黒羽高校社会部が発掘した不動院裏遺跡と浅香内8H遺跡を通して、袋状土壙のあり方とその意味を探ってみた。個々の遺跡を例に、もう少しケース・スタディを続けるつもりであったが、袋状土績の発生・盛行・消滅について、私なりの見解を述べておきたいと思う。もとより、ほぼ日本全域に分布する土壙だから、栃木県だけで埓があく問題ではないが、当該土壙喧伝の地であり、発見例も多い方なので、見通し位はたてておかなければならない。
袋状土壙が縄文時代の前期に発生し、中期に盛行して、後期に消滅してしまうことは、既に紹介した。このうち中期のあり方に関しては、前2回に記したようにかなり判ってきた。しかし、前期と後期の事情につては依然不明瞭である。目下時期比定のできる前期の確実な例は、矢板市後中峙遺跡の諸磯α期の住居址に付属した土壙である。前期には、共同体的なあり方はまだ存在しないようで、住居、恐らく家族に付随するようにみえる。
袋状土壙が貯蔵績であることはほぼ異論がないが、その貯蔵壙が家族によって構築されたのはどのような意味を持つのであろうか。このことは、前期という時代の諸事象の変化の一環として、また食料貯蔵方法の変化の一環として、把える必要がある。食料の貯蔵方法には殊更容器を必要としないものもあったであろうが、貯蔵土器といわれる繊維土器は早期にあり、袋状土壙と断面形の逆な上大下小の貯蔵土壙は前期初頭にはあった。そして、袋状土壙が出現してもこれらは消滅せずに並存している。このことは、貯蔵方法の機能分化として袋状土壙が生まれたことを示唆する。恐らく、増大してきた植物質食料のためであり、上小下大という特異な形態は容量が大きく田部密封がしやすいという要請から生じたものであろう。
こうした土器・土壙という貯蔵方法の発展は、後氷期の温暖化による植生変化によってひきおこされたと思われる。植物質食料の増加はまず家族的な採集と貯蔵を増大させ、家族の自立化を促したであろう。その自立化を示すのが屋内炉の敷設であり、家族へ対応する袋状土壙のあり方に違いない。しかし、家族の自立化はそのままにすれば共同体の崩壊を招くから、無制限の肥大はあり得ない。自立化した家族を再び組織化した共同体が広場集落となって現われたと思われる。
中期になると、共同体的なあり方を示す袋状土壙が顕著だが、他県の例では家族に対応するあり方も知られている。戸と共同体という共同体の二重構造に対応した二重のあり方を示すのが中期的なあり方といえそうである。共同体的あり方を示すものは、集落内に特定の占拠領域をもって構築される場合(多分不動院裏遺跡はこの例)と、浅香内8H遺跡のように集落とは別地域に設けられている場合とがある。いずれにしても袋状土壙に貯蔵される食料が共同体として獲得され、共同体管理のもとに貯蔵され、配分されたと思われる、もちろん、その主たる食料は堅果類であったろう。そして、これ程重要になった植物質食料は単に採集されたのみならず、管理、あるいは原始的農耕の存在を示唆するのである。少なくとも、縄文時代に最も豪華に開花した中期文化の一つの大きな経済的基盤であったことは間違いない。
後期になると、またそのあり方がよく判らない。堀之内1期までの存在は、藤岡町後藤遺跡や西那須野町槻沢・井口両遺跡などで確実だが、その後は目下発見例がない。日本的にもほぼ同様の状況で、この辺で一端消滅しまうとみる他はない。なぜ消滅するのかは、まだ判らない。しかし、前期に発生し、中期に盛行した因として、植物質食料の積極的利用を推定したので、その消滅は論理的には植物質食料の減退と推察することが可能である。それを惹起したのは、やはり気候変化であったろうと思われる。そして後期は漁撈文化へ傾斜して行く。後藤遺跡では堀之内1期という短い期間に二重もの住居の重複があったという。口径・底径比の小さい退化形の袋状土壙は植物質食料の減少を、住居の三転は忍び来る気候悪化の不安を象徴していないだろうか。
