令和4年10月11日、佐賀県神埼市脊振にて同地区出身の日本兵「佐藤守男」命の日章旗返還式を執り行うべく九州へ向かいました。私の住む北海道札幌市からは2300kmの道のりです。北海道の山間部はすで初冠雪を迎え、平野部でも冬の到来を告げる「雪虫」が飛び交っています。もう何日もしないで初雪が地面を濡らすような季節です。佐賀県はようやっと秋が深まり山間部では栗が道路を転がり、柿がその重みに耐えるように枝をしならせておりました。
佐藤守男命はこの豊かな脊振の土地を昭和15年に離れ北京、朝鮮と戦線を渡り歩き昭和18年にニューギニアの東部「スリナム」にてその命を散らされました。故郷の脊振から実に4700kmも離れた場所でした。佐藤守男命の所属された歩兵第78連隊は当時、転進を繰り返す51師団の撤退を援護すべくニューギニアに行ったそうです。この78連隊の記録は連隊史が残されているものの一兵卒の記録を辿るには十分なものでは無かったと防衛研究所の研究員が教えてれました。
隊は昭和18年当時の東部ニューギニア戦線でオーストラリア軍と激しく交戦していたようで、推測ですがこの佐藤守男命の日章旗も当初はオーストラリア兵の手によって持ち帰られたのではないかと考えています。それがどのような経緯で米国はニューメキシコ州の軍事博物館に展示されることになったかは今となっては知る由はありません。
佐藤守男命が脊振を離れてから82年越しの帰還という事です。途方もない年月と距離を費やしこの日章旗は故郷へ還られました。ご英霊の強い望郷の思いが叶ったのだと思うと本当にこの活動をしていて、その手助けを出来る喜びが溢れてきます。
返還式は佐賀県神埼市の脊振にある「鳥羽院山荘」にて執り行われました。この鳥羽院山荘はかつては集落の小学校だったそうです。会場も小学校の面影を残す教室を2間つなげて作られました。かつては集落の子供たちがここで学び、遊びそして巣立って行ったんだと感慨にふけってしまうような人里離れた山あいの会場でした。敷地内には「鳥羽院の名水」と呼ばれる湧水が湧き出ており、昔はこの水で給食も作られていたそうです。今も地元の人はもちろん、市内からもこの水を求めて多くの人が訪れるそうです。
返還式は佐賀県遺族会、松下事務局長の司会進行で行われ、返還関わった方々の紹介や佐賀県遺族会山口会長そして國松善次元滋賀県知事(OBONアドバイザー)と日本遺族会水落敏栄会長のメッセージが読まれました。それからOBON米国本部の共同代表、そして旗を提供して下さった方々の動画メッセージが放映されました。動画の中では米国ニューメキシコ州軍事博物館でのセレモニーの様子も映されました。
ニューメキシコ州軍事博物館側はこの展示物をOBON に渡す際にそれはたいそうな式典を催してくださいました。軍服に身を包んだ州兵が白い手袋で旗を扱う仕草には戦没者へのリスペクトが感じられ、軍の音楽隊が君が代を演奏し、旗を私たちに託して下さいました。鳥羽院山荘の参列者も食い入るように州兵の旗を扱う所作を見ていました。実際このように式典まで開いて私たちOBONが旗を預かることはほとんどありません。それだけこの旗は米国側にとっても博物館にとっても特別なものであったのだと感じました。旗を戦没者そのものとして敬意を持ち送り出してくださいました。
旗を受領されたご遺族は兵士の実弟の奥様でいらっしゃいました。御年80歳の佐藤淑子さんは旗を受け取られ「義兄の遺品は何一つ残されておらず、出征前に撮られた写真(遺影)が守男さんを偲ぶ唯一のものだった」「主人(兵士実弟)と顔が似ていて親近感を持っていた」と、会う事の無かった義兄に思いを馳せていらっしゃいました。
旗はすぐに会場の黒板に掲揚され旗の横には署名された方々の署名者一覧が貼りだされました。返還式に参列された地域の人は旗や署名を指さし、知った名を見つけその方々の思い出を語られました。「だれそれさんのお父さんや」「この方は長生きした」「この人は戦争いかれたんでしたかね。。」など、その集落ではどの方々にも各々繋がりがあり、思い出があり、僕はこの地域の人たちが話す内容や佐賀弁に耳を傾け「本当に返還出来て良かった」としみじみと思いました。
