(けんもつ)玄蕃(げんば)備前(びぜん)淡路(あわじ)若狭(わかさ)などという、百姓らしからぬ名前がまじっている。しかも、かれらのうちには5、60石、ときには100石にもおよぶような広大な土地を保有する「大高持」で村役人、しかも検地に際しては、村内の案内人を勤める特権的な百姓がいたことがわかる。他の多くの百姓をへいげいして、村内に無二の実権を握るこれらの百姓は、どのようにして生れてきたのであろうか。
 宇都宮から車で1時間もとばすと、市街地をすっかり抜けて、あたりの田園風景のなかに、ポッカリとそこだけ、近世的村落の景観がよみがえってくるような所に出会うことがある。芳賀郡や那須郡、上都賀郡などの史料調査の過程で、私は何度かそんな気持を味わうことがあった。
 山を背に、なだらかな斜面を日だまりにして家が点在し、前方の平野をゆるやかに流れる川の水を利用して、耕地が広くひらかれている。名主の屋敷はこうした村の中心に、たいてい鬱蒼と茂る森に囲まれるようにしてある。
 史料を探しに訪れた私たちは、こうした名主の屋敷が、時として目をみはるばかりの濠と土塁に囲まれているのに出会う。並みの百姓でないことは、想像にかたくない。土塁はきちんと桝形に築かれ、堀之内、館(たて)などとよばれていることも多い。
 史料調査の過程で、その家の由緒書や系譜があらわれることもある。もとより、これらの内容をそのままうのみにすることは危険であり、簡単に信じることはできないが、他の文書や石碑、位牌などと比較検討して、その正否をある程度まで確かめることは
できる。
 それらの内容は、近世初期、下野の各地に跋扈した土豪の出身であることを伝えたものが多い。
 戦国時代、下野に勢力を持っていた大名(宇都宮、那須、小山、皆川などの各氏) の多くは、織豊から徳川へ天下の覇権が移るなかで、没落、移封のうきめにあった。上級家臣は別として、かれらの下級家臣のうちには、いまだ兵農未分離の状態に置かれてい
たものが多く、主君の没落に際して他へ移り、再奉公することもかなわず、自分の本領に立戻り、帰農、土着する者が多かった。
 芳賀郡小貫村(現同郡茂木町)に土着した豊前守信秀は、その祖父主膳信家以来、宇都宮氏に仕えた土豪であったが、主君の没落とともに帰農、土着した。上篭谷(現宇都宮市) の大塚土佐もまた、同じような由緒をもつ土豪であった。
 東水沼村(現芳賀郡芳賀町)で代々、名主を勤めた岡田家は、芳賀氏に仕えた土豪だったが、宇都宮氏とともに主君芳賀氏が落城するに及び、ついに帰農するに至ったものであろう。
 また、上石川(鹿沼)に土着した石川越前は、かつて結城三河守のもとで、150石の知行をうけていたが、やはり主君の落城を機に、本領に戻って帰農した。この石川家や、さきの岡田家の屋敷地には、かつての上豪のすみかをしのばせる深い濠と土塁がめぐらされている。
 土着、帰農した上豪は、何十人という家来、譜代の者をひきつれている場合が多く、土豪屋敷の門前や周囲には、こうした家来百姓の家がたちならんでいたことであろう。
 下野国内においても、ごく辺境の山間地帯では、このような土豪が江戸時代後半に至るまで絶大な力を有し、各種の特権を与えられ、村内の土地のほとんどをその一軒のみで占め、他の百姓はすべてこの家の家来としてのみその存在が認められるところもある。
 しかし、たいていは年貢収納を増加させるため、百姓数をふやそうとする領主側の政策と対立し、しだいに特権を奪われ、絶対的な地位をいつまでも保ち続けることは難しいのが普通である。かれらは村内における自分の地位を守るためにも、領主側と妥協せざるを得なくなり、やがて特権のかわりに、村役人の地位を保証され、領主に協力するようになっていった。