袋状土壙は弥生時代以降にもあるが、縄文時代のものは一応前期から後期までが独自の盛衰を辿り、後世のものと一系的に繋ることはなさそうである。その盛衰の詳細は今後の課題に属するが、袋状土壙はともすれば平盤にみられがちな縄文文化の流れに起伏を与ええ、縄文文化の拠ってたつ基盤の復元に一つの視座を与えることになろう。願わくば、考古学に自然史・生態学等が結集して、総合的、構造的アプローチがなされることを。末筆ながら、前回、前前回に続き、資料を使わせていただいた黒羽高校社会部に厚くお礼を申しあげたい。
黒羽町・不動院裏遺跡の袋状土壙の研究から縄文時代の中期から後期にかけて、食糧の獲得、配分、貯蔵は共同で行われたらしいと考えた。そこで今回は、珍しいタイプの黒羽町・浅香内8H遺跡の袋状土壙から、当時の生活の新しい一側面を考えてみたい。
この遺跡は、那須黒羽カントリークラプの敷地内にあり、従来その存在が知られていなかった。昨秋、文財化パトロール員の黒羽高教諭小森浩氏が調査して、遺跡が判明した。8Hとはゴルフ場の8番ホールの意味である。
建設会社の厚意で黒羽町教委が主体となり、県文化課の協力で黒羽高社会部(当時部長 増子美行女史)が緊急発掘した。全山紅葉の美しい11月初旬だった。いま、資料の整理と報告書作りを急いでいる。
遺跡から発見されたのは竪穴住居跡1基、その東側の狭い地域にかたまって10個の袋状土壙、3個のふつうの穴。住居跡と土壙は意識的に配置されたと思われる程のあり方である。土壙から出土した土器は縄文中期のものだった。
不動院裏遺跡の場合、土壙群は集落の近くにあり、集落の食糧貯蔵に使われた、と考えられた。が、「8H遺跡」の場合、近くには1基の住居跡しかない。10個の土壙は、この1軒のものなのか。この1軒は共同体から離れたアウトサイダーだったのだろうか。あたかもサル社会の離れザルのような…。
実はそうではない。竪穴住居は直径4m程の円形で、この時期としては中規模のものだ。しかし、住居内に肝心の炉がない。住居の南に2個所の焼土があり、炉の代わりに使われたらしいが、人が常住した形跡はない。
しかも、土壙からは4個、あるいは8個の完形土器が発見されたものがあるが、住居内からは1個の完形土器も出土しなかった。日常の生活用具が全く見当たらないのである。こうした住居は、一時的なすまいと考えるほかはない。
この住居はおそらく土壙の管理、つまり貯蔵食糧の管理棟だったのだろう。8H遺跡は食糧の貯蔵地だったと思われる。集落の本拠がどこにあったのかはわからないが、 一つの候補地は、近くの鉢木遺跡である。
このように、8H遺跡の袋状土壙は、共同体がその集落の外に食糧基地を持っていたことを示している。このことは、一つの共同体が必ずしも一つの遺跡から成りたっていたとは限らず、いくつかの種類の遺跡から構成されていた可能性を示すとともに、具体的な食糧獲得地域をも示しているという二重の意味で重要である。
では、この食糧基地で何を獲得して、袋状土壙へ貯蔵したのだろうか。残念ながら、この遺跡でも、それを示す直接資料はない。遺跡からみつかった石器から推察すると、やはり、植物質の食糧らしい。
石皿や敲石といった石器は調理用具である。従ってこの場所は、単に食糧貯蔵だけでなく、調理までおこなわれた場だったようだ。
その植物性食糧が、自然のものをそのまま得たのか人間が管理・栽培したものかは、この遺跡でもわからなかった。こうした現状では、この住居が作物の「出作り小屋」の意味もあった、とまで考えるのは早計だろうか。
8H遺跡の規模を数倍したのが9H遺跡である。いくつか面白い事実をつかむことができたが、そのことはまた次回紹介しよう。それにしても土壙の問題は、用途が決定されれば、こと足れりとしたり、袋状土壙が縄文中期に盛んになるのは、中期の繁栄からみて当然だ、とするような議論がある。
