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日章旗、76年ぶり故郷に
沖縄で戦死した妙高出身・古川さん遺品
2021/07/10 14:05
太平洋戦争末期の1945年、沖縄で戦死した新潟県妙高市出身の陸軍伍長古川學(まなぶ)さん=享年(30)=が持っていた日章旗が、終戦から76年を経て、市内の遺族に米国から返還された。妙高市の遺族に日章旗が戻されるのは初めて。関係者は「返還は敵国同士だった米国と日本の友好の証し」と、改めて平和の尊さを心に刻んでいた。
戦争で亡くなった妙高市出身の戦没者1691人を追悼する本年度の戦没者追悼法要が6月30日、同市の新井別院で営まれ、その席上で日章旗が遺族に渡された。旗には「為古川學君」「武運長久」と書かれ、日の丸の周りには8人の名前が記されている。古川さんは45年6月15日、沖縄本島で戦死した。
日章旗は戦後、戦利品として米兵が持ち帰ったもので、米国オレゴン州を拠点に活動する非営利団体や日本遺族会などによって返還が実現した。これまで約380枚の日章旗が国内の遺族の元に返されている。県連合遺族会によると、県内遺族への返還は今回で7例目。
旗を受け取った遺族の古川行雄さん(66)=妙高市志=は「返還されるという話を聞いたときは本当に驚いた。家で保管したい」と述べた。妙高市遺族会の間島英夫会長は「遺族会では戦没者の遺品を整理しているので、守り伝えたい」と話した。
戦没者追悼法要には行政関係者や市遺族会、市社会福祉協議会役員ら約40人が参列。読経が響く中、参列者が焼香し冥福を祈った。入村明市長は「悲しい歴史を二度と繰り返すことのないよう、次の世代に受け継いでいく使命がある」とみ霊を追悼した。https://www.niigata-nippo.co.jp/.../20210710627683.html
妙高市出身で戦争で亡くなった人たちの追悼法要が30日、妙高市で行われました。これにあわせ、沖縄の地上戦で亡くなった男性の遺留品として、日章旗がアメリカから遺族に返還されました。
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追悼法要には妙高市遺族会や社会福祉協議会の役員など約40人が参列しました。妙高市では第二次世界大戦などで1691人が亡くなっています。法要では、社会福祉協議会の三浦了好会長が追悼文を読み上げました。
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三浦会長は「平和で豊かな社会は、戦火に散った多くの尊い犠牲の上に築かれたことを忘れてはならない。我が国では戦争を知らない世代が8割を占める。戦争の記憶の風化が危惧されている。改めて戦争の悲惨さと平和の尊さを、後世に引き継がなければならない」。
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入村市長は「悲しい歴史を繰り返さないよう、我々には次の世代に引き継ぐ使命がある」と述べました。
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この後、昭和20年6月15日、沖縄の地上戦で亡くなった古川學さんの日章旗が遺留品として、遺族の古川行雄さんに返還されました。學さんは矢代地区の出身、当時30歳でした。 日章旗はアメリカ兵が戦利品として持ち帰りましたが、アメリカの非営利団体、OBON(オボン)ソサエティや日本遺族会などを通じて返還されました。
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縦70センチ、横100センチの旗には、學さんを含む9人の名前と無事を祈る「武運長久」の文字が書かれています。
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日章旗は出征する人に対し、家族などが寄せ書きしますが、遺族会によりますと、學さんの旗にある寄せ書きは地元には無い名字であることから、戦地で戦友が書いた可能性があるということです。遺族に日章旗が返還されるのは妙高市内では初めて、県内でも2例目ではないかということです。
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古川さんは「自宅に(學さんの)石碑があり、お盆にお参りしていたが偉大さを痛感した。国のためにとはいえ命を捨てた。戦争はあってはならない」と話しました。
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妙高市遺族会は、市内にある戦没者の遺品などを探し当て、登録する取り組みを進めています。この日章旗も古川さんの理解を得て、活用させてもらえたらと話しています。
