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- OBON捜索班山本の手記/佐賀県で戦没者遺霊品を返還(Returning the remains of the war dead in SAGA)
佐藤守男命日章旗返還式の雑感ーOBON捜索班【山本貴久】
佐藤守男命日章旗返還式に至るまでの雑感:(1)
10月11日(火曜日)佐賀県神埼市脊振町で行われた日章旗返還式に参列してきました。米国、ニューメキシコ州の軍事博物館に長年展示されていた旗です。個人ではなく軍事博物館から(つまり米国の軍からという事になります)の返還は初めてのことになります。今から3年前に、米国でOBONソサエティへ返還式が執り行われ、その後日本でご遺族の捜索をすすめ、遺族判明に至り今回の返還式で、生まれ故郷に帰還されました。その間多くの方々が、いろんな困難を乗り越えて、今回の返還式につながったという状況だと認識しています。OBONソサエティが目指す、「平和」「友好」「和解」を具体的に示す、極めて重要な返還式になったと思います。
私はただ佐藤守男命が無事帰還されるため、旗の「書き出し」と、最後の一場面に携わっただけですが、それでも「何でこんなことが?」と不思議な事ばかり続きました。
返還式の二日前、9日(日曜日)になって、予定していたカメラマンが緊急入院されて代わりのカメラマンを探さないといけなくなりました。連休の真ん中、どこにも連絡取れません。いつもはすぐに連絡取れる人にもなかなか連絡取れず結局午後8時前にやっと知り合いのプロのカメラマンに連絡が取れました。どうにかスケジュール調整できないかとお願いしましたが、午後9時過ぎ電話があり「いろいろと調整したがどうしても調整できない。代わりに早田カメラマンを紹介する。」との返事がありました。遅い時間なので「電話していいか?」尋ねたら「電話は何時でもいいが、空手の道場もしているので、今の時間は子供たちと稽古しているので電話取れないのではないかと思う。」と言うことだった。
10日(月曜日・祝日)午前9時、電話があり「明日昼過ぎ迄なら可能です、午後4時から別の撮影が入っているのでそれまでに熊本に戻れれば大丈夫。資料はメールで送っとい下さい。今から撮影が入っているので、仕事が終わって帰ったら見ます。」とのことだった。
直ぐに工藤さんに連絡、代わりのカメラマンが、どうにか確保できた旨伝えて、一安心した。
午後1時前電話があり「内容は把握しました。明日は時間に遅れるわけにはいかないし、機材のセッティングが有るので午前9時には現地に着いときます。」とのことだった。
一方、北海道から航空機で来る工藤さんは、午後7時半福岡空港着、そこでレンタカーを借りて佐賀駅前のホテルへ向かう予定だった。そして11日(火曜日)は、朝から、重井さん、國松さんを乗せて午前8時にホテルを出発、午前8時半に神埼駅で留学生アレクサをピックアップして鳥羽院山荘へ向かう段取りでした。
ところが、到着予定の航空機が遅れて、福岡空港に着いたのは午後8時半、レンタカーの営業所は午後8時で閉店とのこと、とりあえず佐賀駅前のホテルまで、どうにかたどり着いてくれと祈るばかり。午後10時過ぎにやっと佐賀のホテルにたどり着いた旨連絡がありホッとした。予定を変更して、明朝はホテルへ迎えに行く旨伝えた。
11日(火曜日)、当日の朝、私の車に5人はどう考えても窮屈すぎる、私が神埼駅に向かいアレクサをビックアップして鳥羽院山荘へ向かう、工藤さんはレンタカー営業所が開き次第レンタカーを手配して、重井さん、國松さんを乗せて直接鳥羽院山荘に向った方がいいと思う、と言うと工藤さんも同じことを考えていて、私は神埼駅に向かうことに変更しました。
神埼駅周辺の朝の渋滞の程度が全く分からず、念の為約束の時間の一時間前、には到着しておこうとの心構えで自宅を午前6時過ぎに出発した。ほとんど渋滞もなく午前7時半過ぎには神埼駅に到着した。時間が有ったので、そこから鳥羽院山荘への道順を確認、ちょっと一安心。
午前8時半頃にアレクサを無事ビックアップして、鳥羽院山荘を目指した。アレクサは日本語ペラペラで道中の会話に窮することもなく、途中イノシシの親子3匹との出会いもあり、前を走る車もなく、後ろから追いついてくる車もなく山道の連続だった。午前9時過ぎ鳥羽院山荘に到着した。
