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OBON捜索班手記/北海道美深町で戦没者遺留品を返還(Returning the remains of the war dead in Bifuka-cho, Hokkaido)

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右近恒雄命の義理の息子にあたる... 右近恒雄命の義理の息子にあたる市名豊治さん 子供たちを想いカタカナで綴られ... 子供たちを想いカタカナで綴られた葉書
捜索班の工藤です。令和4年4月3日、硫黄島で散華された日本海軍兵士「右近恒雄 命」の遺留品をご遺族へ返還する為、北海道の美深町を訪れました。

遺留品は「右近恒雄 命」が郷里に住む5人の子供たちへ宛てた葉書でした。葉書には幼い子供たちに「仲良く、病気や怪我に気を付け勉強に励み叔母さんの言う事を聞くのですよ」と全文がカタカナで綴られてありました。

返還を受けられたのは兵士の末娘、御年83歳になられる「恒子」さんでした。しかしながら恒子さんは返還の数日前に怪我をされて入院されており、代わりに恒子さんのご主人が葉書を受け取られました。ご夫妻の住まわれる高齢者施設へは昨今のコロナ過という事もあり、入室が制限されてあるため返還は施設の玄関風除室で行われました。職員さんが風除室に椅子を用意して下さりそこで膝を突き合わせ、風呂敷の上で行われた小さなセレモニーでした。

風呂敷から取り出した葉書を見られたご主人は「子供たちが読めるように全部カタカナで書いたんですね」と義理の父の、子を思う優しさを感じていたようでした。OBONからは当会からのメッセージと、遺留品の提供者である米国フロリダ州在住の「マージョリー・ダネヒー」さんからのお手紙についてお話しました。

この時期の北海道は4月とは言え外気温は7度ほど、風除室も外とたいして変わらない温度なので長居は出来ないと判断しなるべくショートカットで進めました。私からは恒雄さんが硫黄島警備隊に配属されており葉書に記された記号などから、恒雄さんは摺鉢山での戦いに参戦されていたであろうこと。戦没日の3月17日は日本軍が上陸した米軍に対し総攻撃を開始した日である事。遺留品の葉書は恒雄さんが郵便としてだされた後に接収された事などOBONの調査で判明した事をお話しました。ご主人はずっと葉書を手に持ち見つめながら話を聞かれていました。私から「恒子さんはこの返還について何かおっしゃてましたか」とお聞きしました。「きっとこの葉書を手にしたら話してくれると思う」と仰ってました。またご主人はゆっくりと口を開き「5人兄妹でね、戦争でお父さんをなくしてからはお母さんが一人で布団屋さんを切り盛りして子供たちを育てたんだよ。布団の修理とか打ち直しなんかをね一人でやってね。。お父さんが硫黄島で戦死した。。。」ここから泣き崩れてしまいその言葉は聞き取れませんでしたが、きっと恒子さんから幼い頃の話を聞いておられたのでしょうか、それともこの世代の皆さんが一様に経験した戦争という悲劇を思い返されていたのでしょうか。そんな色んな感情の混ざった涙だったと感じました。

恒雄命の子供たちは恒子さんを含め3人がご存命で、この返還を待ち望んでおられると仰ってました。色々と落ち着いたらきっと皆で集まりお披露目したいとお話されていました。

この度の返還、誠におめでとうございました。
#flagreturn #navy #obonsociety #obonソサエティ #pacificwar #soldier #ww2 #北海道 #大東亜戦争 #太平洋戦争 #寄せ書き日の丸 #戦没者 #日章旗返還 #海軍 #硫黄島からの手紙 #美深町 #英霊 #護国神社

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OBON捜索班手記/北海道津別町で戦没者遺留品を返還(Returning the remains of the war dead in Tsubetsu-cho, Hokkaido)