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遺族会の間島英夫会長は「語り部として(市内の中学校に)戦争の話をしている。(日章旗は)生きた教材として、切実に訴えることができる」としています。
https://www.joetsu.ne.jp/148686?fbclid=IwAR1uwTtTfiFotAY6ApPyFqPdHWWHWrfMnB2PbuB5YZ2FazChU67KQZkhmCo
盛岡市旧新田町(現夕顔瀬町)出身の戦没者・谷藤幸二郎さんの日章旗が、76年の時を経て、遺族の元に帰還した。日章旗は、出征者の無事を祈り直筆で署名やメッセージを寄せ書きしたもの。「祝・壮途 谷藤幸二郎君」「忠誠」「忠義は黙して行ふべし」「不死身」などの願いがしたためられていた。
幸二郎さんは、暁2948第三揚陸隊所属の陸軍兵長。1944年6月25日に、ニューギニア・ゲンエイムで戦死したという。
日章旗は、太平洋戦争時に米軍第5空軍の戦闘機パイロットだったラルフ・キッチンズさん(2017年10月逝去)が、沖縄で米陸軍兵士から譲り受けたもの。今回の返還は、娘のメアリー・ジョンソンさん=米国フロリダ在住=が父の遺志を受け継ぎ、オレゴン州の非営利組織OBONソサエティに依頼し、実現した。
OBONソサエティは、09年発足。欧米諸国を中心に、寄せ書きされた日の丸の持つ意味を正しく伝え、返還を通じた平和啓発に取り組んでいる団体。代表者はレックス・ジークさんと京都出身の敬子・ジークさん。
16年にメアリーさんから返還依頼を受け、旗の文字の書き起こしが行われた。
記されていた「新田町第一町内会」に着目し、捜索範囲を盛岡市に絞った。20年11月に市内関係機関に協力を依頼したことから、國雄さん、勝利さんが遺族であると判明した。
26日、市役所会議室で日章旗返還式が行われた。
谷藤裕明市長と、幸二郎さんのおいにあたる谷藤國雄さん(79)、佐藤勝利さん(77)、県遺族連合会の甘竹勝郎会長、盛岡市遺族会の工藤新悦会長、夕顔瀬町第一町内会の平野耕一郎会長が出席。谷藤市長から國雄さんに、幸二郎さんの出征を見届けた日章旗が手渡された。
谷藤市長は「遺留品である日章旗を76年の時を経てお返しでき、喜ばしい。温かい思いに感謝し、平和の尊さを継承したい」とあいさつした。
旗を受け取った國雄さんは「各団体のお力添えに深く感謝いたします」と謝意を示し、「御霊(みたま)と一緒に旗が帰ってきた。叔父の記憶はないが、若くして亡くなったと聞いていた。供養してあげたい」と感慨深げな面持ちで語った。
式では、レックスさん、敬子さん両代表とメアリーさんのビデオメッセージも紹介された。
メアリーさんは「戦争は恐ろしいもの。運よく父は帰ってこられた。幸二郎のこと、気の毒に思う。お返しできてよかった」とコメントを寄せた。
敬子さんは「(アメリカにも)日本の遺族の方を真摯(しんし)に思う方がいる。平和への歩みを進める第一歩となれば」と、友好と平和の継続を望んでいた。http://www.morioka-times.com/detail/?kijiid=626&fbclid=IwAR3mHmhVAP_jJdwapvfSH1tYi9QmrfvHgJ4viTQsMuXPYSmfRG2zlZ8HV_I
太平洋戦争でアメリカ兵が戦利品として持ち帰ったとみられる日章旗がインドネシアで戦死した岩手県盛岡市の男性のものであることがわかり、26日、遺族のもとに返還されました。
この日章旗は、昭和19年6月にインドネシアのニューギニア島で戦死した盛岡市の谷藤幸二郎さんのものです。
26日、盛岡市役所で返還式が行われ、谷藤市長から遺族の谷藤國雄さん(79)と佐藤勝利さん(77)に手渡されました。
日章旗は、アメリカの非営利団体がフロリダ州在住の元アメリカ兵の持ち主の娘から5年前に依頼を受けて調査を進めたところ、記載されていた地元の町内会の名称や寄せ書きをした親族の名前などから、幸二郎さんのものであることが判明したということです。
持ち主の娘、メアリー・ジョンソンさんは動画でメッセージを寄せ、「返還に時間を要し申し訳なく思っています。ご遺族の安らぎとなることを願っています」と話していました。
遺族の2人は、幸二郎さんの直接の記憶はないということですが、國雄さんは「幸二郎の母親の墓前には息子がみ霊とともに返ってきたよと報告しました。みなさんの協力に感謝しています」と話していました。
また、佐藤さんは「『青天の霹靂』とはまさにこのことだと思いました。よく返ってきたなというひと言に尽きます」と話していました。
日章旗の返還に取り組むアメリカの非営利団体「OBONSOCIETY」などによりますと、太平洋戦争中、日本兵が持っていた日章旗は戦利品としてアメリカ兵が持ち帰ることが多かったということです。
この団体では日本遺族会などと連携して子や孫などから譲り受けた日章旗を遺族に返還する活動を12年前から行っています。
