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4月8日石川県能美市にて同町出身の海軍兵士「田端秀雄 命」の日章旗が石川県遺族連合会から兵士の甥である「田端駿一」さんに返還されました。返還の様子を北國新聞が記事にしてくださいました。
右近恒雄命の義理の息子にあたる市名豊治さん
子供たちを想いカタカナで綴られた葉書
捜索班の工藤です。令和4年4月3日、硫黄島で散華された日本海軍兵士「右近恒雄 命」の遺留品をご遺族へ返還する為、北海道の美深町を訪れました。
遺留品は「右近恒雄 命」が郷里に住む5人の子供たちへ宛てた葉書でした。葉書には幼い子供たちに「仲良く、病気や怪我に気を付け勉強に励み叔母さんの言う事を聞くのですよ」と全文がカタカナで綴られてありました。
返還を受けられたのは兵士の末娘、御年83歳になられる「恒子」さんでした。しかしながら恒子さんは返還の数日前に怪我をされて入院されており、代わりに恒子さんのご主人が葉書を受け取られました。ご夫妻の住まわれる高齢者施設へは昨今のコロナ過という事もあり、入室が制限されてあるため返還は施設の玄関風除室で行われました。職員さんが風除室に椅子を用意して下さりそこで膝を突き合わせ、風呂敷の上で行われた小さなセレモニーでした。
風呂敷から取り出した葉書を見られたご主人は「子供たちが読めるように全部カタカナで書いたんですね」と義理の父の、子を思う優しさを感じていたようでした。OBONからは当会からのメッセージと、遺留品の提供者である米国フロリダ州在住の「マージョリー・ダネヒー」さんからのお手紙についてお話しました。
この時期の北海道は4月とは言え外気温は7度ほど、風除室も外とたいして変わらない温度なので長居は出来ないと判断しなるべくショートカットで進めました。私からは恒雄さんが硫黄島警備隊に配属されており葉書に記された記号などから、恒雄さんは摺鉢山での戦いに参戦されていたであろうこと。戦没日の3月17日は日本軍が上陸した米軍に対し総攻撃を開始した日である事。遺留品の葉書は恒雄さんが郵便としてだされた後に接収された事などOBONの調査で判明した事をお話しました。ご主人はずっと葉書を手に持ち見つめながら話を聞かれていました。私から「恒子さんはこの返還について何かおっしゃてましたか」とお聞きしました。「きっとこの葉書を手にしたら話してくれると思う」と仰ってました。またご主人はゆっくりと口を開き「5人兄妹でね、戦争でお父さんをなくしてからはお母さんが一人で布団屋さんを切り盛りして子供たちを育てたんだよ。布団の修理とか打ち直しなんかをね一人でやってね。。お父さんが硫黄島で戦死した。。。」ここから泣き崩れてしまいその言葉は聞き取れませんでしたが、きっと恒子さんから幼い頃の話を聞いておられたのでしょうか、それともこの世代の皆さんが一様に経験した戦争という悲劇を思い返されていたのでしょうか。そんな色んな感情の混ざった涙だったと感じました。
恒雄命の子供たちは恒子さんを含め3人がご存命で、この返還を待ち望んでおられると仰ってました。色々と落ち着いたらきっと皆で集まりお披露目したいとお話されていました。
この度の返還、誠におめでとうございました。
終戦からことしで77年となる中、アメリカ兵が持ち帰った日本兵の遺品が、滋賀県の遺族に返還されました。
家族や友人の思いが書き込まれた日章旗。太平洋戦争で戦地に向かう兵士に託されました。
これらはアメリカ兵が自国に持ち帰っていたもので、アメリカのNPO団体が遺族に返還する活動を続けていて、26日は日章旗3枚が遺族に返されました。
フィリピンのレイテ島で20歳で戦死した大継昇さんの旗は、おいの井上準一さんが受けとりました。
【井上準一さん(71)】
「20歳で亡くなるという戦争の怖さ。ウクライナの戦争で本当にわが身にこう迫ってくるというか。もしまた日本で戦争があったら…もうやめて欲しいという気持ちです」
NPO団体は日章旗などを多く集めていて、持ち主の遺族を探しています。
【動画あり】
https://news.yahoo.co.jp/articles/ada659d0f624c75a6441d6c540168ec39cf3b344?fbclid=IwAR1PrXcdIeoP-rxwxIaqCwe8vKfuLLPWDlXNYiLRw7nNJOjjwlU1iA7gfyI
【滋賀】太平洋戦争に出征した人らが戦地などに持って行った日章旗の所有者3人が分かり、2月27日に大津市で遺族への返還式があった。いずれも米国にあったもので、戦後77年を経て太平洋を越えて滋賀に戻ってきた。返還活動を続けるオレゴン州のボランティア団体「OBONソサエティ」と県遺族会の協力で実現した。
3人は長浜市の吉田元弘さん(享年75)、東近江市の布施長左衛門さん(同72)、湖南市の大継昇さん(同21)。
