下野の飛脚便 江戸や奥州も結ぶ三度笠
11月
4日
次の大名飛脚は、おもに江戸と領国の間を往復するもの。その代表は御三家で、それも尾張、紀伊の両家がいち早く設置し、両家は東海道宿駅に7里ごとに飛脚溜(たまり)小屋を設け、そこに脚夫数人を配置して書簡の逓送に当たらせていた。これを「七里飛脚」ともいう。
最後の「町飛脚」は、元和元年(1615)、大坂(いまの大阪)在番の諸士が東海道の各駅主と相談の結果、毎月3度、8の日を限って出発させたことから、これにならって大坂の商人が飛脚を営業したものである。元和─寛永のころは大坂方の浪人や戦国大名の取りつぶされた家臣らが野盗になりさがっていたりして、世上、極めて物騒であった。そのため、脚夫には大小を持たせ、足自慢の浪人者を雇うなどした。これが民間飛脚のはじめである。
寛文3年(1663)、京都、大坂、江戸の商人が三都間を往復するための飛脚業を制度的に始めた。この場合は、脚夫を武装させずに、商人の服装に変え、健脚の者を選んで東海道の往来は6日間で果たした。これを「定六」とも呼び、また毎月2の日の3回、大
坂を出発したことから「三度飛脚」ともいい、被る笠を「三度笠」と称した。
天明2年(1782)、定飛脚は株制度となり、江戸では、京屋弥兵衛、大坂屋茂兵衛、山田屋八左衛門、島屋左衛門、伏見屋五兵衛、和泉屋甚兵衛、山城屋惣左衛門、十七屋孫兵衛の8軒が幕府道中奉行の許可を受け、独占的に営業権を獲得した。
したがって、地方には原則として本当の意味の飛脚屋は皆無となったが、宇都宮、小山などには何軒か「飛脚屋」があった。特に下野国は、村数1452(享保9年)のうち、その半数以上が旗本の知行地になっていたことから、江戸の旗本屋敷(地頭用所)から下野の知行先の村々への指令、通達などの文書がひんばんに送達された。また、これに対する村々からの返書もしばしば送達されたから、飛脚の利用は多い方であった。が、その飛脚屋は、すべて取次店でしかなかった。たとえば、宇都官の丸屋小兵衛は京屋、白子屋仁兵衛は島屋の取次店であり、小山の清水四郎右衛門は京屋と島屋両店の取次店だった。いずれも江戸行き、奥州行きの日程が決められていて、通常、月9回は飛脚が出発していた。
その飛脚便依頼の時、取次店から発行される飛脚代金の領収書には「御調べ三カ年限り仕り候」と但し書きが付いていた。もし、何か事故があった場合は「三カ年間のうちなら調査いたします」という保証のようなものだ。もっとも、これも文化年代までは五カ年間保証であったのが、天保ごろから三カ年限りと短縮されたのである。
料金は、宇都宮から江戸麻布まで金6両2朱を送って運賃300文(文化5年)。宇都宮から小石川まで金3両に書状一通を添えて運賃350文(天保6年)という相場だった。村々の名主がわざわざ江戸まで出向いて金子(きんす)を届けることを考えれば、実に安かったから、想像以上に利用されていたのである。
飛脚制度には、時折、幕府の検査があり、天保年間に改革され、さらに嘉永2年に改められている。「判鑑(はんかん)」は、嘉永2年に改められたときのもので、表に「定飛脚」と墨書され、裏面中央に丸の中に定の字のはいった焼印。その右肩に「嘉永改」の焼印がある。
脚夫は、この飛脚札を身分証明として常時持参していた。上部の穴のところへ麻ひもを通し、木札と同じ大きさの革袋の中に収め、そのひもを腰に結びつけていた。
この木札と同じものが、取次店および飛脚荷を扱う問屋などにも置かれていた。取次店や問屋では、汚さぬよう大切に取り扱い、厳重に保管。これを利用するのは、顔見知り以外の新らしい脚夫を確認するときだけで、普通には、ほとんど取り出さないのが建前であった。