閉会後はマスコミがご遺族や旗、そして集落の皆さんにカメラやマイクを向け返還された旗について、当時の集落について色んな質問を投げかけられていました。この集落というか佐賀県にとっても、日本全国にとっても非常に大きな返還式であったと思います。
この集落からは実に23人もの戦没者が出ており、小学校(鳥羽院山荘)の裏山にはこれらの英霊をお祀りする墓群がありご遺族と地元遺族会の方々、マスコミと皆でこの墓をお参りに山を登りました。高低差の大きい登りに淑子さんは「ここは来た事が無かったし、一生でこれが最後だから」と足を奮わせて一所懸命に山を登られました。息が上がり切ったところでようやく整然と並ぶ23基のお墓にたどり着き「佐藤守男」命の墓前に手を合わせ旗の帰還を報告いたしました。墓石には戦没場所、享年、階級と彫られておりそれをなぞる様に見られ淑子さんはうっすらと涙を浮かべていました。
今回の返還には捜索から返還まで実に3年の月日を要しました。本来であれば2019年にご遺族が判明したすぐに返還が出来ていればよかったのですが、コロナウィルスが世界を覆い世界はその活動を3年もの間止めてしまっていました。当初、米国からもこの返還に関わってくれていた博物館関係者、米国最大級の退役軍人会「バターン死の行進」の家族で作られる組織代表者などが来日し、旗を直接にご遺族へ手渡したいと願われていました。しかしこれ以上返還を先延ばしにすることは出来ず、今回催行と相成った次第です。
私含め捜索班の中でも捜索から返還まで3年まで要した旗はそうありません。そして軍事博物館の展示品を返還するなど初めてですし、聞いたこともありません。連合国側から見ればこれは戦争勝利の証、いわば「誇り」なのです。それを壁からおろし返還する事自体前代未聞の行為であり本当の意味での「和解」「友好」の証なのだと関係者は言います。
全米(連合国)にはいまだ5万点以上の日章旗や日本兵の遺品が保管されているとOBONは見ています。これは未だ帰還を果たせずにいる未帰還兵そのものだと私は思っています。一枚でも多くの日章旗や遺品を日本のご家族の元に還らせて差し上げたいと思いを新たに強くする、そういうきっかけになった返還式でありました。この度の返還まことにおめでとうございます。
佐藤守男命日章旗返還式の雑感ーOBON捜索班【山本貴久】
佐藤守男命日章旗返還式に至るまでの雑感:(1)
10月11日(火曜日)佐賀県神埼市脊振町で行われた日章旗返還式に参列してきました。米国、ニューメキシコ州の軍事博物館に長年展示されていた旗です。個人ではなく軍事博物館から(つまり米国の軍からという事になります)の返還は初めてのことになります。今から3年前に、米国でOBONソサエティへ返還式が執り行われ、その後日本でご遺族の捜索をすすめ、遺族判明に至り今回の返還式で、生まれ故郷に帰還されました。その間多くの方々が、いろんな困難を乗り越えて、今回の返還式につながったという状況だと認識しています。OBONソサエティが目指す、「平和」「友好」「和解」を具体的に示す、極めて重要な返還式になったと思います。
私はただ佐藤守男命が無事帰還されるため、旗の「書き出し」と、最後の一場面に携わっただけですが、それでも「何でこんなことが?」と不思議な事ばかり続きました。
返還式の二日前、9日(日曜日)になって、予定していたカメラマンが緊急入院されて代わりのカメラマンを探さないといけなくなりました。連休の真ん中、どこにも連絡取れません。いつもはすぐに連絡取れる人にもなかなか連絡取れず結局午後8時前にやっと知り合いのプロのカメラマンに連絡が取れました。どうにかスケジュール調整できないかとお願いしましたが、午後9時過ぎ電話があり「いろいろと調整したがどうしても調整できない。代わりに早田カメラマンを紹介する。」との返事がありました。遅い時間なので「電話していいか?」尋ねたら「電話は何時でもいいが、空手の道場もしているので、今の時間は子供たちと稽古しているので電話取れないのではないかと思う。」と言うことだった。