3枚の日章旗はいずれも「武運長久」の文字と、出征者の名前、知人と思われる人たちの名前が記されている。当時、出征する兵士に故郷の人たちが贈るのが習わしだった。何らかの方法で、米兵らが戦地などから米国に持ち帰ったものという。
吉田元弘さんの日章旗は、長男の源市さん(67)が受け取った。元弘さんは中国大陸に出征したが、生前は戦争の話をほとんどしなかったという。「つらい思いをしたんだと思う。まさかこんなものが残っているとは思っていなかった」
今年、27回忌の法要を予定している。子や孫に日章旗を見せることを考えている。源市さんは「平和の大切さを伝えたいと思います」と話した。
布施長左衛門さんの日章旗は、長男の吉蔵さん(66)が受け取った。長左衛門さんは広島県呉市の軍港で勤務していた。「軍艦のメンテナンスなどをしていたと聞いたことがある。なぜ日章旗がアメリカにあったのか不思議だ」と首をかしげる。
軍服姿の写真が残っているが、戦争の話はあまり聞かなかった。戦後は農業や大工の仕事に打ち込んでいたといい、父の在りし日を懐かしんでいた。
大継昇さんの日章旗は、おいの井上準一さん(71)が受け取った。井上さんは大継さんの死後に生まれたので面識はないが、親類から「列車の窓から手を振って泣きながら出征していった」という話を聞かされたことはある。
大継さんはフィリピンのレイテ島で亡くなった。「70年以上たって日本に旗が帰ってくるなんて、感無量です。信じられません」と驚いていた。(奥平真也)
https://www.asahi.com/articles/ASQ317L0CQ2WPTJB001.html?iref=pc_photo_gallery_bottom
終戦からことしで77年となる中、アメリカ兵が持ち帰った日本兵の遺品が、滋賀県の遺族に返還されました。
家族や友人の思いが書き込まれた日章旗。太平洋戦争で戦地に向かう兵士に託されました。
これらはアメリカ兵が自国に持ち帰っていたもので、アメリカのNPO団体が遺族に返還する活動を続けていて、26日は日章旗3枚が遺族に返されました。
フィリピンのレイテ島で20歳で戦死した大継昇さんの旗は、おいの井上準一さんが受けとりました。
【井上準一さん(71)】
「20歳で亡くなるという戦争の怖さ。ウクライナの戦争で本当にわが身にこう迫ってくるというか。もしまた日本で戦争があったら…もうやめて欲しいという気持ちです」
NPO団体は日章旗などを多く集めていて、持ち主の遺族を探しています。
【動画あり】https://news.yahoo.co.jp/articles/ada659d0f624c75a6441d6c540168ec39cf3b344?fbclid=IwAR1PrXcdIeoP-rxwxIaqCwe8vKfuLLPWDlXNYiLRw7nNJOjjwlU1iA7gfyI
旧日本兵の日章旗、米から遺族のもとへ 大津で返還式
太平洋戦争時に戦地に赴くなどした県内出身の旧日本兵三人の遺品の日章旗が、遺族の元に返還された。二十七日、大津市におの浜のアヤハレークサイドホテルで県遺族会主催の返還式があり、三日月大造知事が遺族三人に日章旗を手渡した。
写真:遺品の日章旗を受け取った遺族ら=大津市におの浜のアヤハレークサイドホテルで
日章旗の返還を都竹市長(左)に報告した橋詰克也さん(中)ら=飛騨市役所で
戦死した祖父の遺品、祖国へ 神岡の橋詰さん、米団体から日章旗返還
第二次世界大戦で戦死した、飛騨市神岡町の橋詰運平(かずへい)さんの遺品の日章旗が一月下旬、米国のNPO団体「OBONソサエティ」から、孫にあたる同町の橋詰克也さん(58)の元に返還された。
運平さんは一九一二年生まれで、四四年七月十八日にサイパン島で戦死。運平さんの遺品はなく、長男で克也さんの父の哲雄さんも、四年ほど前に亡くなったという。
遺品の日章旗は、米国人が保管しており、旧日本兵の遺留品返還に取り組む同団体が遺族を探していた。飛騨市遺族連合会を通じて連絡を受けた克也さんが、受け取りを希望して、返還が実現した。返還された旗には「必勝」などの文字とともに、当時の区長や住民らの氏名およそ六十四人分が書かれている。
今月二十五日には、克也さんと市遺族連合会の水谷兼太郎会長代行が市役所を訪れ、都竹淳也市長に経緯を報告。日章旗を見た都竹市長は「八十年近くたっても、戻ってくるのがすごい。(旗から)思いを感じる」と話した。
克也さんは「『こんなことがあるんや』と、信じられない気持ちでいっぱい」と思いを吐露。運平さんの長女・道子さんが現在、愛知県春日井市に住んでいるといい「まず、春日井に送って見てもらい、春になったらお墓参りをしたい」と話した。
https://www.chunichi.co.jp/article/425126
Navy vet’s daughter returns Japanese flag taken as war trophy from Battle of Okinawa.