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返還された政雄命遺留品 返還された政雄命遺留品 政雄命の甥「大東邦博」さんと奥... 政雄命の甥「大東邦博」さんと奥様 大東政雄命 大東政雄命 大東家(本家)のお仏壇 大東家(本家)のお仏壇 返還へ 返還へ
OBONソサエティ捜索班の工藤です。令和4年3月6日に硫黄島で散華された日本帝国海軍上等兵【大東政雄 命】の遺留品をご遺族に返還する為、北海道は津別町へ行って来ました。この度の遺留品は、兵士の従弟が政雄命に宛てた【手紙】でした。手紙には戦地へ向かった政雄命を励まし、政雄命のお父様が普段と変わらずに仕事をしている様子や、共通の友人の近況などが綴られていました。

一ー留守宅の父上始 皆健匠(健勝?)ですよ 此の点大安心下さい小生も君の留守中叔父様の身体に付いて心配していましたが精神力の更止(向上?)のためか 殆ど休んでいられる様子は有りません 相変ず一ヶ月七十束からの発送品を一手に引き受けて大いに頑張っていられます。此の様を見るに付け 政雄君のあのたくましい体で毎日元気で製材出しをして居た様子が目に見へます。

ーー自分達の原木□も益々勇壮で毎日十台から二十台位の到着原木で駅のホームを賑ぎやかにして居ります。自分達の班より過日 日原 田中の両名が海軍へ入団しました。何れも□□の年輩者です。松下工場も益々拡張され第二工場 製材工場等も建築されました。□身隊の寮も立派に出来上りました。原木は電気ウインチで物凄く髙巻きして居ります。二□酉の市も過ぎ二頭共最高で売りました。戦争は刻一刻吾本土に近づいて参りましたーー※「□」は判読不明の文字

兵士と手紙の差出人の大東剛さんは故郷では年も近く大変仲の良い間柄だったのではと読み取れます。大東家は北海道に移住してきて政雄命の代で四代目となられ、家業の林業に従事し町の発展に大きく寄与されてきたそうです。8人兄妹の長男として生まれ、当主となるべく成長した政雄命ですが、昭和16年に海軍に入隊。昭和20年に激戦の地【硫黄島】の警備任務に就かれました。きっとこの銃後からの手紙を肌身離さず、故郷を思って戦われたのだと思うとこみあげるものがあります。記録では政雄命の戦没日は昭和20年3月17日とあります。これは栗林中将が硫黄島に残る残存兵力を集結し、米軍に最後の攻撃を仕掛けた日です。水も食料もない中、手紙に書かかれた「~戦争は刻一刻吾本土に近づいて参りました~」これを阻止すするために戦われたのだと。

政雄命には年の離れた弟さんがいらっしゃいますが、ご遺族のご意向で「手紙」の返還を受けたのは本家の8代目を継がれた甥御様「大東邦博」様でした。邦博さんは「叔父(兵士弟)ともよく話し合って、この手紙は墓も仏壇もある本家で丁重に受取り、伝えていきたい」と仰っておられました。「当時政雄さんの遺骨や遺品は何も戻って来ず、石ころだけが白箱に納められて帰ってきたと聞いています。この手紙を叔父の遺骨として納骨しお寺で法要してもらう事になっています」との事。

この度の返還誠におめでとうございます。 https://www.facebook.com/OBONSOCIETY/posts/4849117658474787
#flagreturn #navy #obonsociety #obonソサエティ #pacificwar #soldier #ww2 #北海道 #大東亜戦争 #太平洋戦争 #寄せ書き日の丸 #戦没者 #日章旗返還 #津別町 #海軍 #硫黄島 #硫黄島からの手紙 #英霊 #護国神社

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関テレ/日本兵の遺品が遺族の元へ アメリカ兵が持ち帰っていた日章旗を返還 滋賀・大津市(Japanese TV News featured flag return in Shiga)

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関テレ/日本兵の遺品が遺族の元...
終戦からことしで77年となる中、アメリカ兵が持ち帰った日本兵の遺品が、滋賀県の遺族に返還されました。

家族や友人の思いが書き込まれた日章旗。太平洋戦争で戦地に向かう兵士に託されました。

これらはアメリカ兵が自国に持ち帰っていたもので、アメリカのNPO団体が遺族に返還する活動を続けていて、26日は日章旗3枚が遺族に返されました。

フィリピンのレイテ島で20歳で戦死した大継昇さんの旗は、おいの井上準一さんが受けとりました。

【井上準一さん(71)】
「20歳で亡くなるという戦争の怖さ。ウクライナの戦争で本当にわが身にこう迫ってくるというか。もしまた日本で戦争があったら…もうやめて欲しいという気持ちです」