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芦野氏の下の庄陣屋

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 本県の近世後期における陣屋は、黒羽、喜連川、高徳(塩谷郡藤原町)、吹上(栃木市)、足利、佐野の小藩大名をはじめ、真岡代官所、日光奉行所、物井(芳賀郡二官町)など十数力所を挙げることが出来るが物井の桜町陣屋跡の外は、いずれも建造物は撤去さ
れ往時をしのぶよすがもない。だが、芳賀郡市只町赤羽に、常時、代官が執務していた陣屋構えの屋敷が、江戸時代の面影を残したまま現存しているので、その概要について述べてみよう。
 寄合衆=参勤交代する旗本─芦野氏が芳賀郡赤羽に代官所(陣屋)を設けた年代は、はっきりしないが、史料を総合すると、近世初期、正保―明暦時代(17世紀中ごろ)と推測される。
 「寛政重修諸家譜」には芦野氏について「慶長四年政泰遺跡を継ぐ。同五年、幕府上杉景勝(会津藩主、反徳川軍)征伐のとき、声野は景勝の所領に近き故、仰せを受け、芦野にて其境を守る。この年、下野内にて三百石加増、旧地に併せて千百石を知行す。七年千六百石の加恩を受く。資泰を経て資俊に至り、正保三年十一月十二日遺跡を継承後、新懇を合せて下野那須、芳賀二郡のうちで三千石知行」とある。
 また陣屋の所有者藤平氏所蔵文書には「慶長年中、先祖藤平伊賀、西方より引越、下赤羽に居住す。二代目伊賀、寛永年中、上赤羽に引越、二男八弥取立(中略)その後、明暦二年殿様より御書付を以って俵数七俵下さる…」とある。
 右の古文書も含めて検討すると、藤平氏は慶長年代に下赤羽に住み、寛永年間には上赤羽(現在地)に移住している。一方、芦野氏は正保年代に芳賀郡上赤羽を含めて8カ村を領知。明暦2年には芦野氏老職神田外記から藤平与五右工門へ給7俵を与えている。これらを考え合わせると、正保から明暦の間に代官所が設置されたようだ。
 通常、領主から名主に下される給米は年に2俵か3俵だが、玄米7俵も与えられたことは、藤平氏が代官補佐役として取り立てられたためと考えられる。
 芦野家では、那須郡芦野にある陣屋(上ノ庄)に対し、芳賀郡上赤羽陣屋の支配範囲を下ノ庄と呼び、下ノ庄代官所と称した。そして、代官には、芦野家の重臣が任命され派遣されていた。代官は「御知行所取締りのため住居ヲ仰せつけらる」という辞令を受け、声
野から、はるばる芳賀郡赤羽の下ノ庄陣屋に着任したわけである。代官の年給は玄米30俵、身分は御中小姓で、着任の日から下ノ庄陣屋に居住することになる。
 これに対し、藤平家は、声野領8カ村の名主として士分待遇の特権を与えられ、代官の補佐役として実務一切を担当した。年給7俵のほかに、役料として玄米5俵が支給され、時には郷村日付役も命ぜられ、この役料二俵が加算され合計14俵という給米を受けた。
 藤平氏は、代々縫之丞を名乗り、芳賀郡8カ村の郷村取締、代官補佐役の身分だったが、文化元年(1804)には、正式に代官格に命ぜられた。その後「御中小姓格」に取り立てられ、代官と全く同格の身分となった。
 芦野領下ノ庄陣屋だった藤平氏の居宅の建造年代に関する記録は全く見当たらないの伝承によると、創建以来一回も火災にあったことがない。屋敷も大体、江戸初期そのままの構造を保っている由という。建て坪は現在189.75坪(651.9㎡)。うち居宅が88坪5合。倉庫20坪、石倉44坪。このほか水車、雨屋、門、へいなどが昔の形をとどめている。
 建造物の大半は、ぐるっと幅2mほどの川に囲まれその西には、満々と水をたたえた堀がめぐらされている。
 敷地は約1,805坪。これに続いて、畑地が4反4畝3歩。これは前方および東方にのびており、この敷地の中に招魂社、青麻(あおそ)神社などがまつられている。
 さらに畑から地続きに、東から北方へ山林がぐるりと屋敷を囲んでいる。この面積が2町3反6畝6歩。門を入ると、庭に面した玄関がどっしりと昔ながらのかや屋根を支え、重厚な落ちつきを保っている。
 玄関から右手へ続く廊下も古風な趣向を見せ、さらに奥座敷の書院造りは、今にも次の間からチョンまげ姿の代官が出て来るにふさわしい造り。床の前の窓の両側の羽目板に描かれた絵は、絵の具が薄くはげ落ち、年代の古さを物語っている。控えの間なども、歴史の面影が、ここ、かしこに見られ、貴重な陣屋遺跡であることがわかる。

