石垣りんさんの詩で 「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」 という詩がある 炊事は女の役目で 無意識までに日常化した奉仕の姿 と言っている 時代は変わった コンビニ弁当などの中食があり 手をかけなくても食べられる しかし 手をかければ 美味しく安く上がる うちの炊事係は 俺、お父さんの仕事だ 家庭でいろいろと 事情があるわけなのだから 炊事は別に男でもいいだろう ちなみにうちは六人分のご飯を 作らなくてはいけない 仕事が遅い週の夕ご飯は たいてい前の日の夜に仕込んでおく カレー、シチュー、鍋物、 麻婆豆腐、スープなどなど 子どもらが温めれば 食べれるようにしておく カレーで言えば 千円もあればサラダ付きだ 五百円の弁当を六個買ったら 三千円となってしまう 楽をしたいこともあるが しないのが俺流だ あと 魚や肉を焼くだけなら 簡単で美味しいのだが これもけっこう高くつく たまにはいいけど 毎日だと 家計簿がアップアップしてしまう そして今夜も ビーフシチューと キュウリを切って力士味噌を作ってあえた 明日の晩御飯は準備完了だ 朝ごはんは今日の鍋で余ったつゆで おじやを作っておいた そして日本橋と彫ってある お気に入りの包丁を磨いてしまう ああ今日もお疲れさんと 自分に言いながら横になる そこで詩を書く 炊事も詩を書くことも 楽しくやるように心掛けている ため息なんてついちゃ ダメなんだなあ 料理は不味くなるし 詩は愚痴っぽくなる 石垣さん 女性が外で輝ける時代に なってきましたよ これからもっと……
あなたの すべてをなくした これから 僕のすべては生きてゆくのか あなたの すべてをなくした 僕の心はどうして あなたのすべてでないのだろうか 残されたどうしようもなさは あなたのすべてに入れて欲しかった 僕のすべてを捧げて あなたが蘇るのだとしても それはあなたが 今の僕と同じような哀しさの中に 天国であなたは 微笑んでいるのだろうか 僕のすべては それだけを信じて 生きてゆくしかないのか
仕事以外は肌身離さずのiPad 持ち歩くにはすこし大きいが いつどこでも詩を書けるよう スタンバイするのは当たり前 頭の中に描かれた風景なんて すぐに消えてしまうのだから 朝は夢の中で詩を書いている 起きたらすぐに打ち込む言葉 電車が来るまで打ち込む言葉 仕事前十分間で打ち込む言葉 昼休み早食いし打ち込む言葉 目がある手があるiPadがある 時間があれば詩の世界を収め 生きている実感を味わっては 僕は充実を糧に進む進む進む 幸福はいつも手に中にあって 世界の拡がりを止めやしない
三歳まで遡っていた 夢から覚めると それは半世紀前の記憶に気づく 父は他界して 大人たちが楽しそうに 精霊船を造っていた 小さいわたしは そのまわりで遊んでいる 「子どもは無邪気なもんだ」 そんな声が聞こえてきた わたしがとても悲しいことに 気づいてくれない 三歳でもこころは泣いていた わたしはその時に 「あーちゃんのつらいね」 そう言って抱きしめて欲しかった 今も満たされない ひとつのインナーチャイルド 小学五年生の頃 私をいじめる男の子がいた その子は転校生で なぜか私の悪口を言ったり 持ち物を隠したり捨てたり どうしてなんだろう 考えてもまったくわからなかった いじめが辛くて辛くて 毎日が嫌な思いでいっぱい とても悲しい想い出は 大人になっても 心のどこかを抓っていた そして先日 男の子がわたしをいじめる 理由がわかった気がした 男の子は母子家庭 わたしも母子家庭 運動が好きだという共通点 お互いが心が寂しく空洞化した日々 そう ふたりはとっても似ていた 男の子は自分が嫌で 似ているわたしを いじめていたことに気づく 何十年も引っかかっていた わたしのふたつ目のインナーチャイルド 知ることができると すこし雪どけをして心が流れて
君がゆく 僕は追いかける 君は軽やかに飛び跳ね うさぎのように森をゆく 後ろ姿は揺れて 微笑みながら振りむく 僕は嬉しくて いつまでも つかまえることが 出来ない振りを 続けているんだ 美しき君に 真昼の星が散りばめられ 君がゆく 僕は追いかける 精霊たちが道を開け 君がゆく 僕は追いかける
別れ際 右にずっと曲がってね 私はずっと左に曲がるから そう君に言われた たぶん 僕と距離を置きたいんだ それから僕は言われた通り 右に曲がる人生を送り 君はきっと左に曲がる人生を 送っているのだろう ふたりは 違う景色を見て歩いた 君のいない人生は 寂しくて 味気なくて 辛くて 苦しくて でも そんな日々が教えてくれた 僕は自分の満足のために 君を好きになって どうしようもない男だったんだ やっと気づいた 君の幸せを思えることが 好きだということなんだ よし きっと君を幸せにしよう 君の笑顔のために生きて行こう そうだ 世界は広いけど ずっと僕が右に曲がっていれば 元の場所にもどり ずっと君が左に曲がっていれば 元の場所にもどるだろう そして ふたりは再会するに違いない 僕はそれまで 君を幸せにするため たくさんの勉強をしながら こころを豊かにしようと ずっと右に曲がりながら 人生を送った ……そして五年が経ったある日 いつものように右を曲がっていた 角を通りすぎるところで 柔らかい誰かとぶつかった 大丈夫ですか お怪我はないでしょうか 僕は慌てて言った すると 大人になったみたいね 君が微笑んで 目の前にいるのだから びっくりしてしまった そして僕は ずっと君を幸せにするよ そう伝えたんだ すると君はこう言ったんだ 一緒に幸せになりましょうね と
失はれたもの もはや私の書くものには真実はない。 私から時間が離れていつた。 私から女のひとが去つていつた。 一枚の着物も引き剥がされていつた。 つひに私の絶望さへ。 私に信じられるものは、 最後に裸の私自身のみだ。 裸の私が歩いてゆく。 私の背ろを見せて歩いてゆく。 しかし、それさへやがて強烈な太陽のもとに ㅤ見えなくなってしまつた。 吸取紙の中へ消えてゆく文字のやうに。 (竹中 郁〈たけなかいく〉。1904〜1982)
影 手をとる君はあらずとも さみしきこともなかりけり 月にうつせるわがかげを 君と思ひて行くときは ゆめ あなくやしくも物の音は おのがゆめをばさましけり うれしき君のそのゆめを 物の音なくばこれなくば うれしき夢をとこしへに 見つゝも我はあるべきを 田山花袋(1871〜1930)