すでに早田カメラマンは、機材のセッティングまで完了されていた。「全く来たことのない場所なので、昨夜仕事が終わった午後11時過ぎに熊本を出発した。午前2時半位には到着していた。」と聞いてびっくり。やはり空手道場を持ち、子どもたちに教えている人だけあって、仕事に対する取組みにも、魂が入っているなあと感心させられた。
返還式会場の設営、準備は前日までにほぼ終わられていた。鳥羽院山荘は佐藤守男命が通われた脊振小学校鳥羽院分校の校舎で、2003年3月に閉校、その後、宿泊研修施設に改修されている。
到着が早かったので、校舎の隅にある「鳥羽院の名水」をいただいた。かつては学校給食にも使われていた天然水だけあっておいしかった。常に湧き出している井戸水で、汲みに来る人も多いらしい。
その後、デジカメを落としてしまった。水濡れまではしなかったのでどうにか機能は保たれているようだった。機械に詳しくないのでいろいろセットし直しているうちに知らず知らずのうちに日付の年号を間違えてしまったようだ。帰宅して、デジカメからパソコンに画像を取り込んで初めて気付いたが、この旗の捜索に入った3年前、2019年に戻ってしまっていた。
何とも不思議なことばかり続いた返還式までの道のりでした。以前、別の旗の返還式で、その前日夜、ようやく旗が私の手元に届いたということもあったのを思い出した。今回は、本当に、佐藤守男命が帰還に際して私共に与えて下さった試練だと思わざるを得ません。今を生きるご遺族や私達にとってはとても嬉しい事なのですが、佐藤守男命にとっては、嬉しくもあるものの、半面「自分だけ帰還していいのだろうか?」と躊躇の念がぬぐえないのだと思います。「いいんです。今を生きる私たちは、どんな困難をも乗り越えていくことが出来るようになりました。それはあなた方、ご英霊が見守っていて下さるからです。何も心配せず安心してご帰還下さい。あなたの後ろには、数万人の方々がその帰りを待っておられるのです。」
佐藤守男命日章旗返還式の雑感:(2)
10月11日(火曜日)佐賀県神埼市脊振町の鳥羽院山荘で行われた日章旗返還式に参列してきました。米国、ニューメキシコ州の軍事博物館に長年展示されていた旗、つまり米国の軍にすれば「戦利品」、それを返還するということは、以前は全く考えられないことで、私どもにとっても初めてのケースでした。
今から3年以上前に、米国で、多くの方々が多くの困難を乗り越えて、OBONソサエティへご遺族の捜索を託され返還式が執り行われました。私どもOBONソサエティの日本スタッフはすぐに捜索を進め、ほどなくご遺族の判明に至りました。ところがコロナ禍でなかなか日本での返還式が出来ず、紆余曲折、この度やっと返還式にたどり着き無事帰還されました。OBONソサエティが目指す、「平和」「友好」「和解」を具体的に示す、極めて重要な返還式でした。
返還式は、午前11時、ご英霊に黙祷で始まりました。続いて佐賀県遺族会の山口会長が佐藤守男様の経歴、今回の返還の経緯を話され、参列者の紹介と続きました。
OBONソサエティ共同代表のビデオメッセージが流れ、國松さんが挨拶されました。今回の返還は極めて異例のことで米国の軍事博物館をはじめ多くの方々の理解と決断を時間をかけてOBONソサエティが交渉して引出した経緯を話されました。
日本遺族会水落会長のメッセージを重井様が代読され、ご遺族佐藤淑子様に日章旗が返還されました。「会ったことはありませんが、とても嬉しいです。写真は主人にそっくりで親しみを感じています。父さん母さんのもとに連れて行って安心させたいと思います。」とはっきりと挨拶され、その後、記念撮影、歓談。日章旗とともに、拡大した「書き出し」を、多くの人が、誰か知ってる人の署名がないかと、食い入るように見られていました。ご遺族は、返還式が終わると、裏山の村の慰霊の石碑の所まで行かれ、手を合わせられました。
今回の返還式では、動画撮影と写真撮影で手一杯、話の内容までゆっくりと理解する余裕はありませんでしたが、この返還式に携わることが出来て、ご遺族の喜びに接することが出来て、とても意義ある一日でした。合わせて一枚でも多くの日章旗を一刻も早くご遺族のもとに返還していかねばと、改めて思いました。
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