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益子陣屋 黒羽藩飛地領支配トリデ

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 民芸ブームでにぎわう益子、そのほぼ中心にある内町。この一画に、かつてこの地を統合した黒羽藩の陣屋があった。表の通りでは、きょうもハイキング姿の若者や、カメラ片手の外人観光客が、にぎやかに窯元のある城内の方へ流れていく。
 その中で、この陣屋跡だけが静かな武家屋敷風のただずまいを残している。今の建物は明治になって建替えられた民家ではあるが、一豪壮な門と板の腰をつけた白壁が長くつらなっている有様はいかにも陣屋跡のふん囲気にふさわしい。
 那須郡北部に中世以来の家系を保っていた大田原、黒羽の両藩は、那須郡の領地のほかに、芳賀郡内にそれぞれ4000石(大田原)、5000石(黒羽)の飛地領を持ち、この支配のため、祖母井と益子にそれぞれ地方(じかた)役人の出張陣屋を置いていた。
 益子は慶長7年(1602)、大羽、深沢、生田目、清水などの村とともに、黒羽藩主大関資増(すけます)の私領となり、以後明治に至るまで、その統治下におかれた。
 黒羽藩の益子陣屋は、内町から城内を経て西明寺のある高館山のふもとへと続く盆地の入口あたり、丘陵地帯の先端に位置している。ここは中世の豪族益子氏が、かつてその居城を構えた所と伝えられ、丘陵の起伏を巧みに利用した土塁や空濠(からぼり)が今も残っている。
 陣屋に常駐した役人は、決して多くはなかったであろうが、郡代を筆頭に郷奉行、代官、蔵奉行、山奉行宰領、升取りなどの地方役人が黒羽から派遣され、現地の家格ある者のうちから選んだ下役を指揮して、下之庄(黒羽藩領のうち芳賀郡内の村々)の統治にあたった。
 かれら陣屋役人の一年間の仕事内容をおおまかに紹介すれば、陣屋が藩当局より担わされていた任務を理解するに便利であろう。
 元日に陣屋で、年頭のご祝儀が行われる。陣屋の下役をはじめ、益子町五組(新町、内町、城内、道祖土、石浪) の名主、そのほか生田目、清水など領内6カ村の名主、組頭が年頭のあいさつに集る。7日には、郡代以下数人がはるばる黒羽まで登り、殿様に年頭のあいさつをすませる。
 2月には、毎年かならず「宗門人別改」(現在の戸籍調査)が行われる。黒羽から派遣された役人と陣屋役人1人が立会い、名主に命じて村ごとの調査をさせる。最後に、その宗門の坊さんを陣屋に呼んで「宗門帳」に証明の押印をさせる。
 3月は、領内各村ごとに、困窮人調べが実施される演(つぶ)れ百姓を出さぬようにと、貧窮者には秋までの期限で、種モミを貸付ける。また、用水堰の普請もこの時期にかならずやっておくよう、名主に念をいれさせなければならない。
 農繁期を前に、4月からは下役の郷廻りが村々の巡回を始め、一軒一軒の百姓に、農作業の督励をする。
 田植えは5月に行われる。役人の巡回はいよいよひんばんになる。名主も忙しい。この多忙のなかで、5日には端午のお祝いが陣屋で行われ、名主一同そろってごあいさつする。
 「夏成」(畑年貢の一つ)は6月を収納期として納めさせる。6月から7月は、農閑期で比較的ひまがある。しかし、逆にこのときに博奕などの遊興にふける者がふえるので、郷村廻りの役人は油断できない。8月は「秋成」の上納期である。
 9月には、そろそろ早稲の収穫が始り、本年貢も一部上納される。いよいよ、もっとも多忙な季節となる。
 10月初旬から稲の収穫が本格化する。陣屋から役人が2人ずつ各村の名主の屋敷へ出張し、年貢の取立てが行われる。年貢の収納は、11月下旬までに全部、完了しなければならない。役人も百姓も、もっとも緊張するのがこの時期である。年貢に不満を持つ百姓の騒動も、この時期に起きやすい。
 役人や名主は、心をくだいて無難にこの時期を乗越えようとする。役人にとっては腕のふるいどころである。
 芳賀郡内の領地は、黒羽から遠く離れた飛地であり、古くから治めるのにむずかしいところとされた。陣屋勤めは黒羽藩士にとって、その能力をみられる試金石であり、郡代や郷奉行の職は、昇進のための登竜門でもあった。