NPO団体は日章旗などを多く集めていて、持ち主の遺族を探しています。
【動画あり】
https://news.yahoo.co.jp/articles/ada659d0f624c75a6441d6c540168ec39cf3b344?fbclid=IwAR1PrXcdIeoP-rxwxIaqCwe8vKfuLLPWDlXNYiLRw7nNJOjjwlU1iA7gfyI
#army #flagreturn #japanesflag #navy #obonsociety #obonソサエティ #pacificwar #soldier #ww2 #ガダルカナル島 #大東亜戦争 #太平洋戦争 #寄せ書き日の丸 #戦没者 #日章旗返還 #英霊 #護国神社 #陸軍

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朝日新聞/出征の日章旗3枚、遺族の元へ(Japanese Newspaper featured flag return in Shiga)

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朝日新聞/出征の日章旗3枚、遺... 朝日新聞/出征の日章旗3枚、遺... 朝日新聞/出征の日章旗3枚、遺...
【滋賀】太平洋戦争に出征した人らが戦地などに持って行った日章旗の所有者3人が分かり、2月27日に大津市で遺族への返還式があった。いずれも米国にあったもので、戦後77年を経て太平洋を越えて滋賀に戻ってきた。返還活動を続けるオレゴン州のボランティア団体「OBONソサエティ」と県遺族会の協力で実現した。

3人は長浜市の吉田元弘さん(享年75)、東近江市の布施長左衛門さん(同72)、湖南市の大継昇さん(同21)。

3枚の日章旗はいずれも「武運長久」の文字と、出征者の名前、知人と思われる人たちの名前が記されている。当時、出征する兵士に故郷の人たちが贈るのが習わしだった。何らかの方法で、米兵らが戦地などから米国に持ち帰ったものという。

吉田元弘さんの日章旗は、長男の源市さん(67)が受け取った。元弘さんは中国大陸に出征したが、生前は戦争の話をほとんどしなかったという。「つらい思いをしたんだと思う。まさかこんなものが残っているとは思っていなかった」

今年、27回忌の法要を予定している。子や孫に日章旗を見せることを考えている。源市さんは「平和の大切さを伝えたいと思います」と話した。

布施長左衛門さんの日章旗は、長男の吉蔵さん(66)が受け取った。長左衛門さんは広島県呉市の軍港で勤務していた。「軍艦のメンテナンスなどをしていたと聞いたことがある。なぜ日章旗がアメリカにあったのか不思議だ」と首をかしげる。

軍服姿の写真が残っているが、戦争の話はあまり聞かなかった。戦後は農業や大工の仕事に打ち込んでいたといい、父の在りし日を懐かしんでいた。

大継昇さんの日章旗は、おいの井上準一さん(71)が受け取った。井上さんは大継さんの死後に生まれたので面識はないが、親類から「列車の窓から手を振って泣きながら出征していった」という話を聞かされたことはある。

大継さんはフィリピンのレイテ島で亡くなった。「70年以上たって日本に旗が帰ってくるなんて、感無量です。信じられません」と驚いていた。(奥平真也)

https://www.asahi.com/articles/ASQ317L0CQ2WPTJB001.html?iref=pc_photo_gallery_bottom
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関テレ/日本兵の遺品が遺族の元へ アメリカ兵が持ち帰っていた日章旗を返還 滋賀・大津市(Japanese Newspaper featured flag return in Shiga)

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関テレ/日本兵の遺品が遺族の元...
終戦からことしで77年となる中、アメリカ兵が持ち帰った日本兵の遺品が、滋賀県の遺族に返還されました。

