見野の里に藤原藤房の足跡~古鏡にナゾの銘文
2月
27日
やがて政権は天皇にもどった。剛直な藤房は、建武新政の実施にあたり、天皇にしばしば直言したが入れられなかった。そればかりか、不興を買い、ついに朝廷を去り、洛北・岩倉の不二坊に走って剃髪出家し、行方をくらましてしまった。建武元年(1334)10月のことであり、その後の消息については諸説紛々で明らかではない。これから14、5年の間は仏門修行のために、かつての流罪の地、常陸をはじめ下野、東海道、四国、九州と行脚を続けていたともいわれている。
鹿沼市見野の里には、藤房の遺跡、遺物や、これにまつわる伝説が最近まで村人の口に語られてきた。藤房の伝記ともいわれている江戸時代の書物「日蔭草(ひかげぐさ)」によると、明和4年(1767)正月28日、西見野村(現在、鹿沼市見野)の長光寺境内で長雨のため山崩れを起こした場所から経を入れて持ち運ぶ唐鋼(からかね)の塔、唐銅正観音の像、古鏡、古銭多数が見つかっている。藤房の身につけていたものだ、と一切の出土品は領主松平豊前守へ報告、提出された。さらに老中に届けられ、やがては、大事に保管するようにと長光寺へ下げ渡しになった。
安永6年(1777)7月、鏡は、長光寺の本山であり、藤房ゆかりの寺である京都・妙心寺へ納められ「什宝(じゅうほう)」とされた。問題は、古鏡の裏に書かれた銘文である。
そこにある「藤三位(とうさんみ)資通(すけみちち)」とは、藤房の祖父であり、「従一位宣房(のぶふさ)」は父である。「不二行者の授翁(じゅおう)」とは藤房のことのところで「興国四年辛已(しんし)二月吉日」とある中で辛已は、興国2年でなければならない。「興国」は南朝の年号であり、当時、関東地方では、ほとんど北朝年号を使用していたらしく、暦応4年がこの辛已の年に当たる。暦応と興国を混同しているところにかえって鏡作製の年代として真実性があるように考えられる。この年は藤房が行方をくらま
してから約6年後。それから考えると鏡は、藤房が祖父ならびに父の冥福を祈念して仏教求道(ぐどう)に入っていたことが証明されたといってもよいであろう。
昭和47年9月の京都妙心寺会報によると「藤房卿出家後の足跡はなかなかつかめないが、歳月はいつしか過ぎて観応2年(1351)8月22日、妙心寺開山無相大師が再任されると同時に藤房卿もほど近い京都・池上の杉庵に落ちついて無相大師の下に通参して血のにじむ修禅の道を続けた。御年61歳、延文元年(1356)無相大師の跡を享(う)て妙心寺第二世授翁宗弼(じゅおうそうひつ)という名になったのである」と記されている。康暦2年(1380)3月28日、85歳で他界、微妙大師(みみょうだいし)といわれたのが、かつての藤房であるとしている。
妙心寺第二世となった藤房は、鋭意、妙心寺の宗教活動、寺堂の経営面にすぐれた才能を発揮し今日の妙心寺の荘大さを達成したというので、「興租微妙大師」ともいわれている。昭和52年は大師の600年大遠忌法会(だいおんきはうえ)が企画されている。見野の隣り玉田には、ほかに藤房が草庵をむすんだという不二庵跡とか、里人には藤房の墓と信じられてきた「公家塚」という伝承が残る遺跡がある。長光寺とともに藤房の足跡ではないか、と当然、問題にされることになるだろう。
ナゾを秘めた古銭が掘り出されたという長光寺は現在、無住の長光寺から奥へ入った山あいに建てられていた。敷地跡は樹木が生いかぶさっていて訪ねる人もいない。近くに隣り合わせて藤房をまつった喜久沢神社があるが、ひときわ目だつ赤い鳥居がかつての藤房
の伝承を語っているかのように、わびしいたたずまいを示している。