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幕府の隠密も勤める虚無僧寺 農村一揆にも〝探り〟の行動

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 宇都宮市曲師町の市立中央小学校舎裏(北側)の上手下を、釜川が流れている。江戸時代には、この釜川と中央小学校の土手との間に「松岩寺」という普化宗の寺があった。川と土手の間の細長い敷地であったから面積も狭かったが、宇都官城廊の外堀の一角である釜川と、城の土塁との間という特殊な場所だったため、一般人はほとんど寺へは近づけなかった。
 入り口には、東側に黒塗りの冠木門、その内側は縦30間、横16間で480坪の境内。門をはいると左右に、ずらりと武家造りの長家が12軒ほど並んでいた。その奥に客殿があり、さらに釜川沿いに湯殿があった。客殿は間口3間、奥行き5間の建坪15坪。その中には本尊釈迦如来と開祖普化禅師の像が安置され、この室で朝晩の勤行や尺八修行、集会が行われた。
 寺には普化僧(虚無僧=こむそう)が常に10数人ほど住んでいたが、夕刻ともなれば、宇都宮藩の侍が相当人数、この寺の湯殿へ通ってくるので、人の出入りは案外と激しかったようだ。
 松岩寺は普化宗尺八梅士派の本寺で、県内に末寺が数力寺あった。祖母井(芳賀町) の普門寺、薬師寺(南河内町) の清心寺、壬生町上円の松安寺、茂木町の梅川寺と鈴沢寺などである。開山は宇都宮一族の宇都宮基成で、12代満綱の明徳3年(1392)春に、宇都宮城外南の地蔵堂口に地を賜わり、草庵を建立したのが最初といわれる。
 その後、天文6年(1537)、宇都宮忠綱の代に押切町の観行院屋敷に移り、さしに慶長4年(1599)、曲師町の釜川岸に屋敷地を拝領した。ここは宇都宮城の大手門前であったことから「虚無僧が大手口を出入りすることは好ましくない」との本多上野介の命令で、池上一異町に移された。
 しかし、城中から藩士が毎夕入浴に出向くのに遠くて不便なため、奥平美作守の慶安2年(1649)、再び曲師町に移され、明治に及んだ。
 普化宗というのは寺領、壇信徒などは一切なく、葬式などの法要も行わなかった。最も盛んになった江戸時代でも全国で130余寺しかなく、他の宗派に比べれば非常に少ない。江戸時代には、幕府と特殊な関係にあり、虚無僧が隠密として、農村の動勢などをさぐる役目を持ち、幕府の保護のもとにあった、といわれている。
 こうした背景があったため、各藩もうかつには、寺の内部に口をさしはさめない特殊のふん囲気があったといわれる。
 坊さんに成りたければ、一般寺院の場合は、だれでも弟子になれた。しかし、普化宗に入門して虚無僧になるには、きびしい掟があった。普化宗に入門するには、原則として100石取り以上の武士で、血統の正しい者、15歳以上で心身健全、これまで罪を犯したことのない者、親の許しがあり、身元引き受け人のいる者など、の制限があった。
 こうした条件に合致しても、修行をなまけたり、規則に違反したりすると、直ちに断られ、宗徒になりたい者は、まず誓約書を入れた。ある期間熱心に修行し、その過程で「これならば見込みがある」と認められたとき、初めて入門が許され「本則」という書き付けが渡された。
 これをもらった者は「御本則」と称して大切に保存し、身分証明として常に身につけていた。本則を与えられた者は、さらに身元と修行状況等を本格的に調べられ、確認されたうえ、初めて独り歩きが許された。
 普化僧の日課は、一般寺院と同様に勤行、読経、座禅などだったが、尺八の修業が中心だった。朝夕の勤行は木魚、拍子木、鐘、太鼓のほか、経文もすべて宋音だった。
 許しを受けて托鉢に出る虚無僧は、偶(げ)箱という縦横25センチほどの木箱を首から前にさげ袈裟を肩にかけ、1尺以内の短い刀を腰に帯びていた。最も日立つのは、イ草で編んだ深網笠(天蓋=がい)を、すっぽりかぶっていた。このスタイルで家の前を尺八を吹きながら、流して歩いた。
 虚無僧の托鉢は「心の鍛練と施しを受けるため」とされていた。しかし、幕府の隠密という役目も大きかった。幕府、藩にとって、最も気掛りだったのは、農村の一揆などによる抵抗である。幕藩体制の基礎を揺るがすものだったためだ。
 このため、五人組制度など、各種の農民監視体制が取られたが、農村の内情を秘かに探る、もう一つの方法が「隠密虚無僧」の採用だった、と考えられる。
 県内でも江戸中期ごろ、一橋領内(現在の宇都宮東部から芳賀町高根沢一帯)で、年貢減免などを要求する農民の「不隠」な動きがあった。虚無僧がこれを早くも探知、幕府に伝え、宇都宮藩が鎮圧に乗り出す、という事件があった。
 托鉢のやり方にも、きびしいオキテが定められていた。同行は2人以下、門付けに際しては、一切口をきかず、たとえ町人や女に話しかけられても黙っていることが原則であった。
 この托鉢修行には区域が決っていて、勝手な地区には行けなかった。決まっている村を場先(ばさき)といい、場先を無視して他所の村へ行くことを場越(ばこし) といい、見つかれば処罰された。
 また、修行に行ってはならぬところを留場(とめば)といった。虚無僧に入り込まれることをきらって村々が松岩寺に留場料という特別の金を払い、「この一年は、この村には足を踏み入れない」という留場証文をもらったのである。
 これは、「本則」のない無頼の徒などがニセ虚無僧になり、金を強要して歩く、といった風潮が強まったため、村々の自衛手段という意味もあった。
 普化宗は明治年「幕府の隠密をしていた」などの理由で、廃宗になり、松岩寺も廃寺となった。だが、辛うじて尺八だけが普化宗を離れて今も残っている。

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厳しい武家社会の役職起請文 署名血判して他言を堅く禁じる