10日(月曜日・祝日)午前9時、電話があり「明日昼過ぎ迄なら可能です、午後4時から別の撮影が入っているのでそれまでに熊本に戻れれば大丈夫。資料はメールで送っとい下さい。今から撮影が入っているので、仕事が終わって帰ったら見ます。」とのことだった。
直ぐに工藤さんに連絡、代わりのカメラマンが、どうにか確保できた旨伝えて、一安心した。
午後1時前電話があり「内容は把握しました。明日は時間に遅れるわけにはいかないし、機材のセッティングが有るので午前9時には現地に着いときます。」とのことだった。
一方、北海道から航空機で来る工藤さんは、午後7時半福岡空港着、そこでレンタカーを借りて佐賀駅前のホテルへ向かう予定だった。そして11日(火曜日)は、朝から、重井さん、國松さんを乗せて午前8時にホテルを出発、午前8時半に神埼駅で留学生アレクサをピックアップして鳥羽院山荘へ向かう段取りでした。
ところが、到着予定の航空機が遅れて、福岡空港に着いたのは午後8時半、レンタカーの営業所は午後8時で閉店とのこと、とりあえず佐賀駅前のホテルまで、どうにかたどり着いてくれと祈るばかり。午後10時過ぎにやっと佐賀のホテルにたどり着いた旨連絡がありホッとした。予定を変更して、明朝はホテルへ迎えに行く旨伝えた。
11日(火曜日)、当日の朝、私の車に5人はどう考えても窮屈すぎる、私が神埼駅に向かいアレクサをビックアップして鳥羽院山荘へ向かう、工藤さんはレンタカー営業所が開き次第レンタカーを手配して、重井さん、國松さんを乗せて直接鳥羽院山荘に向った方がいいと思う、と言うと工藤さんも同じことを考えていて、私は神埼駅に向かうことに変更しました。
神埼駅周辺の朝の渋滞の程度が全く分からず、念の為約束の時間の一時間前、には到着しておこうとの心構えで自宅を午前6時過ぎに出発した。ほとんど渋滞もなく午前7時半過ぎには神埼駅に到着した。時間が有ったので、そこから鳥羽院山荘への道順を確認、ちょっと一安心。
午前8時半頃にアレクサを無事ビックアップして、鳥羽院山荘を目指した。アレクサは日本語ペラペラで道中の会話に窮することもなく、途中イノシシの親子3匹との出会いもあり、前を走る車もなく、後ろから追いついてくる車もなく山道の連続だった。午前9時過ぎ鳥羽院山荘に到着した。
すでに早田カメラマンは、機材のセッティングまで完了されていた。「全く来たことのない場所なので、昨夜仕事が終わった午後11時過ぎに熊本を出発した。午前2時半位には到着していた。」と聞いてびっくり。やはり空手道場を持ち、子どもたちに教えている人だけあって、仕事に対する取組みにも、魂が入っているなあと感心させられた。
返還式会場の設営、準備は前日までにほぼ終わられていた。鳥羽院山荘は佐藤守男命が通われた脊振小学校鳥羽院分校の校舎で、2003年3月に閉校、その後、宿泊研修施設に改修されている。
到着が早かったので、校舎の隅にある「鳥羽院の名水」をいただいた。かつては学校給食にも使われていた天然水だけあっておいしかった。常に湧き出している井戸水で、汲みに来る人も多いらしい。
その後、デジカメを落としてしまった。水濡れまではしなかったのでどうにか機能は保たれているようだった。機械に詳しくないのでいろいろセットし直しているうちに知らず知らずのうちに日付の年号を間違えてしまったようだ。帰宅して、デジカメからパソコンに画像を取り込んで初めて気付いたが、この旗の捜索に入った3年前、2019年に戻ってしまっていた。
何とも不思議なことばかり続いた返還式までの道のりでした。以前、別の旗の返還式で、その前日夜、ようやく旗が私の手元に届いたということもあったのを思い出した。今回は、本当に、佐藤守男命が帰還に際して私共に与えて下さった試練だと思わざるを得ません。今を生きるご遺族や私達にとってはとても嬉しい事なのですが、佐藤守男命にとっては、嬉しくもあるものの、半面「自分だけ帰還していいのだろうか?」と躊躇の念がぬぐえないのだと思います。「いいんです。今を生きる私たちは、どんな困難をも乗り越えていくことが出来るようになりました。それはあなた方、ご英霊が見守っていて下さるからです。何も心配せず安心してご帰還下さい。あなたの後ろには、数万人の方々がその帰りを待っておられるのです。」
