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もの言う牧師のエッセー 再投稿 

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第338話「 優生保護法 」
 
  1953年の厚生事務次官通知「優生保護法の施行について」。「真にやむを得ない限度において身体の拘束、麻酔薬施用または欺罔等の手段を用いることも許される場合があると解しても差し支えない」。1948年に制定された優生保護法は「不良な子孫の出生」防止を掲げてその目的による強制不妊手術を認め、本人の同意がなくても不妊手術ができ、 要するに力ずくでも、麻酔をかけてでも、騙してでも実施され、全国で少なくとも障害者ら1万6475人が不妊手術されたという。
 
必然的にナチスによる悪名高い断種政策を想起したが、これら強制手術は基本的人権を謳う現憲法下で行われ、バブルの余韻が残る1996年に「母体保護法」に改正されるまで続いたことに驚きを禁じえない。しかも呆れたことに、議事録からは障害者への侮蔑的な表現にも一切反論はなく、同手術が自治体や民生委員など地域も巻き込んで推進されたことも分かった。
 
今年1月、手術を強いられた宮城県の60代女性が仙台地裁に国家賠償を求めて提訴したことを受け、実態解明と救済に向けてようやく動き出したが、札幌在住の76歳の小島喜久夫さんは、強制手術をめぐる当事者としては初めて実名で新聞の取材に応じ、「手術の内容も説明されず、麻酔が十分効かないままメスを入れられ、すさまじい痛みだった」と振り返り、手術後も反抗的な態度を取ると頭に電気ショックを与えられたというから壮絶だ。陰険でおぞましい悪法の犠牲者らの苦しみを見て、イエスがまず取り組んだ問題が「神の国」であったことに今さらながら合点が行く。彼は
 
「ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、
 腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。
 イエスは、その女を見て、呼び寄せ、『あなたの病気はいやされました。』と言って、
 手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神を崇めた。
 そして「『この女はアブラハムの娘なのです。』」  
ルカの福音書13章10-13,16節、
 
とコメントしている。「アブラハムの子供」とは、神に選ばれたイスラエル民族の“優生さ”を示す際に使われる表現の一つである。長きにわたり身障者であるこの女性はその中に数えられてはいなかったが、イエスにより救われ、神の家族へと招き入れられた。そもそも人間は神に似せられて造られており、本来、何もせずとも優生なのだ。しかし堕罪した我々一人ひとりは、自分の優生ぶりを主張し、挙句は他者を見下し排除しようとする。だが望みはある。本当の「優生保護」は、神の支配においてのみ可能であることを信じることだ。                              2018-6-1

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聖書の言葉、詩編より

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聖書の言葉、詩編より
悪を行なう者に対して腹を立てるな。
不正を行なう者に対してねたみを起こすな。

彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。

主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。

主をおのれの喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

聖書 詩篇37篇1-4節

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近所のタコスの店でランチ

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近所のタコスの店でランチ 近所のタコスの店でランチ
新装開店した近所のタコスの店に行きました。感謝!

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第316話「 宗教改革500周年 」
 
  1517年10月31日、後の宗教改革の発端となった「95カ条の論題」をマルティン・ルターがドイツ東部のウィッテンベルク城教会の扉に張り出し、免罪符販売を痛烈に批判しローマ・カトリック教会に挑戦状を叩きつけてから500周年を迎えた。ネオ・ナチなど極右が台頭し、反イスラム・反移民の排外主義が巻き起こる欧州だが、メルケル首相や新旧両教会の代表が同地に集まり、宗教改革500年の式典が行われ、「寛容こそ欧州の魂」などと多様性の尊重を謳い上げたが、何やらぎこちなく見える。
 
周知のとおり宗教改革400年を迎えた100年前は第一次大戦の真っ最中であった。ドイツは仏露との戦争をカトリックやロシア正教の国との闘争に置き換え、ルターの事績を戦意高揚に利用し、ウィッテンベルク城教会の扉もそのころ修復され“論題“も刻まれたという。そしてその約20年後、今度はヒトラーがルターの著作を利用し国を挙げてユダヤ人を迫害した。
 
これらの事実は、宗教とは、せいぜいそれに属する人々の充実に寄与する程度のもので、皮肉にも何も改革できない事実を露呈していると言えよう。
新約聖書で最も古いとされる書簡には宗教がどうあるべきか明白に書かれている。
 
「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、
 孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、
 この世から自分をきよく守ることです。」    
         ヤコブの手紙1章27節。
 
執筆者のヤコブはイエスの”異父兄弟”であることもあり、「神が愛である」ことや、「人を愛する」ことをイエスから度々聞かされていたことが推察されるいっぽう、始まったばかりの当時の教会がすでに学問や社会正義を云々するだけのサロンと化しつつあった事実が透けて見える。もし何かを改革したければ、まず「十字架にかかったイエス」の前にへりくだり、彼に罪を告白し、聖霊を心に迎え、神によって己の内側から変えてもらう以外ない。そうすれば世界が動き出す。                         2017-12-30