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 身分と格式によって統制された封建時代には、現代人に想像もつかない、いろいろな社会規制があった。そのひとつに、武士が役職を拝命したときに書く起請文(きしょうもん)がある。その一例を紹介しよう。
 これは、宇都官藩主戸田越前守の御近習、十両三人扶持(ふち)河合富次郎が、その上司の戸田七兵衛あてに差出したもの。提出の際は、宇都官城内二の丸御殿奥書院の、床の間に八幡大菩薩などの神殿がまつらた清浄な部屋で、上司と介添人列席の上、次のような条文を読み上げて誓約した。
○感情的対立も殿中ては我慢
 紀請文前書の事
 一、今度私儀、殿様御近習役をおおせつけられ候上は、上を軽んじ御奉公を疎かにすまじく候。随分念を入れ、一心に相勤め申し候。
 以下、候文で続くのだが、現代語に訳してみると―
 一、公儀の御制法、御家の御法度は堅く守り、「殿様のおため」を第一に考え、いいつけられたことは、昼夜の別なく実行いたします。
 一、秘密はもちろん、殿様の身の回りのことがらはすべて、他人は申すまでもなく、親子、兄弟、どんなに懇意の者にも決して他言はいたしません。また、殿様の身近にある御文箱、封書物などを勝手に見るようなことは致しません。
 一、殿様がおっしゃったこと、また殿様の身の回りの出来ごとについては、他人はもちろん、御家中の御家老様方をはじめ、藩内の友達、親子兄弟親類の者にも、ひとことも話すようなことは致しません。
 一、藩内の友達同士で、どんな感情的な対立があっても、御殿の中では我慢し、相手の非も許します。
 一、御側ご用人、諸役人、坊主、物書に至るまで、御家の御制法に背いて不行跡を働く者がありましたら、すみやかに申上げます。また、勤務ぶりが非常に立派で、他の模範になるような人を見た場合は、必ず報告いたします。勤務ぶりについて、少しも依悟(えこ)ひいきは致しません。
 一、贈賂(わいろ)と思われる贈物は絶対に受取りません。また、御近習の役にあるうちは、特別の理由がない限り、友達の遊びに参加いたしません。
 一、同僚の御近習はもちろん、その他の友達との交際で、相手にどんな考えがありましても、殿様の御為にならないことは我慢いたします。もっとも、御法度に背いたり、悪事を相談しているような場合は、じっと聞き耳を立てております。
 右の事項に違反いたしました場合は、上は梵天帝釈、下は四人天王、その他日本国中の大小の神祇、なかでも特に東照大権現、宇都宮大明神の神罰を受けることに相成ります。よってここに、起請文を差上げます。
 安政五年三月廿一日
      御近習勤 河合富次郎(血判)
 戸田七兵衛殿         (以上は意訳)
○熊野牛王符の裏に条項記す
 右の起請文は、熊野牛王符(ごおうふ) の裏面に記され、氏名の下に血判が押されている。神々に誓って誓約の条項に違反しないという神聖な決意を、形式の上にもハッキリと示したものである。
 これは近習の場合だが、日付、徒日付は、大目付あて同心、組小頭は町奉行あて、御代官、手附手代などは郡奉行あてに、それぞれ勤務中の制約事項を列記し、違反しないむねの起請文を提出した。
 このような誓詞は、藩士が上司に提出するばかりでなく、新しく城主となる藩主の場合も、家督相続にあたっては家老達の連名による遵守事項に違反しないようにと、誓約を求められた。
 たとえば、宇都官藩主戸田忠友の場合は、①家風が乱れないように守護すること②政務に精励すること③えこひいきをしないこと④御徳義を欠かさないよう心掛けることなど、9項目の条文が起請文のなかに明記されている。
○大名さえわがままは出来ぬ
 その最後に「私どもが退役した場合は、後々の者へこの旨を申し送ってください」と記し、これに違反した場合は、日本国中の大小の神々の神罰を受けるものである、と結んでいる。これによって、大名だからといって、わがまま勝手には出来ないことのあったことがわかる。 

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大名の家督相続経費 軽く飛ぶ1000万円 現今の通貨に換算

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 忠臣蔵では、浅野内匠頭が吉良上野介へ賄賂を贈らなかったことから、上野介が意地悪をした……ということになっているが、江戸時代における贈賄は、一種の礼儀として公然と行われていたようだ。どこまでが礼儀で、どこからが「わいろ」になるかは、ちょっとむずかしいが、史料による事実を次にご紹介しよう。
 文化3年9月、宇都宮城主戸田忠翰(ただなか)の子鉄之丞は、将軍家へ御目見のため願書を御先手水野小十郎へ差し出すにつき、銀2枚を添えた。さらに老中4家(青山下野守、土井大炊頭、牧野備前守、松平伊豆守) へ礼物として御太刀、御馬代銀3枚ずつ、若年寄7カ所へは銀2枚ずつを進呈した。
 このほか、殿中案内役の坊主衆、係員の御奏者番2人、御錠口立会の目付衆などにもそれぞれ心づけの銀1枚ずつを贈り、献上物として、公方様へ「御太刀壱腰、紗綾五巻、御馬代銀十枚」を、また大納言様(西丸) へは「御太刀壱腰、御馬代銀五枚」を差上げた。
 これにより、戸田鉄之丞は江戸城御白書院縁頬(縁側)において老中4名列座の上、御用番牧野備前守より「従五位下諸太夫」を朝廷へ奏上する文書を渡され、同時に日向守を名ることが認められた。鉄之丞は17歳だったが、さらに5年後の文化8年4月21日、家督相続をした。
 この折りは、公方様へ「御太刀壱腰、黄金三十両、縮緬五巻、御馬(裸背)一匹」を献上。大納言様へは「御太刀壱腰、御馬代(黄金三十両)」を差上げ、ほかに奥女中5人に白銀二枚ずつ、同6人に白銀1枚ずつ、西丸御女中4人に白銀2枚ずつを進上している。これとは別に、宇都宮藩家老からも、御礼として公方様、大納言様に、御太刀馬代銀5枚ずつを差上げており、さらに老中、若年寄などには、前に準じてそれぞれ白銀を贈呈している。
 このように、将軍家への初御目見や家督相続には、ばく大な費用を要したが、以上は幕府関係者への主な音物(いんもつ) でぁり、このほか、幕府の奏請によって朝廷から正式に許可書(位記・口宣・宣旨)をもらうためには、また少なからぬ金銀を要した。
 例を細川興隆にとると、興隆は正保3年12月30日に従五位下に任ぜられ、同時に豊前守に叙せられたが、その折りの取次役である飛鳥井家、菊亭家の公卿用人から幕府高家吉良若狭守家来にあてた領収書によれば、次のような内訳になっている。
   諸大夫御礼物之覚
禁裏え     黄金一枚
 上﨟御局   銀子一枚
 長橋御局   同  断
 大御乳人   同  断
仙洞え     銀子三枚
 四条御局   銀子一枚
 京橋御局   同  断
新院御所え   銀子三枚
 老台御局   銀子一枚
 按察使殿   同  断
女院御所え   銀子三枚
 上﨟御局   銀子一枚
 権大納言衆  同  断
両伝奏
 菊亭殿   銀子六十目
 飛鳥井殿  同   断
 上  卿  同   断
 職  事  同   断
 雑掌四人  銀子八十目
 右大方式  銀子五十目
              己 上
(裏書)如表書、細川豊前守殿諸大夫成り候為御礼物請取申所如件
  亥(正保四年)二月九日
 右の黄金1枚、銀子18枚、銀325匁を金貨に換算すると、約30両になる。当時の1両は、現在の約15、6万円に相当するから、450万円―500万円ぐらいと見られよう。このほか、高家への謝礼、旅費その他を含めると、現代の1000万円ぐらいになるだろう。
 このような金銀の贈与は、戸田、細川両家に限らず全国どこの大名も家督相続、跡式相続、遺領相続などには、すべて相当の附届(つけとどけ)をしていた。評定所の定め書などには、寛永8年から「音物受くること厳禁」とあるのに、賄賂、附届がなければ願いがかなわなかったというのが実体である。

