袋状土壙というのは、口より底の方が広い穴で、典型的なものは、化学実験に使うフラスコのような形をしている。縄文時代の前期に現われ、中期に盛行し、後期に消滅してしまう。
食糧の貯蔵に使われた、とみられているが、なぜ消滅したのか、何を蓄え、その食糧をどうやって獲得し、どう配分したのか、というようなことは、ほとんどわかっていない。
東北日本側に多く分布しているが、ほぼ日本全域にわたっている。栃木県は発見例の多い方で、いままでに20余遺跡から約400個が確認された。
私は黒羽町の3つの遺跡で100個近い土壙を調べる機会に恵まれた。今回は整理を終え、過日報告書を出版した不動院裏遺跡について、袋状土壙が築かれた社会的な背景を探ってみたいと思う。
不動院裏遺跡は、黒羽町の中心部の北約4.5キロ、河岸段丘の上にある。遺物は約3ヘクタールの段丘のほぼ全面に及んでいる。黒羽高社会部(当時部長角田文雄氏)は昨年夏、不動院の雲井定海住職や地元の人たちの援助で、小規模の発掘調査を試みた。
土壙はゆるい斜面から17個発見された。狭い範囲に集中しており、住居跡などとは重複していない。この遺跡は縄文時代中期から後期にかけてのもの。つまり、いくつかの時期にわたって、同じ場所を選んで土壙が作られたことになる。
数年前の開田工事で、土壙のある斜面の西側の平地から、石囲炉などが発見された。おそらく、その辺に集落があったのだろう。集落から離れた一定の土地にいくつもの時期にわたって「食糧貯蔵庫」が築かれたというのはどういうことだろうか。
このようなあり方は個人個人が勝手に作ったのではなく、共同体の意思だった、とみることができる。食糧の貯蔵は共同体管理だったということである。となると、食糧は共同で獲得し共同体のメンバーに配分されたのであろう。おそらく当時の食制全般に共同体の規制が働いていたと考えられる。
では蓄えられた食糧は、何だったのだろうか。遺跡からは、食糧の種類を直接証明する資料は得られなかった。もっとも貯蔵食糧が残っていないのは、この遺跡に限らない。
食べ尽くしてしまうことも考えられるし、食べ残しがあっても、関東ローム層だと、だいたい消滅してしまう。だが、間接的な追及は可能である。
この遺跡からは、多くの打製石斧と石ざら、敲石が出土した。打製石斧は生産用具であり、石ざらと敲石は調理用具である。こうした道具類から、食糧は植物質のものだったことがうかがえる。おそらく、堅果、根茎類といった食糧だったろう。
ところで、こうした堅果や根茎類は、シブや毒があって、そのままではなかなか食べられない。水にさらすか、煮沸しなければならない。根茎からでんぶんをとる場合もそうである。いずれにしても、近くに水が豊富にあった方がいい。
遺跡が河川やわき水の近くに立地しているというのは、単に飲料水を確保するためだけではなく、こうした水さらしと関係があったのかもしれない。
うがった見方をすれば、この遺跡の袋状土壙が、集落の東側にあるのは、土壙群東側の段丘崖に湧水があり、そのすぐ東に松葉川が流れているためとも考えられる。
縄文中期というのは、縄文時代の中で最も豪華に開花した時期である。その経済的基盤の一つは、袋状土壙に貯蔵された食糧だった、と思われる。
その貯蔵食糧は、単に山野に自生したものをとってきただけではあるまい、と私は考えている。しかし、不動院裏遺跡は、こうしたことについては何も語ってくれない。
袋状土壙については、日を追って資料がふえて行くが、その割には当時の意味はわかっていない。この調査で得た興味深い資料をもとに、もっと広く語りあう機会を得たいと思う。共同研究者のご来援を乞う次第である。
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