こうした姿勢と作業から、いったいどれだけの歴史が復元できるのか、疑間このうえない。おそらく実証ということを、事物から言えることを、絶えずその安全圏内で言うことにすりかえてしまったからに違いない。その打開策は、異なった分野間の共同作業以外にはあるまいと思う。
袋状土壙というのは、口より底の方が広い穴で、典型的なものは、化学実験に使うフラスコのような形をしている。縄文時代の前期に現われ、中期に盛行し、後期に消滅してしまう。
食糧の貯蔵に使われた、とみられているが、なぜ消滅したのか、何を蓄え、その食糧をどうやって獲得し、どう配分したのか、というようなことは、ほとんどわかっていない。
東北日本側に多く分布しているが、ほぼ日本全域にわたっている。栃木県は発見例の多い方で、いままでに20余遺跡から約400個が確認された。
私は黒羽町の3つの遺跡で100個近い土壙を調べる機会に恵まれた。今回は整理を終え、過日報告書を出版した不動院裏遺跡について、袋状土壙が築かれた社会的な背景を探ってみたいと思う。
不動院裏遺跡は、黒羽町の中心部の北約4.5キロ、河岸段丘の上にある。遺物は約3ヘクタールの段丘のほぼ全面に及んでいる。黒羽高社会部(当時部長角田文雄氏)は昨年夏、不動院の雲井定海住職や地元の人たちの援助で、小規模の発掘調査を試みた。
土壙はゆるい斜面から17個発見された。狭い範囲に集中しており、住居跡などとは重複していない。この遺跡は縄文時代中期から後期にかけてのもの。つまり、いくつかの時期にわたって、同じ場所を選んで土壙が作られたことになる。
数年前の開田工事で、土壙のある斜面の西側の平地から、石囲炉などが発見された。おそらく、その辺に集落があったのだろう。集落から離れた一定の土地にいくつもの時期にわたって「食糧貯蔵庫」が築かれたというのはどういうことだろうか。
このようなあり方は個人個人が勝手に作ったのではなく、共同体の意思だった、とみることができる。食糧の貯蔵は共同体管理だったということである。となると、食糧は共同で獲得し共同体のメンバーに配分されたのであろう。おそらく当時の食制全般に共同体の規制が働いていたと考えられる。
では蓄えられた食糧は、何だったのだろうか。遺跡からは、食糧の種類を直接証明する資料は得られなかった。もっとも貯蔵食糧が残っていないのは、この遺跡に限らない。
食べ尽くしてしまうことも考えられるし、食べ残しがあっても、関東ローム層だと、だいたい消滅してしまう。だが、間接的な追及は可能である。
この遺跡からは、多くの打製石斧と石ざら、敲石が出土した。打製石斧は生産用具であり、石ざらと敲石は調理用具である。こうした道具類から、食糧は植物質のものだったことがうかがえる。おそらく、堅果、根茎類といった食糧だったろう。
ところで、こうした堅果や根茎類は、シブや毒があって、そのままではなかなか食べられない。水にさらすか、煮沸しなければならない。根茎からでんぶんをとる場合もそうである。いずれにしても、近くに水が豊富にあった方がいい。
遺跡が河川やわき水の近くに立地しているというのは、単に飲料水を確保するためだけではなく、こうした水さらしと関係があったのかもしれない。
うがった見方をすれば、この遺跡の袋状土壙が、集落の東側にあるのは、土壙群東側の段丘崖に湧水があり、そのすぐ東に松葉川が流れているためとも考えられる。
縄文中期というのは、縄文時代の中で最も豪華に開花した時期である。その経済的基盤の一つは、袋状土壙に貯蔵された食糧だった、と思われる。
その貯蔵食糧は、単に山野に自生したものをとってきただけではあるまい、と私は考えている。しかし、不動院裏遺跡は、こうしたことについては何も語ってくれない。
袋状土壙については、日を追って資料がふえて行くが、その割には当時の意味はわかっていない。この調査で得た興味深い資料をもとに、もっと広く語りあう機会を得たいと思う。共同研究者のご来援を乞う次第である。