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見野の里に藤原藤房の足跡~古鏡にナゾの銘文

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 鎌倉幕府を倒して建武中興の大業を成しとげたのは後醍酬天皇。その側近にいて、つねに倒幕の企画に参与していた公家(こうけ)側の実力者が藤原藤房だったことは、だれもが知る通りである。元弘3年(1333)には朝廷の倒幕挙兵は失敗し、天皇は京都を落ちのび、笠置に難を避けたが、さらに幕府軍に追われて、また山中をさまよわねばならなかった。天皇のあとに従うもの藤房、季房ただ2人といわれている。「さしていく笠置の山を出しよりり、天(あめ)が下には隠れがもなし」と天皇が嘆くと、藤房が「いかにせん、たのむかげとて立ち寄ればば、なお袖ぬらす松の下露」―早速の返歌で慰めたということは2人の信頼、親密の間柄を示すものといえるだろう。
 やがて政権は天皇にもどった。剛直な藤房は、建武新政の実施にあたり、天皇にしばしば直言したが入れられなかった。そればかりか、不興を買い、ついに朝廷を去り、洛北・岩倉の不二坊に走って剃髪出家し、行方をくらましてしまった。建武元年(1334)10月のことであり、その後の消息については諸説紛々で明らかではない。これから14、5年の間は仏門修行のために、かつての流罪の地、常陸をはじめ下野、東海道、四国、九州と行脚を続けていたともいわれている。
 鹿沼市見野の里には、藤房の遺跡、遺物や、これにまつわる伝説が最近まで村人の口に語られてきた。藤房の伝記ともいわれている江戸時代の書物「日蔭草(ひかげぐさ)」によると、明和4年(1767)正月28日、西見野村(現在、鹿沼市見野)の長光寺境内で長雨のため山崩れを起こした場所から経を入れて持ち運ぶ唐鋼(からかね)の塔、唐銅正観音の像、古鏡、古銭多数が見つかっている。藤房の身につけていたものだ、と一切の出土品は領主松平豊前守へ報告、提出された。さらに老中に届けられ、やがては、大事に保管するようにと長光寺へ下げ渡しになった。
 安永6年(1777)7月、鏡は、長光寺の本山であり、藤房ゆかりの寺である京都・妙心寺へ納められ「什宝(じゅうほう)」とされた。問題は、古鏡の裏に書かれた銘文である。
 そこにある「藤三位(とうさんみ)資通(すけみちち)」とは、藤房の祖父であり、「従一位宣房(のぶふさ)」は父である。「不二行者の授翁(じゅおう)」とは藤房のことのところで「興国四年辛已(しんし)二月吉日」とある中で辛已は、興国2年でなければならない。「興国」は南朝の年号であり、当時、関東地方では、ほとんど北朝年号を使用していたらしく、暦応4年がこの辛已の年に当たる。暦応と興国を混同しているところにかえって鏡作製の年代として真実性があるように考えられる。この年は藤房が行方をくらま
してから約6年後。それから考えると鏡は、藤房が祖父ならびに父の冥福を祈念して仏教求道(ぐどう)に入っていたことが証明されたといってもよいであろう。
 昭和47年9月の京都妙心寺会報によると「藤房卿出家後の足跡はなかなかつかめないが、歳月はいつしか過ぎて観応2年(1351)8月22日、妙心寺開山無相大師が再任されると同時に藤房卿もほど近い京都・池上の杉庵に落ちついて無相大師の下に通参して血のにじむ修禅の道を続けた。御年61歳、延文元年(1356)無相大師の跡を享(う)て妙心寺第二世授翁宗弼(じゅおうそうひつ)という名になったのである」と記されている。康暦2年(1380)3月28日、85歳で他界、微妙大師(みみょうだいし)といわれたのが、かつての藤房であるとしている。
 妙心寺第二世となった藤房は、鋭意、妙心寺の宗教活動、寺堂の経営面にすぐれた才能を発揮し今日の妙心寺の荘大さを達成したというので、「興租微妙大師」ともいわれている。昭和52年は大師の600年大遠忌法会(だいおんきはうえ)が企画されている。見野の隣り玉田には、ほかに藤房が草庵をむすんだという不二庵跡とか、里人には藤房の墓と信じられてきた「公家塚」という伝承が残る遺跡がある。長光寺とともに藤房の足跡ではないか、と当然、問題にされることになるだろう。
 ナゾを秘めた古銭が掘り出されたという長光寺は現在、無住の長光寺から奥へ入った山あいに建てられていた。敷地跡は樹木が生いかぶさっていて訪ねる人もいない。近くに隣り合わせて藤房をまつった喜久沢神社があるが、ひときわ目だつ赤い鳥居がかつての藤房
の伝承を語っているかのように、わびしいたたずまいを示している。