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チャップリン

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チャップリン
機械よりも人間愛、賢さよりも 優しさや穏やかさが必要だ。
それら抜きでは、世界は暴力に満ち、全てを失ってしまう。
 
                チャップリン

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第328話「 不倫報道 」
 
  先月の9日、作家の瀬戸内寂聴氏がNHK「あさイチ」に生出演し、昨年から世間を賑わせている週刊誌の不倫報道について一石を投じた。もともと彼女は「最近、週刊誌を開けたらだいたい不倫の話。私なんか不倫随分しましたけど、どうってことないの。一つしても二つしても似たようなもんよ」などど言いたい放題の観があるが、スタジオで改めて不倫について聞かれると「不倫はしようと思ってするのではなく、雷のように落ちてくる。当たったら仕方がない」とあまりに的を得たコメントに思わず唸った。
 
週刊誌に関しては、「ちょっと書き過ぎね。あんなに言わなくったって。書く人だってやってるんです。」スタジオは大爆笑だったらしいが、あながちジョークだけで片付けられない重要なポイントがいくつかあり、「不倫」を「罪」と置き換えれば分かりやすい。
 
まず、“不倫と落雷”であるが、これだと己の間違いではなく“事故”になってしまい、間違いが自然に起こったかのようで、言わば自分は受身であり、“運命”という見方もでき、日本人の無責任な罪観が良く出ている。次に、“書く人だってやっている”であるが、言うまでもなくゴシップとは、他者の欠点のあら探しで自尊心を満たすことだが、厄介なのは己の正すべき欠点を見逃すことだ。そうして自分の罪には寛容で他者には厳しい愚かな社会が増幅していく。
 
寂聴氏の発言は、平等に落ちた雷のごとく、平等に罪に墜ち難儀する人間を正確にとらえる一方で、もはやニヒリズムかペシミズムが漂うお手上げのイメージが拭えない。だが救いはある。ズバリ己が救いようのない罪人であると十字架にかかったイエスに対し認めることだ。そうした者にイエスは、“一つや二つ”どころか何百万と繰り返してきた罪を棒引きしてくださるのだ。そして
 
「今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。
 むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、
 つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。」 
        ローマ人への手紙14章13節:口語訳、
 
と勧める聖書の諭しが、単なる教えではなく現実なものとなって行く。  
2018-3-23  

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我が家で採れたゴーヤの肉詰め

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我が家で採れたゴーヤの肉詰め 我が家で採れたゴーヤの肉詰め 我が家で採れたゴーヤの肉詰め 我が家で採れたゴーヤの肉詰め
我が家で採れたゴーヤの肉詰め、激ウマ感謝!

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フレディ・フリーマン

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フレディ・フリーマン
私は毎試合前に祈り、神のためにできることを全て行います。
私は必ず神を第一にして、誘惑が目の前に来ないようにするだけです。
 
フレディ・フリーマン
LA ドジャース

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第326話「 ミシュラン三つ星返上 」
 
  昨年9月、料理界に衝撃が走った。99年にミシュランの三つ星を獲得して以来、2017年まで維持してきたフランス・オーブラック地方ライヨール村のレストラン「ブラス ル・スーケ」のシェフ、セバスチャン・ブラス氏が、フェイスブックを通じて2018年度版への非掲載希望を表明したのだ。彼は父である初代オーナー、ミシェル・ブラス氏から10年前に同レストランを託されたのだがったが、その人気は全く衰えることなく、ここ20年にわたり昼も夜もテーブルは満席、世界中から人々が嬉々として訪れる。 
 
仏料理界で名声を欲しいままにして来たミシェル・ブラス氏は言う。「ミシュランを否定するものではありません。料理店を格付けする有名ガイドのいずれもが、その調査方法や評価に暗黙のルールを設けています。しかし、それは必ずしも私やセバスチャンが思い描く店の在りよう、料理スタイルに沿うものではない。純粋に作りたいものを作り、自由に表現することにこそ、料理人としての喜びがある。そこには、他者が定めたルールは要らないのです。ブラス流で進むのみ。店の価値はお客様が決めるのです。」 なるほど。
 
「実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。」            
ガラテヤ人への手紙2章4節、
 
とイエスの弟子パウロが宗教家らに怒気を発した一件に驚くほど似ている。今から約2000年前に教会が発足した後、20年ほどかけて拡大しつつある頃に起こった問題である。せっかくイエスの救いにより罪から解放され自由の身になったにもかかわらず、教会が大きくなり様々な人々が関わるようになるにつれ、それぞれの教会が独自の見解やルールを作りメンバーを縛るようになった。所詮これが宗教だ。だが思い出そう。イエスを信じる者は、己を縛る様々な規定や評価から解放されていることを。ただし、その自由は何でもかんでもやり放題の放縦とは全く違う。イエスの愛の力によって日々をのびのびと歩み、“お客様”である周りの人々や神さまを喜ばせることである。                2018-3-10

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エイデン・ W・ トーザー

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エイデン・ W・ トーザー
イエスは、神に近づく一つの選択肢でも最適の道でもない。

彼こそ唯一の道である。
 
            エイデン・ W・ トーザー

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