TOKYO — A Japanese flag, brought to America by a U.S. Navy sailor from the Battle of Okinawa, has been returned to the family of the soldier who carried it into battle more than three quarters of a century ago.
The signature-covered flag, brought home from the war by James Ellis Mercer, was returned by his daughter Linda Hahn, 72, of Concord, Calif.
Many Japanese soldiers carried the red and white flags inscribed with names and messages from family and friends for good luck.
The flag was accepted by Yoshinori Goto, 45, of Oita city, the grandson of Kesaji Goto, a Japanese Imperial Army soldier who carried the flag and died July 1, 1945, on Okinawa. The ceremony, which Hahn didn’t attend, took place Jan. 16 at the Gokoku Shrine in Oita.
Mercer, a machinist’s mate from Goodland, Kan., served aboard the seaplane tender USS Bering Strait. The warship supported aircraft that rescued dozens of downed airmen and sailors from stricken vessels during the Battle of Okinawa from April to June 1945.
The flag was folded inside an album of war photographs left by Mercer, who died in 2003 at age 83, Hahn said in a telephone interview Wednesday.
The family knew he served on Okinawa but not many other details of his wartime experience.
“He never talked about it,” Hahn said. “I don’t think it was a real happy time for him.”
After the war, Mercer set up a machine shop and worked on heavy vehicles such as forklifts and trucks, she said.
A retired bank employee and mother of one, Hahn contacted the Obon Society in September after hearing about their work from a friend. The nonprofit group helps veterans and their families return old war trophies like flags and swords.
“I thought in my heart that if the situation were reversed and it was my son who was getting something from my father, I would want that,” she said.
The society tracked down Kesaji Goto’s relatives within a couple of months. Goto was from Fujiwara village in Oita prefecture. His name is written on the flag in kanji characters.
“I am thankful that they had kept it until now and even decided to return it,” Yoshinori Goto, an employee of the Oita prefectural government, told Stars and Stripes by phone.
Kesaji Goto died in his early 30s and left behind a wife and 1-year-old son, his grandson said.
The family tomb includes an engraving of Kesaji Goto’s name. So does a monument at the Peace Memorial Park on Okinawa, Yoshinori Goto said.
The family kept a photo of their fallen relative but didn’t talk about him a lot. It was a surprise when the War-Bereaved Families Association contacted them about the flag, he said.
Some Japanese relatives of war dead, citing little or no connection with the original owners, decline to receive returned flags, but Goto had no hesitation accepting it, he said.
The news was “a bolt out of the blue,” he said. “I definitely wanted to receive it.”
The flag includes his father’s name, Shoji Goto, between his grandparents’ names.
“This shows that my father was either born or at least his name was picked when my grandfather went to war,” he said.
The flag’s return gave him a chance to talk about his grandfather with his children, he said.
“I hope people will take an opportunity to think about peace,” Yoshinori Goto said.
Although he had seen a photograph of the flag before receiving it, it felt different touching it, he said. “It tells a story,” he said. “I felt the soul of my grandfather.”
HANA KUSUMOTO - https://www.stripes.com/theaters/asia_pacific/2022-02-03/japanese-flag-return-battle-of-okinawa-us-navy-world-war-ii-4571775.html?fbclid=IwAR1dUu7qKMExYMkOPGvNQ-942W0H0sBxP2GlkzKJWCpC51-HDNxiWbmycwI
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