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宇都宮城の抜け穴(間道) 350年以前に造る 工事の主は本多正純

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 昭和47年春ごろ宇都宮市内で道路の陥没事故があり「城からの地下道ではないか?」との話題でにぎわった。このような土地の陥没は、これまで約21力所ほど起っている。そのたびに「城からの抜け穴だろう」とうわさされたが、月日とともにいつしか忘れられ、広い範囲の調査や根本的な究明がなされないまま今日に及んでいる。では、本当に城からの抜け穴があったのだろうか。検討してみよう。
 抜け穴は確かにある。その証拠は、元宇都宮藩士であった大寛町、大久保家の井戸の中間に、横へ隠れることの出来る穴があることを大久保家の人や近隣の人が確認している。また、材木町の佐藤氏の貸事務所工事や中村酒店で倉庫を普請したときにも工事人が穴を
発見。東方へ向って歩いてみたら、人ひとり通れるくらいの地下道がどこまでも続いていた。
 また旧三条町でも、元宇都宮藩士岩崎家の庭の竹やぶで明治年代に穴が発見された。これには上野貞一氏が入って、東へ深く走っていることを確認している。このような事実は松ガ峯など数力所にある。
 では、これらの地下道が城内から通じているものとして、その作製時期はいつごろか―というと元和6年(1620)から翌7年にかけて、当時の城主本多上野介正純が行ったものと断定せざるを得ない。
 なぜならば、それ以前の奥平、蒲生、宇都宮の各氏では大きな工事をする機会もなかったし、その以後では、幕府の監視がきびしく、また赴任の各大名も宇都宮へ永住する情況下におかれていなかったので、とてもこんな危険な工事は、なし得なかったと思われる。
 さて、抜け穴は、どこからどこへ通じていたか、ということを、その目的から考えてみよう。
 宇都宮城の場合、ニノ丸奥御殿か、その南側の庭かか、それにつづく畑地の一角に入口があったと思われる。元藩士平木駒吉談によれば、ニノ丸御殿南畑地のすみの物置小屋の中から地下道へ通じた、という。
 ところで、ここからニノ丸、三ノ丸、外濠の下をくぐって市街地まで地下道を通すのは、350年前の技術では全く至難と思われる。おそらく濠の下を避け、濠と濠の間の通路下を抜け、城外へは大手門か松ケ峯御門下を通ったと思う。
 また、その工事は極秘密裡に完成させねばならぬ性質から、城主と家老長谷川左近に、工事指揮者の河村靭負および普請奉行武井九郎右ヱ門や工事従事者のごく限られた人だけが承知していただけだろう。
 その方法は、入口からモグラのように掘進むよりほかになかったと考えられる。抜け穴をくぐった人の話では、幅は1mくらい、高さは1m50㎝ほどで、人がようやくすれ違うことが出来る程度であったようだ。
 掘進むうち、上を運び出す関係から、10mくらいの間隔で避難所を左右交互に設ける。これは、照明用の灯明を置く場所にもなる。
 そして100mくらい掘り進むと、これも土運びの都合から、3m四方ほどのおどり場を設ける。仮におどり場が5カ所あったとすれば、約500mは掘り進んだことになる。石崎家の竹やぶ下の穴も、おどり場の一つと考えられる。
 この掘り方は、城主たちが後日、地下道を利用する際に大いに役立つ。10mおきに、左右交互にある待避所は、そこへちょっと身を隠して後方を確かめながら進むことが出来るし、100mごとのおどり場は休憩所にもなり、ここで二筋に道が分れていれば、迷路ともなり、追手の目をくらますことが出来るわけである。
 さて、問題は出口である。これは地下道の長さをなわで計算し、これを地上で直線距離を確かめながら徐々に進めたものと思うが、出口の見当がついたところへ寺社堂などを先に建立し、あとで地下道から堂の縁下などに出口を掘り上げたものと考えられ、そのいい
伝えも残っている。
 最後に、本郷町・新石町・小伝馬町・清住町方面で発見された穴について触れておこう。この辺で発見されたものの多くは、2mまたは3m四方ほどの単独の穴ぐらで、行止りとなっている。
 江戸時代の宇都宮城下は、しばしば火災に見舞われれ、町の半分以上が全焼するという大火が10回余もあった。これら災害時の体験から、商家が火急の場合の貴重品処理方法として穴ぐらを考え、競って工事をした。これは、盗賊に襲われ、身の危険を感じたときの
避難場所ともなった。地下室内部に手燭が置かれていたことなどは、隠れ穴であった証拠でもある。 