家族や友人の思いが書き込まれた日章旗。太平洋戦争で戦地に向かう兵士に託されました。

これらはアメリカ兵が自国に持ち帰っていたもので、アメリカのNPO団体が遺族に返還する活動を続けていて、26日は日章旗3枚が遺族に返されました。

フィリピンのレイテ島で20歳で戦死した大継昇さんの旗は、おいの井上準一さんが受けとりました。

【井上準一さん(71)】
「20歳で亡くなるという戦争の怖さ。ウクライナの戦争で本当にわが身にこう迫ってくるというか。もしまた日本で戦争があったら…もうやめて欲しいという気持ちです」

NPO団体は日章旗などを多く集めていて、持ち主の遺族を探しています。

【動画あり】https://news.yahoo.co.jp/articles/ada659d0f624c75a6441d6c540168ec39cf3b344?fbclid=IwAR1PrXcdIeoP-rxwxIaqCwe8vKfuLLPWDlXNYiLRw7nNJOjjwlU1iA7gfyI
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京都新聞/旧日本兵の日章旗、米から遺族のもとへ 大津で返還式(Japanese Newspaper featured flag return in Shiga)

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京都新聞/旧日本兵の日章旗、米...
旧日本兵の日章旗、米から遺族のもとへ 大津で返還式
太平洋戦争時に戦地に赴くなどした県内出身の旧日本兵三人の遺品の日章旗が、遺族の元に返還された。二十七日、大津市におの浜のアヤハレークサイドホテルで県遺族会主催の返還式があり、三日月大造知事が遺族三人に日章旗を手渡した。 
写真:遺品の日章旗を受け取った遺族ら=大津市におの浜のアヤハレークサイドホテルで
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中日新聞/戦死した祖父の遺品、祖国へ 神岡の橋詰さん、米団体から日章旗返還(Japanese Newspaper featured flag return in Gifu)

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日章旗の返還を都竹市長(左)に... 日章旗の返還を都竹市長(左)に報告した橋詰克也さん(中)ら=飛騨市役所で
戦死した祖父の遺品、祖国へ 神岡の橋詰さん、米団体から日章旗返還


 第二次世界大戦で戦死した、飛騨市神岡町の橋詰運平(かずへい)さんの遺品の日章旗が一月下旬、米国のNPO団体「OBONソサエティ」から、孫にあたる同町の橋詰克也さん(58)の元に返還された。

 運平さんは一九一二年生まれで、四四年七月十八日にサイパン島で戦死。運平さんの遺品はなく、長男で克也さんの父の哲雄さんも、四年ほど前に亡くなったという。

 遺品の日章旗は、米国人が保管しており、旧日本兵の遺留品返還に取り組む同団体が遺族を探していた。飛騨市遺族連合会を通じて連絡を受けた克也さんが、受け取りを希望して、返還が実現した。返還された旗には「必勝」などの文字とともに、当時の区長や住民らの氏名およそ六十四人分が書かれている。

 今月二十五日には、克也さんと市遺族連合会の水谷兼太郎会長代行が市役所を訪れ、都竹淳也市長に経緯を報告。日章旗を見た都竹市長は「八十年近くたっても、戻ってくるのがすごい。(旗から)思いを感じる」と話した。

 克也さんは「『こんなことがあるんや』と、信じられない気持ちでいっぱい」と思いを吐露。運平さんの長女・道子さんが現在、愛知県春日井市に住んでいるといい「まず、春日井に送って見てもらい、春になったらお墓参りをしたい」と話した。 

https://www.chunichi.co.jp/article/425126
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NHK【戦跡】79年ぶりに帰ってきた兄ちゃん(NHKfeatured flag return in KITAMI HOKKAIDO )

