大名の家督相続経費 軽く飛ぶ1000万円 現今の通貨に換算
7月
3日
文化3年9月、宇都宮城主戸田忠翰(ただなか)の子鉄之丞は、将軍家へ御目見のため願書を御先手水野小十郎へ差し出すにつき、銀2枚を添えた。さらに老中4家(青山下野守、土井大炊頭、牧野備前守、松平伊豆守) へ礼物として御太刀、御馬代銀3枚ずつ、若年寄7カ所へは銀2枚ずつを進呈した。
このほか、殿中案内役の坊主衆、係員の御奏者番2人、御錠口立会の目付衆などにもそれぞれ心づけの銀1枚ずつを贈り、献上物として、公方様へ「御太刀壱腰、紗綾五巻、御馬代銀十枚」を、また大納言様(西丸) へは「御太刀壱腰、御馬代銀五枚」を差上げた。
これにより、戸田鉄之丞は江戸城御白書院縁頬(縁側)において老中4名列座の上、御用番牧野備前守より「従五位下諸太夫」を朝廷へ奏上する文書を渡され、同時に日向守を名ることが認められた。鉄之丞は17歳だったが、さらに5年後の文化8年4月21日、家督相続をした。
この折りは、公方様へ「御太刀壱腰、黄金三十両、縮緬五巻、御馬(裸背)一匹」を献上。大納言様へは「御太刀壱腰、御馬代(黄金三十両)」を差上げ、ほかに奥女中5人に白銀二枚ずつ、同6人に白銀1枚ずつ、西丸御女中4人に白銀2枚ずつを進上している。これとは別に、宇都宮藩家老からも、御礼として公方様、大納言様に、御太刀馬代銀5枚ずつを差上げており、さらに老中、若年寄などには、前に準じてそれぞれ白銀を贈呈している。
このように、将軍家への初御目見や家督相続には、ばく大な費用を要したが、以上は幕府関係者への主な音物(いんもつ) でぁり、このほか、幕府の奏請によって朝廷から正式に許可書(位記・口宣・宣旨)をもらうためには、また少なからぬ金銀を要した。
例を細川興隆にとると、興隆は正保3年12月30日に従五位下に任ぜられ、同時に豊前守に叙せられたが、その折りの取次役である飛鳥井家、菊亭家の公卿用人から幕府高家吉良若狭守家来にあてた領収書によれば、次のような内訳になっている。
諸大夫御礼物之覚
禁裏え 黄金一枚
上﨟御局 銀子一枚
長橋御局 同 断
大御乳人 同 断
仙洞え 銀子三枚
四条御局 銀子一枚
京橋御局 同 断
新院御所え 銀子三枚
老台御局 銀子一枚
按察使殿 同 断
女院御所え 銀子三枚
上﨟御局 銀子一枚
権大納言衆 同 断
両伝奏
菊亭殿 銀子六十目
飛鳥井殿 同 断
上 卿 同 断
職 事 同 断
雑掌四人 銀子八十目
右大方式 銀子五十目
己 上
(裏書)如表書、細川豊前守殿諸大夫成り候為御礼物請取申所如件
亥(正保四年)二月九日
右の黄金1枚、銀子18枚、銀325匁を金貨に換算すると、約30両になる。当時の1両は、現在の約15、6万円に相当するから、450万円―500万円ぐらいと見られよう。このほか、高家への謝礼、旅費その他を含めると、現代の1000万円ぐらいになるだろう。
このような金銀の贈与は、戸田、細川両家に限らず全国どこの大名も家督相続、跡式相続、遺領相続などには、すべて相当の附届(つけとどけ)をしていた。評定所の定め書などには、寛永8年から「音物受くること厳禁」とあるのに、賄賂、附届がなければ願いがかなわなかったというのが実体である。