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宇都宮釣天井・事件 伝説と全く違う本多・上野介正純の史実

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 宇都宮の中心街、上野百貨店新館前の駅前大通リクリーンベルトに「伝説 釣天井の石」と記された標柱と一緒に、ぶかっこうな自然石が置かれている。バスの中からこれを見下していた客が「本当に釣天井などあったのでしょうか…」と隣の客に話しかけている。
「さあ、ああして石があるくらいだから、何か根拠となるものがあったのでしょうね」とあいづちを打つ。宇都宮の住民も、また宇都官を訪れる人も、疑問を持ちながら、この石の話をしている。では、釣天井など本当に作ったのであろうか。その史実を探ってみよう。
 釣天井で三代将軍家光を圧殺しようと計画した、といわれている宇都宮城主は、本多上野介正純である。
 伝説では、寛永13年4月、三代将軍徳川家光が日光廟参拝で宇都宮城宿泊と決ったので、本多上野介は「この期を逃さず将軍のお命を申し受けん」と、居城に釣天井の工事をはじめた。が、その工事人の一人大工の与五郎が恋人のお稲と密会した際、このことを告げたので、お稲は与五郎との再会不能を察して自殺した。
 父藤左ヱ門は、お稲の書置と釣天井の設計図を手に石橋と雀官の間で将軍の行列を待ち、この旨を訴え出た。将軍は驚き、急拠江戸城に引返した。宇都宮城へは板倉内膳正が乗り込み「将軍家には御台様御病気の急使があり、急いで御帰還遊ばされた。よって板倉が代参する」と告げた。
 正純は事の露見を悟り、「今はこれまで……」と釣天井を切断し、御殿に火を放って幕府軍と戦い、自刃した―というのが概要である、
 だが、この伝説に該当する史実はないの本多上野介が宇都宮城主になったのは元和5年(1619年)10月。そして3年後の元和8年10月、山形へ出向いたまま宇都宮城主は罷免される……という事が記録されているだけである。この間、上野介は宇都宮城の拡張工事や城下の道路改修、町割、用水路などの土木工事に専念しつづけた。
が、釣天井のような工事は全くしていない。
 後世、伝説の根拠となったと考えられるのは、小山三万石から宇都宮十五万五千石の城主となった上野介が、わずか3年間で奥州出羽へ追いやられた、ということである.これには何か理由があるはずだ。将軍家に対し謀叛のような動きでもあったか、または、なんらかの策謀があったのではないか、という憶測が講談や芝居のネタとなって、釣天井物語が書かれたものと推測される。
 宇都宮城主本多上野介が左遷された理由は、時の幕府の権力政争の犠牲になった、と見るべきだろう。
 本多上野介は徳川家康の執事で、家康存命中は絶大なる権力があった。だが、元和2年4月、大御所家康逝去のあとは、それまでひっそりとしていた将軍秀忠の側近者がにわかに首を持ち上げ、上野介の権威と実力をねたみ、何事にも目の上のコブとするようになった。
 将軍秀忠も、何かというと「大御所様の御意向には……」と家康を持出す上野介に不満を持っていたので折りあらば上野介を幕閣(老中職)から遠ざけたい、と願っていた。その第一の手段が、小山三万石から宇都宮十五万五千石への加増であった。
 理由は、三万石から十五万五千石へと5倍以上も所領すれば、その領地を支配するために家臣を新規増員したり、領地の見回りや年貢の徴収などに多忙を極める。これらの指揮で、上野介の心は地元宇都宮へ向けられ、しばらくは幕政への関心も薄くなるであろう。
その間に、何か不都合な手落ちを探し出し、「叛逆の企てあり」とうわささせて取りつぶしにする、という手はずだったようだ。
 こうした幕府首脳部の計画とは別に、本多上野介が宇都宮城主となったことから、古河へ移された前宇都宮城主奥平忠昌の祖母亀姫が「さしたる武功もない本多上野介が、三万石から十五万五千石という大禄で宇都宮城主になったが、武門の誉れ高い奥平家が十万石
とは納得されない」と上野介を恨んでいた。そして元和8年4月、秀忠が日光参詣の行列へ「正純に謀叛の企てあり」と訴え出た。
 こうした背景と下地が重なって、本多上野介正純の失脚という決着を招いたので、決して釣天井を作って将軍を圧殺しようとしたことが露見した為では、ないのである。

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