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北見市に住む中股かず子さん 北見市に住む中股かず子さん 学生時代の新江繁規さん 学生時代の新江繁規さん 新江さんと許嫁 新江さんと許嫁 NHK【戦跡】79年ぶりに帰っ... 1942年のガダルカナル島 1942年のガダルカナル島 NHK【戦跡】79年ぶりに帰っ... 新江さんの戦死を伝える文書 新江さんの戦死を伝える文書 新江さんの昇進伝える文書 新江さんの昇進伝える文書 元兵士から送られてきた兄の写真... 元兵士から送られてきた兄の写真を見つめる中股さん 日章旗を返還したシェルトンさん... 日章旗を返還したシェルトンさんの写真の前で話す中股さん マーク・シェルトンさん マーク・シェルトンさん シェルトンさんからの手紙 シェルトンさんからの手紙 NHK【戦跡】79年ぶりに帰っ... シェルトンさんと孫のジョセフ君 シェルトンさんと孫のジョセフ君 戦死したジョセフ・シェルトンさ... 戦死したジョセフ・シェルトンさん 手紙を読む中股さん 手紙を読む中股さん 中股さんに別れのあいさつをする... 中股さんに別れのあいさつをするシェルトンさんとジョセフ君 NHK【戦跡】79年ぶりに帰っ...

79年ぶりに帰ってきた兄ちゃん(2022/2/2 北見局記者 徳田亮祐)

「ああ、兄ちゃんが帰ってきた」

ぼろぼろに破れて色あせた日章旗を受け取った時の気持ちを女性はそう語りました。

令和3年(2021年)11月、アメリカから北海道北見市に住む女性のもとに、突然、日章旗が届きました。79年前、太平洋戦争の激戦地ガダルカナル島で23歳の若さで戦死した兄が持っていたものでした。

日章旗を「兄ちゃん」と呼んだ女性は、戦後をどのように過ごしてきたのだろう。
そして、なぜ、旗はアメリカから突然返還されたのだろう。
多くの疑問を解くため、「79年ぶりの兄の帰還」の取材を始めました。

「兄ちゃん」のことが知りたい

日章旗を「兄ちゃん」と呼んだ女性、北見市常呂町に住む中股かず子さん93歳。
自宅を訪ねると、「兄ちゃん」の新江繁規さんのアルバムを見せてくれました。
繁規さんは9人きょうだいの長男だったそうです。



中股さん
「兄ちゃんはラッパを吹いたりスキーをしたりするのが好きでした。成績もみな「甲の上」をとっていて、すごく優秀でした。だから、お父さんも兄ちゃんの通知表だけは大事にとっていました。きょうだいみんなでお風呂に入る時、兄ちゃんに入れてもらったりしてね。本当にいい兄ちゃんだったと思います」


さらに中股さんは、繁規さんと和服姿の女性の写真を見せてくれました。
女性は繁規さんの許嫁でしたが、2人が結婚することはありませんでした。
繁規さんが今の旭川商業高校を卒業したあと、結婚前の21歳で徴兵されたからです。
そして繁規さんは、日本陸軍でも屈指の精鋭と呼ばれた旭川の一木支隊に配属されました。


中股さん
「私が13歳の時、兄ちゃんが入隊することになって網走まで送りました。それが兄ちゃんと会った最後ですね。兄ちゃんが汽車の窓からね、上半身を大きく出して『みんなで自分の分まで親孝行してくれ』と言ってくれました。戦争はだんだんひどくなる時でしたからね。もうこれで会えないんだなと思いました」



昭和17年(1942年)8月、繁規さんの部隊はわずか900人余りで、1万人のアメリカ海兵隊に占領されたハワイとオーストラリアの間にある要衝、ガダルカナル島の飛行場の奪還作戦に投入されました。
軍部の甘い見通しで10倍の兵力に挑んだ結果、隊員の8割以上が戦死し、ほぼ全滅しました。

中股さんが兄、繁規さんの戦死を知ったのは、4か月後の昭和17年12月11日でした。
父のもとに文書が届けられ、兄がガダルカナル島で頭部を撃たれて死亡したことだけがわかりました。



当時の東条英機総理大臣の名義で、繁規さんが戦死した日に陸軍中尉に昇進したと伝える文書も届きましたが、遺骨や現地で身につけていた遺品は一切届きませんでした。

前途洋々の若者の命を奪いながらも「紙」が送られてきただけだったということに、私は怒りを感じましたが、中股さんは「時代」という言葉とともに静かに「しかたがない」と、心情を語ってくれました。

中股さん
「戦死の公報を受け取った父は、兄が亡くなったと言って涙をこぼしていました。あの時はみんな亡くなったら『お国のためだから』という時代だから。『お国にご奉公した』と言っていました」


