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- 宇都宮釣天井・事件 伝説と全く違う本多・上野介正純の史実
宇都宮の中心街、上野百貨店新館前の駅前大通リクリーンベルトに「伝説 釣天井の石」と記された標柱と一緒に、ぶかっこうな自然石が置かれている。バスの中からこれを見下していた客が「本当に釣天井などあったのでしょうか…」と隣の客に話しかけている。
「さあ、ああして石があるくらいだから、何か根拠となるものがあったのでしょうね」とあいづちを打つ。宇都宮の住民も、また宇都官を訪れる人も、疑問を持ちながら、この石の話をしている。では、釣天井など本当に作ったのであろうか。その史実を探ってみよう。
釣天井で三代将軍家光を圧殺しようと計画した、といわれている宇都宮城主は、本多上野介正純である。
伝説では、寛永13年4月、三代将軍徳川家光が日光廟参拝で宇都宮城宿泊と決ったので、本多上野介は「この期を逃さず将軍のお命を申し受けん」と、居城に釣天井の工事をはじめた。が、その工事人の一人大工の与五郎が恋人のお稲と密会した際、このことを告げたので、お稲は与五郎との再会不能を察して自殺した。
父藤左ヱ門は、お稲の書置と釣天井の設計図を手に石橋と雀官の間で将軍の行列を待ち、この旨を訴え出た。将軍は驚き、急拠江戸城に引返した。宇都宮城へは板倉内膳正が乗り込み「将軍家には御台様御病気の急使があり、急いで御帰還遊ばされた。よって板倉が代参する」と告げた。
正純は事の露見を悟り、「今はこれまで……」と釣天井を切断し、御殿に火を放って幕府軍と戦い、自刃した―というのが概要である、
だが、この伝説に該当する史実はないの本多上野介が宇都宮城主になったのは元和5年(1619年)10月。そして3年後の元和8年10月、山形へ出向いたまま宇都宮城主は罷免される……という事が記録されているだけである。この間、上野介は宇都宮城の拡張工事や城下の道路改修、町割、用水路などの土木工事に専念しつづけた。
が、釣天井のような工事は全くしていない。
後世、伝説の根拠となったと考えられるのは、小山三万石から宇都宮十五万五千石の城主となった上野介が、わずか3年間で奥州出羽へ追いやられた、ということである.これには何か理由があるはずだ。将軍家に対し謀叛のような動きでもあったか、または、なんらかの策謀があったのではないか、という憶測が講談や芝居のネタとなって、釣天井物語が書かれたものと推測される。
宇都宮城主本多上野介が左遷された理由は、時の幕府の権力政争の犠牲になった、と見るべきだろう。
本多上野介は徳川家康の執事で、家康存命中は絶大なる権力があった。だが、元和2年4月、大御所家康逝去のあとは、それまでひっそりとしていた将軍秀忠の側近者がにわかに首を持ち上げ、上野介の権威と実力をねたみ、何事にも目の上のコブとするようになった。
将軍秀忠も、何かというと「大御所様の御意向には……」と家康を持出す上野介に不満を持っていたので折りあらば上野介を幕閣(老中職)から遠ざけたい、と願っていた。その第一の手段が、小山三万石から宇都宮十五万五千石への加増であった。
理由は、三万石から十五万五千石へと5倍以上も所領すれば、その領地を支配するために家臣を新規増員したり、領地の見回りや年貢の徴収などに多忙を極める。これらの指揮で、上野介の心は地元宇都宮へ向けられ、しばらくは幕政への関心も薄くなるであろう。
その間に、何か不都合な手落ちを探し出し、「叛逆の企てあり」とうわささせて取りつぶしにする、という手はずだったようだ。
こうした幕府首脳部の計画とは別に、本多上野介が宇都宮城主となったことから、古河へ移された前宇都宮城主奥平忠昌の祖母亀姫が「さしたる武功もない本多上野介が、三万石から十五万五千石という大禄で宇都宮城主になったが、武門の誉れ高い奥平家が十万石
とは納得されない」と上野介を恨んでいた。そして元和8年4月、秀忠が日光参詣の行列へ「正純に謀叛の企てあり」と訴え出た。
こうした背景と下地が重なって、本多上野介正純の失脚という決着を招いたので、決して釣天井を作って将軍を圧殺しようとしたことが露見した為では、ないのである。
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