宇都宮城の抜け穴(間道) 350年以前に造る 工事の主は本多正純
9月
23日
抜け穴は確かにある。その証拠は、元宇都宮藩士であった大寛町、大久保家の井戸の中間に、横へ隠れることの出来る穴があることを大久保家の人や近隣の人が確認している。また、材木町の佐藤氏の貸事務所工事や中村酒店で倉庫を普請したときにも工事人が穴を
発見。東方へ向って歩いてみたら、人ひとり通れるくらいの地下道がどこまでも続いていた。
また旧三条町でも、元宇都宮藩士岩崎家の庭の竹やぶで明治年代に穴が発見された。これには上野貞一氏が入って、東へ深く走っていることを確認している。このような事実は松ガ峯など数力所にある。
では、これらの地下道が城内から通じているものとして、その作製時期はいつごろか―というと元和6年(1620)から翌7年にかけて、当時の城主本多上野介正純が行ったものと断定せざるを得ない。
なぜならば、それ以前の奥平、蒲生、宇都宮の各氏では大きな工事をする機会もなかったし、その以後では、幕府の監視がきびしく、また赴任の各大名も宇都宮へ永住する情況下におかれていなかったので、とてもこんな危険な工事は、なし得なかったと思われる。
さて、抜け穴は、どこからどこへ通じていたか、ということを、その目的から考えてみよう。
宇都宮城の場合、ニノ丸奥御殿か、その南側の庭かか、それにつづく畑地の一角に入口があったと思われる。元藩士平木駒吉談によれば、ニノ丸御殿南畑地のすみの物置小屋の中から地下道へ通じた、という。
ところで、ここからニノ丸、三ノ丸、外濠の下をくぐって市街地まで地下道を通すのは、350年前の技術では全く至難と思われる。おそらく濠の下を避け、濠と濠の間の通路下を抜け、城外へは大手門か松ケ峯御門下を通ったと思う。
また、その工事は極秘密裡に完成させねばならぬ性質から、城主と家老長谷川左近に、工事指揮者の河村靭負および普請奉行武井九郎右ヱ門や工事従事者のごく限られた人だけが承知していただけだろう。
その方法は、入口からモグラのように掘進むよりほかになかったと考えられる。抜け穴をくぐった人の話では、幅は1mくらい、高さは1m50㎝ほどで、人がようやくすれ違うことが出来る程度であったようだ。
掘進むうち、上を運び出す関係から、10mくらいの間隔で避難所を左右交互に設ける。これは、照明用の灯明を置く場所にもなる。
そして100mくらい掘り進むと、これも土運びの都合から、3m四方ほどのおどり場を設ける。仮におどり場が5カ所あったとすれば、約500mは掘り進んだことになる。石崎家の竹やぶ下の穴も、おどり場の一つと考えられる。
この掘り方は、城主たちが後日、地下道を利用する際に大いに役立つ。10mおきに、左右交互にある待避所は、そこへちょっと身を隠して後方を確かめながら進むことが出来るし、100mごとのおどり場は休憩所にもなり、ここで二筋に道が分れていれば、迷路ともなり、追手の目をくらますことが出来るわけである。
さて、問題は出口である。これは地下道の長さをなわで計算し、これを地上で直線距離を確かめながら徐々に進めたものと思うが、出口の見当がついたところへ寺社堂などを先に建立し、あとで地下道から堂の縁下などに出口を掘り上げたものと考えられ、そのいい
伝えも残っている。
最後に、本郷町・新石町・小伝馬町・清住町方面で発見された穴について触れておこう。この辺で発見されたものの多くは、2mまたは3m四方ほどの単独の穴ぐらで、行止りとなっている。
江戸時代の宇都宮城下は、しばしば火災に見舞われれ、町の半分以上が全焼するという大火が10回余もあった。これら災害時の体験から、商家が火急の場合の貴重品処理方法として穴ぐらを考え、競って工事をした。これは、盗賊に襲われ、身の危険を感じたときの
避難場所ともなった。地下室内部に手燭が置かれていたことなどは、隠れ穴であった証拠でもある。