佐藤守男命日章旗返還式の雑感:(2)
10月11日(火曜日)佐賀県神埼市脊振町の鳥羽院山荘で行われた日章旗返還式に参列してきました。米国、ニューメキシコ州の軍事博物館に長年展示されていた旗、つまり米国の軍にすれば「戦利品」、それを返還するということは、以前は全く考えられないことで、私どもにとっても初めてのケースでした。
今から3年以上前に、米国で、多くの方々が多くの困難を乗り越えて、OBONソサエティへご遺族の捜索を託され返還式が執り行われました。私どもOBONソサエティの日本スタッフはすぐに捜索を進め、ほどなくご遺族の判明に至りました。ところがコロナ禍でなかなか日本での返還式が出来ず、紆余曲折、この度やっと返還式にたどり着き無事帰還されました。OBONソサエティが目指す、「平和」「友好」「和解」を具体的に示す、極めて重要な返還式でした。
返還式は、午前11時、ご英霊に黙祷で始まりました。続いて佐賀県遺族会の山口会長が佐藤守男様の経歴、今回の返還の経緯を話され、参列者の紹介と続きました。
OBONソサエティ共同代表のビデオメッセージが流れ、國松さんが挨拶されました。今回の返還は極めて異例のことで米国の軍事博物館をはじめ多くの方々の理解と決断を時間をかけてOBONソサエティが交渉して引出した経緯を話されました。
日本遺族会水落会長のメッセージを重井様が代読され、ご遺族佐藤淑子様に日章旗が返還されました。「会ったことはありませんが、とても嬉しいです。写真は主人にそっくりで親しみを感じています。父さん母さんのもとに連れて行って安心させたいと思います。」とはっきりと挨拶され、その後、記念撮影、歓談。日章旗とともに、拡大した「書き出し」を、多くの人が、誰か知ってる人の署名がないかと、食い入るように見られていました。ご遺族は、返還式が終わると、裏山の村の慰霊の石碑の所まで行かれ、手を合わせられました。
今回の返還式では、動画撮影と写真撮影で手一杯、話の内容までゆっくりと理解する余裕はありませんでしたが、この返還式に携わることが出来て、ご遺族の喜びに接することが出来て、とても意義ある一日でした。合わせて一枚でも多くの日章旗を一刻も早くご遺族のもとに返還していかねばと、改めて思いました。
10月11日に佐賀県神埼市脊振にて執り行われました「佐藤守男」命日章旗返還式について【佐賀新聞】が7日と12日、【読売新聞】が12日に、それぞれ記事を掲載してくださいました。
米軍施設の日章旗、遺族へ 義妹の佐藤淑子さん「責任をもって弔いたい」 神埼市脊振町ー2022/10/12 07:00
神埼市脊振町の鳥羽院山荘
太平洋戦争で戦死した神埼市脊振町出身の男性の遺品である日章旗が11日、遺族に返還された。受け取った遺族の代表は、戦後77年以上が経過した重みをかみしめながら「責任を持って弔いたい」と話した。
返還されたのは、米の軍事博物館に展示されていた日章旗。仲介する米国のNPO法人「OBONソサエティ」の調査で、1943(昭和18)年にニューギニア島東部で24歳で戦死した佐藤守男さん=神埼市脊振町出身=のものと判明し、佐賀県遺族会などを通じて遺族を探した。
返還式は脊振町の社会教育施設「鳥羽院山荘」で開かれ、関係者約35人が集まった。義理の妹に当たる佐賀市の佐藤淑子さん(80)が日章旗を受け取り「お会いしたことはないが、写真の顔が主人にそっくりで親しみを感じていた」と述べた。
式典では、米NPO代表のビデオメッセージが流され「この日章旗はアメリカの軍隊が返還を決意した初めてのケース」と紹介した。日章旗は守男さんの両親が生前暮らしていた家に持ち帰り、供養するという。(中島野愛記者)
日章旗を受け取った遺族の佐藤淑子さん
太平洋戦争中、南太平洋のニューギニアで1943年に戦死した神埼市脊振町出身の佐藤守男さん(当時24歳)の所持品だった日章旗が11日、米国の軍事博物館から遺族に返還された。遺族たちは約80年ぶりに故郷に帰った遺品を前に、感慨深げな表情を見せた。
旗は、親族らが激励の言葉を寄せたとみられ、「武運長久祈る」「佐藤守男君万歳」「滅私奉公」「 往い け軍旗の基に」などと戦時下を思わせる言葉が並んでいる。