昭和40年3月、私たちは宇都宮市にある有名な大谷寺の観音洞穴を発堀していた。貝塚と同じように、ここでは、土器や石器にまじって、シカ、イノシシ、ムササビ、サルの骨や貝類がたくさん出土した。
動物は当時の人たちの食料である。普通の遺跡では手にはいらない資料。発堀は初めから色めき立ったものだ。
3月といっても、余寒はまだ厳しい。足の裏から、洞穴の湿った冷気が、ジーンとはい上がってくる。一人がシカの門歯を取上げた。「おい、これは人間の歯かい」「シカだよ。人間の歯にそっくりだが、よく見ると違う」。別の一人が口をはさむ。「人間の歯数のって何枚だい。64枚と書いた本があったぞ」
「バカ、それじゃ往復だ。お前の歯は2列か。そのうち人骨が出たら勘定してみろ」
てんやわんやのうちに、最初の人骨が飛出した。が少々おかしい。
人骨の発堀は手間がかかるし、結構むずかしい。まず、人骨ののびる方向を見定めなければならないし、もろくなった骨をあんまりていねいに堀りすぎると、計測に必要な部分を崩してしまう。
出てきた骨は幸い頭蓋である。だが、方向を見定めて堀り広げても、四肢骨が出てこない。ひからびたカンピョウのような頭骨が3つ並び、回りに手足の指の骨や、折れた骨が散らばっているだけである。
頭蓋を持上げてみると、顔面頭蓋も下顎骨もない。顔がないから、歯の勘定などできるわけがない。骨が集っている様子は、人骨のはきだめさながらだ。
土層は縄文式前期(約6000年前)。おそらく改葬のために骨を集めたのだろう、ということで一応おひらきにした。
それにしても変だ。どうして顔面やあごの骨が無いのだろう。手足の骨が足らなすぎる。ほかの骨が腐っても、一番あとまで残るはずの歯もない。
もしかしたら―と疑いもあったが、これは人類学の検査にまかせるのが筋である。写真と図面に収めて人骨はビニール袋にいれられた。
3日ばかりして、この下の土層から、屈葬になった若い男性の完全人骨が出た。ニュースバリューがある。ワッと騒ぎが大きくなった。
このあと、日本列島で一番古いといわれる土器が出た。古い石器も見つかった。相次ぐ新発見の興奮と、新聞社の報道合戦の谷間で、ビニール袋の人骨は、ひっそりと忘れられていた。
それから半年―私たちは新潟大学の解剖学教室にいた。出土した人骨を、小片教授に調べていただくためである。
話題は縄文早期の屈葬人骨が中心である。早期人骨の発見例はまれで、人類学者が興奮するのも、無理はない。
このあと、つけたりで、ばらばら人骨の件をお話しておいた。食人の可能性については「よく調べてみましょう」という返事たった。「ネズミがかじったあとかもしれないな」という教室員もいた。
それからまた半年―― ヨーロッパから帰ってきたばかりの小片さんから、役所に電話がかかってきた。かなりうわずった声である。
「やっばり食人でしたよ。はっきりした痕跡がある。すぐレポートを送ります」。
間もなく送られてきた報文に、拡大写真がついている。後頭骨の大写しで、鋭利な刃でつけた切傷が、横に数条走っている。首の筋の付着部分を切断した跡だ。人を解体した証拠である。
食料にした動物の骨には、関節の周囲や筋の付着部分、肩脚骨の突起の下などに、この切傷のあるのが普通だ。
同じものを、人骨にみた。あんまり気持のよい写真ではなかった。食べられた人は、若い成人の女性3人、乳幼児が2人、とレポートに書いてあった。
先史時代の食人は、世界共通の歴史事実である。東アジアでは、ワイデンライヒの報じた北京人類、アンダーソンの書いた沙鍋屯洞穴人、近世の日本では、天明大飢饉(ききん)の食人を、菅江真澄が記録している。アンデス山中の飛行機事故による食人が、ついこの間報ぜられた。
極限にたつと、人間は、昔から進歩していない一面を、暴露してしまうものなのだろうか。
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