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幕府の隠密も勤める虚無僧寺 農村一揆にも〝探り〟の行動

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 宇都宮市曲師町の市立中央小学校舎裏(北側)の上手下を、釜川が流れている。江戸時代には、この釜川と中央小学校の土手との間に「松岩寺」という普化宗の寺があった。川と土手の間の細長い敷地であったから面積も狭かったが、宇都官城廊の外堀の一角である釜川と、城の土塁との間という特殊な場所だったため、一般人はほとんど寺へは近づけなかった。
 入り口には、東側に黒塗りの冠木門、その内側は縦30間、横16間で480坪の境内。門をはいると左右に、ずらりと武家造りの長家が12軒ほど並んでいた。その奥に客殿があり、さらに釜川沿いに湯殿があった。客殿は間口3間、奥行き5間の建坪15坪。その中には本尊釈迦如来と開祖普化禅師の像が安置され、この室で朝晩の勤行や尺八修行、集会が行われた。
 寺には普化僧(虚無僧=こむそう)が常に10数人ほど住んでいたが、夕刻ともなれば、宇都宮藩の侍が相当人数、この寺の湯殿へ通ってくるので、人の出入りは案外と激しかったようだ。
 松岩寺は普化宗尺八梅士派の本寺で、県内に末寺が数力寺あった。祖母井(芳賀町) の普門寺、薬師寺(南河内町) の清心寺、壬生町上円の松安寺、茂木町の梅川寺と鈴沢寺などである。開山は宇都宮一族の宇都宮基成で、12代満綱の明徳3年(1392)春に、宇都宮城外南の地蔵堂口に地を賜わり、草庵を建立したのが最初といわれる。
 その後、天文6年(1537)、宇都宮忠綱の代に押切町の観行院屋敷に移り、さしに慶長4年(1599)、曲師町の釜川岸に屋敷地を拝領した。ここは宇都宮城の大手門前であったことから「虚無僧が大手口を出入りすることは好ましくない」との本多上野介の命令で、池上一異町に移された。
 しかし、城中から藩士が毎夕入浴に出向くのに遠くて不便なため、奥平美作守の慶安2年(1649)、再び曲師町に移され、明治に及んだ。
 普化宗というのは寺領、壇信徒などは一切なく、葬式などの法要も行わなかった。最も盛んになった江戸時代でも全国で130余寺しかなく、他の宗派に比べれば非常に少ない。江戸時代には、幕府と特殊な関係にあり、虚無僧が隠密として、農村の動勢などをさぐる役目を持ち、幕府の保護のもとにあった、といわれている。
 こうした背景があったため、各藩もうかつには、寺の内部に口をさしはさめない特殊のふん囲気があったといわれる。
 坊さんに成りたければ、一般寺院の場合は、だれでも弟子になれた。しかし、普化宗に入門して虚無僧になるには、きびしい掟があった。普化宗に入門するには、原則として100石取り以上の武士で、血統の正しい者、15歳以上で心身健全、これまで罪を犯したことのない者、親の許しがあり、身元引き受け人のいる者など、の制限があった。
 こうした条件に合致しても、修行をなまけたり、規則に違反したりすると、直ちに断られ、宗徒になりたい者は、まず誓約書を入れた。ある期間熱心に修行し、その過程で「これならば見込みがある」と認められたとき、初めて入門が許され「本則」という書き付けが渡された。
 これをもらった者は「御本則」と称して大切に保存し、身分証明として常に身につけていた。本則を与えられた者は、さらに身元と修行状況等を本格的に調べられ、確認されたうえ、初めて独り歩きが許された。
 普化僧の日課は、一般寺院と同様に勤行、読経、座禅などだったが、尺八の修業が中心だった。朝夕の勤行は木魚、拍子木、鐘、太鼓のほか、経文もすべて宋音だった。
 許しを受けて托鉢に出る虚無僧は、偶(げ)箱という縦横25センチほどの木箱を首から前にさげ袈裟を肩にかけ、1尺以内の短い刀を腰に帯びていた。最も日立つのは、イ草で編んだ深網笠(天蓋=がい)を、すっぽりかぶっていた。このスタイルで家の前を尺八を吹きながら、流して歩いた。
 虚無僧の托鉢は「心の鍛練と施しを受けるため」とされていた。しかし、幕府の隠密という役目も大きかった。幕府、藩にとって、最も気掛りだったのは、農村の一揆などによる抵抗である。幕藩体制の基礎を揺るがすものだったためだ。
 このため、五人組制度など、各種の農民監視体制が取られたが、農村の内情を秘かに探る、もう一つの方法が「隠密虚無僧」の採用だった、と考えられる。
 県内でも江戸中期ごろ、一橋領内(現在の宇都宮東部から芳賀町高根沢一帯)で、年貢減免などを要求する農民の「不隠」な動きがあった。虚無僧がこれを早くも探知、幕府に伝え、宇都宮藩が鎮圧に乗り出す、という事件があった。
 托鉢のやり方にも、きびしいオキテが定められていた。同行は2人以下、門付けに際しては、一切口をきかず、たとえ町人や女に話しかけられても黙っていることが原則であった。
 この托鉢修行には区域が決っていて、勝手な地区には行けなかった。決まっている村を場先(ばさき)といい、場先を無視して他所の村へ行くことを場越(ばこし) といい、見つかれば処罰された。
 また、修行に行ってはならぬところを留場(とめば)といった。虚無僧に入り込まれることをきらって村々が松岩寺に留場料という特別の金を払い、「この一年は、この村には足を踏み入れない」という留場証文をもらったのである。
 これは、「本則」のない無頼の徒などがニセ虚無僧になり、金を強要して歩く、といった風潮が強まったため、村々の自衛手段という意味もあった。
 普化宗は明治年「幕府の隠密をしていた」などの理由で、廃宗になり、松岩寺も廃寺となった。だが、辛うじて尺八だけが普化宗を離れて今も残っている。

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