遺品返還活動を行う米オレゴン州のNPO法人「OBONソサエティ」によると、日章旗は戦後まもなくから米ニューメキシコ州の軍事博物館に保管されていたが、経緯は不明という。2019年に同館から返還したいと同法人に引き渡された。その後、書かれた寄せ書きを頼りに県遺族会などが佐藤さんの遺族を探し出した。
同法人はこれまで約500の日章旗の返還に携わった。元米兵やその遺族らから依頼を受ける場合が多く、軍事博物館からは今回が初めてだ。同法人の工藤公督さん(48)は「当時の米兵たちは戦利品として日章旗を持ち帰っていた。現在は旗に寄せられた思いについて理解が広がっている。米軍関連施設からの返還はその象徴だ」と意義を語る。
返還式がこの日、佐藤さんが通った小学校の分校跡である同市脊振町の鳥羽院山荘で行われ、義理の妹の淑子さん(80)(佐賀市)が日章旗を受け取った。
淑子さんは「会ったことはないが、今は亡き(佐藤さんの)母から『優しい人柄だった』と毎日のように聞いていた」と振り返り、「 御霊みたま として仏壇に持って行き、『今帰ってきたよ』と(佐藤さんの)両親に伝えたい」と感慨深げだった。https://www.yomiuri.co.jp/local/saga/news/20221011-OYTNT50050/?fbclid=IwAR1o44SHLSs3zzh_3JsAOjYw5EzE0YTkg37VOXlv6n_Id3xWKm-UhNZoS2M
アメリカの軍事博物館に展示されていた"日章旗" 佐賀県出身日本兵の遺族に返還される【佐賀県】
太平洋戦争で戦死した佐賀県出身の日本兵のもので、アメリカの軍事博物館に展示されていた日章旗が、戦後77年の時を経て帰国し、11日、遺族のもとへ返還されました。
返還された日章旗は、神埼郡脊振村出身で1943年に南方のニューギニアで24歳で戦死した、佐藤守男さんのもので、アメリカ・ニューメキシコ州の軍事博物館に展示されていました。
展示されたいきさつなどは分かっていませんが、遺族のもとに返したいという博物館の要望があり、日章旗など返還に取り組んでいるアメリカのNPOが、3年ほど前に佐藤さんのものと特定したということです。
11日は県遺族会が佐藤さんが通っていた小学校の跡地で返還式を開き、佐藤さんの義理の妹にあたる佐藤淑子さんに「必勝」などと書かれた日章旗が返還されました。
【遺族佐藤淑子さん(80)】
「(守男さんは)会ったことはないがとても嬉しい。写真だけ見たが、主人とそっくりだったから親しみは感じていました。父母のところに連れていって安心させたい」
県遺族会によりますと、アメリカの軍事博物館から日章旗が遺族に返還されたのは県内では初めてで、関係者は地元の戦死者を祀る碑に手を合わせ、日章旗の帰国を報告していました。https://www.youtube.com/watch?v=gODTRQvMhH8
佐藤守男命「寄せ書き日の丸」返還式で参列者の皆様に視聴していただいた動画です。
少しでも多くの日本の皆様へもお届けしたいメッセージです。是非、ご覧ください。
https://youtu.be/taSLGqV8v0c
ニューメキシコ軍事博物館にて:
日章旗返還依頼をされた米国関係者らとOBONソサエティ・スタッフ
10月11日(火)午前11時から、佐藤守男命「寄せ書き日の丸」返還式が出身地である佐賀県脊振町にて行われました。
ご英霊が長い年月を経て、ようやく日章旗と共にご遺族のお手元へ戻れることとなり、本当に感慨深い思いでおります。
この佐藤守男命「寄せ書き日の丸」は、アメリカで初めて軍隊が返還を決意された非常に特別な旗です。関係者と共に訪日をして旗を手渡せるように希望していたのですが、コロナ禍などの事情によりこの度の訪日は叶いませんでしたが、ニューメキシコ州兵軍と全米バターン・コレヒドール防衛兵の会ら関係者と共に動画メッセージを作成しました。日本の皆様にもお届けしたいメッセージです。是非、ご視聴ください!
https://youtu.be/taSLGqV8v0c
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