アメリカ国内での活動の浸透もあり、これまでにおよそ400枚が遺族の元に返還されたということです。
去年は新型コロナウイルスの影響で外出を控えた人が倉庫などを片付けていた際に偶然発見し、返還を希望するケースもあったということです。https://www3.nhk.or.jp/lnews/morioka/20210426/6040010570.html?fbclid=IwAR1CdGPiaP2X_2Ex6G1GGpAG8d9zLoAswtt7Syvzqq1yJviYW4DuqNwUnYg
太平洋戦争で戦死した盛岡市出身者の名前が記された日章旗がアメリカで見つかり、26日、遺族に引き渡されました。
こちらが盛岡市出身の戦没者、谷藤幸二郎さんの名前が記された日章旗です。26日は盛岡市の谷藤市長が市内に住む遺族2人に旗を手渡しました。谷藤さんは太平洋戦争に従軍し、1944年6月にパプアニューギニアで戦死しました。旗は出征前に名前が書き入れられたもので、戦後は元アメリカ兵が保管していました。その家族が返還のため遺族を探していたところ、去年判明し、終戦から75年あまりの時を経て遺族のもとに戻りました。幸二郎さんの甥にあたる佐藤勝利さんは「青天の霹靂だった。良く帰ってきたという気持ちです」と話していました。https://news.ibc.co.jp/item_42751.html
戦争遺留品返還式/令和3年2月9日(火)
戦争遺留品の返還式が滋賀県公館で開催されました。
このたび、県内3名の方の戦争遺留品が御遺族に返還されることになりました。本市では、故山田芳蔵様の日章旗が、戦後75年の時を越えて返還されることになり、大変喜ばしいことであります。今回の返還式に立ち会えたことで、戦争の無い平和な世界を築くことの大切さを改めて感じました。戦没者の皆様に追悼の誠を捧げますとともに、御霊の安らかならんことをお祈りします。
http://www.city.higashiomi.shiga.jp/0000012874.html
滋賀報知新聞 2021年3月09日(火)
【寄稿】滋賀県知事 三日月 大造
「健康しが」をめざして 平和への誓いを新たに暦では5日が「啓蟄(けいちつ)」。まだまだ寒い日もありますが、少しずつ、日差しの中に春の気配が感じられるようになってきました。
春は別れと出会いの季節です。コロナとともに、コロナを乗り越え、新たな一歩を踏み出せるよう、一日一日を大切に過ごしてまいりたいと思います。
さて、先日、滋賀県公館において、「戦争遺留品返還式」が執り行われ、私も立会させていただきました。
今回、滋賀県ご出身である三名の方の遺留品が、関係の皆様のご尽力により、ふるさとへ戻ってまいりました。出征にあたり、多くの方から寄せ書きされた日章旗、日々の行動記録が記された軍隊手帳を、私から、ご遺族の皆様にお返しさせていただきました。戦後七十五年を経て、ふるさと滋賀へ戻ってこられた御英霊の御霊に、改めて心より哀悼の誠を捧げます。
「戦争遺留品返還式」にて。戦争の悲惨さ、平和の尊さを痛感しました。
返還式では、滋賀県遺族会相談役の國松善次元知事より、「これらの遺品は無言ではあるが、戦争の悲惨さ、平和の尊さ、友好の大切さを、誰よりも何よりも訴える力をもっている。ぜひ次の世代に伝えてほしい」とのメッセージをいただきました。改めて、滋賀県知事として、このことを深く心に刻みたいと思います。
戦争体験の風化が懸念される今日、二度と戦争の惨禍を繰り返さないために、私たちは、先の大戦において国内外で犠牲になった人びとに思いを寄せ、戦争の悲惨さや平和の尊さを学び続けなければなりません。
東近江市に滋賀県平和祈念館を開設してから、来年で十周年を迎えます。これまでに収集した資料は四万点以上。また、二千人以上の方に戦争体験などを語っていただきました。貴重な資料や証言から紡ぎ出される平和への願い。この思いをしっかりと受け止め、次の世代へ語り継いでいくことが私たちの使命です。
平和と友好の輪が世界に広がるよう、頑張りましょう、共に…。
http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0033611&fbclid=IwAR2vb2nIQblTH4a2QA1r9CVgodfLAG2bG_VTdazxL1m6VPEtftasO4CR9FA
1枚目 米国から戻ってきた日章旗や軍隊手帳を持つ遺族ら=2021年2月9日、大津市京町4丁目の県公館 2枚目 遺族に返還された軍隊手帳=大津市京町4丁目 3枚目 軍隊手帳を見せる遺族=大津市京町4丁目 4枚目 米国から戻ってきた軍隊手帳をのぞき込む遺族ら=2021年2月9日、大津市京町4丁目の県公館 5枚目 返還された日章旗などの遺留品を掲げ、三日月大造知事と記念撮影する遺族ら=2021年2月9日
寄せ書き入りの日章旗など、太平洋戦争や満州事変に出征して亡くなった3人の遺留品が9日、滋賀県公館で遺族らに返還された。米軍兵士が戦地から持ち帰るなどして米国にあったもので、返還活動を続けるオレゴン州のボランティア団体「OBON(オボン)ソサエティ」と県遺族会の協力で実現した。
遺留品は計3点。日章旗が2点あり、サイパン島で戦死した岡田勘平さん=米原市=とフィリピン・レイテ島で戦死した山田芳蔵さん=東近江市=のものだったという。もう1点は、満州事変に出征して帰国後に亡くなった辻英次さん=甲賀市=の軍隊手帳。
このうち山田芳蔵さんの日章旗は、東近江市の元健康福祉部長、山田明宏さん(61)が受け取った。数年前に同市で返還式に携わったことがあり、「まさか自分が受け取る側になるとは」と驚いていた。
芳蔵さんは、明宏さんの祖父の弟。遺骨は戻っておらず、明宏さんは「若くして戦死してかわいそうだった」と語る祖父の姿を覚えている。「こういう形で故郷に帰ってこれた。祖父が生きていたらどれほど喜んだことか。ゆっくり休んでほしい」と話した。
辻英次さんの軍隊手帳には、日々の行動などがきれいな字できちょうめんに書かれていた。英次さんの兄の孫、善明さん(56)が受け取った。
英次さん兄弟は、善明さんの祖父も含め3人が戦死した。善明さんの祖母も約20年前に亡くなり、当時のことはよくわかっていない。善明さんは「親戚と手帳を読んで、どういういきさつだったか考えてみたいです」と語った。
小学1年生のときに父が戦死し、現在は県遺族会とOBONソサエティの橋渡し役を務めている国松善次元知事(82)は「返還された品々は無言だが、戦争の悲惨さ、平和の尊さ、そして友好の大切さを雄弁に語っている。次の世代にぜひ伝えてほしい」と話した。
https://www.asahi.com/articles/ASP2K71W4P29PTJB009.html?iref=pc_photo_gallery_bottom
70年以上の時を経て遺族に返還された日章旗などの戦争遺留品(大津市京町4丁目・県公館)
太平洋戦争に出征した滋賀県内の兵士の遺留品がこのほど、遺族に返還された。武運の祈りを込めて寄せ書きされた日章旗などを手にした遺族は戦没者に思いをはせ、70年以上を経ての帰還に、静かに喜びをかみしめた。
遺留品を遺族に返す活動をする米国の非営利団体「OBON SOCIETY(オボン ソサエティー)」から昨年9~11月、米国の兵士らが持っていた遺留品3点の情報提供があり、滋賀県遺族会が調査し遺族を特定。大津市の県公館で9日、返還式があった。
滋賀県東近江市の山田明宏さん(61)は「武運長久」などと書かれた大叔父芳蔵さんの日章旗を受け取った。フィリピン・レイテ島で戦死し、祖父からは「遺骨も帰ってきてないし実際いつ亡くなったかも分からない」と聞かされていたという。「大叔父もようやく古里に帰って来られたことを喜んでいるのではないか」と話した。
満州などに赴くも病気で除隊、帰国後まもなく亡くなった辻英次さんが、戦地で紛失したと思われる軍隊手帳には、丁寧な楷書で自身の軍歴などが記されていた。大おい善明さん(56)=滋賀県湖南市=は「面識はないがきっちりとした人だったと読み取れる」と故人の人柄に思いをはせた。
サイパンで戦死した岡田勘平さんの日章旗も返還され、遺族代理として米原市遺族会会長が受け取った。
滋賀県遺族会の大長弥宗治会長は「亡くなられた方の何としても古里の土を踏みたいという願いが遺留品に伝わったのだろう。遺族の皆さんには持ち帰ってご先祖にお供えし、ご報告いただければ幸い」と述べた。
元記事 https://this.kiji.is/733868290969812992?c=39546741839462401
辻さんの軍隊手帳を受け取った善明さん(中)山田さんの日章旗を受け取った明宏さん(右)ら=県公館で
76年ぶり…「戦争遺留品」が遺族へ返還
下記URLに動画あり https://www.ktv.jp/news/articles/23aaa167_b430_4403_9681_e9922aee3b6d.html
太平洋戦争で、アメリカ兵などが持ち帰った日章旗が、滋賀県に住む遺族へ76年ぶりに返還されました。
返還された日章旗には、家族や友達の思いが書き込まれています。
この日章旗は、太平洋戦争でアメリカ兵が自国に持ち帰ったもので、10年以上前からアメリカのNPO団体が、日本兵の遺族に返還する活動を続けています。
9日、フィリピンのレイテ島で戦死した日本兵が持っていた日章旗などが、滋賀県に住む遺族へ76年ぶりに返還されました。
【遺留品を受け取った遺族・山田明宏さん】
「まずはお仏壇へお供えさせていただいて、当分の間、家族で見守っていきたい」
NPO団体では、他にも多くの日章旗を集めていて、持ち主の遺族を探しています。
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