繁規さんはガダルカナル島でどのような最期を迎えたのか。かつて、ガダルカナル島から生き延びて帰国した別の元兵士から、写真とともに、『繁規さんが戦死したのに、自分は何の役にも立たず、おめおめと生き延びてしまい申し訳ない』と書かれた手紙が届いたことがありました。中股さんは兄の最期を知りたいと思いましたが、送り主の名前も住所も書かれていませんでした。
心の傷が完全に癒えることがなかったという中股さんでしたが、そんな時に突然、アメリカから送られてきたのが、兄の日章旗でした。

中股さん
「ガダルカナル島は激戦地だったので旗が戻るとは夢にも思わなかった。きっと旗を体に巻いていたんだと思う。弾があたったりして、旗が破けちゃったんだと思って。旗を受け取った瞬間、どすっと重たかった。それで『ああ、兄ちゃんが帰ってきた』と思った。この一枚の旗がね、本当に重たかった」

この時になって初めて私は、中股さんにとっては「旗の返還」ではなく、「79年ぶりの兄ちゃんの帰還」なのだと知ることができました。

手を握ってお礼を伝えたい

中股さんの話を聞いていると、居間の目立つところに孫やひ孫の写真と一緒に、ある家族写真が飾ってあるのに気づきました。
写っていたのは、日章旗を返してくれた65歳のアメリカ人、マーク・シェルトンさんとその家族でした。

ルイジアナ州に住むシェルトンさんは8年前、父の遺品を整理していたところ、クローゼットで旗を見つけたといいます。その後、テレビ番組で日章旗のことを知り、自身で経緯を調べた結果、旗は21年前に亡くなったシェルトンさんの親戚が、戦利品としてガダルカナル島から持ち帰ったとみられることがわかりました。
シェルトンさんは、日章旗の返還に取り組むアメリカのNPO「OBONソサエティ」に相談します。そして、旗は、出征する兵士のために一人一人が心を込めて寄せ書きをしたもので、多くの遺族が見つかることを待ちわびていると知り、NPOに託したといいます。

中股さんは、旗とともに送られてきたシェルトンさんの手紙を大事に保管しています。

シェルトンさんが中股さんに宛てた手紙
「親愛なる中股さま。
 お兄様が生きた確かな証である日章旗が故郷にかえってくることで、あなたやご家族、そして私自身にも、喜び、平和、そしてある意味、心の平穏がもたらされることを願っております。マーク・シェルトンより」

取材中、中股さんは、「年も年だし、アメリカに行くことは難しいが、本当はシェルトンさんの手を直接握ってお礼を伝えたい」と、たびたび話してくれました。
しかし、新型コロナウイルスの感染拡大もあり容易にアメリカには行けない状況です。私は繁規さんの遺影を見ながら、「何かできることはないか」と考えるようになりました。

それと同時に、私はシェルトンさんの手紙に「アメリカ軍人として自国のために誇りをもって戦った私の親族のことをあなたに知って頂ければ幸いです」、「旗のことを一生懸命に調べていると、私の心の中でたくさんの疑問や感情が混ざり合いました」とも書かれていたことが気になりました。
シェルトンさんは、どうしてかつての敵国である日本にわざわざ旗を送り返したのだろうと。

私にできることは・・・
中股さんの話を聞いた私は、NPOを通じてシェルトンさんと連絡を取り合い、2人がオンラインで話す場を設けることを提案しました。
シェルトンさんも「ぜひ中股さんと話がしたい」と応じてくれ、令和3年12月に実現しました。
私は、2人が対話する中で、シェルトンさんが日章旗を送る決断をした背景もわかるのではないかと思いました。


ひらがなで「こんにちは」と書かれたフリップを片手に持ち、笑顔であいさつをしたシェルトンさん。隣にいた孫を、中股さんに紹介しました。

シェルトンさんの孫
「僕の名前はジョセフです」

シェルトンさん
「孫のジョセフの名前は、私の叔父ジョセフ・シェルトンにちなんでいます。
 あなたのお兄さんと同じように戦争から帰ってきませんでした」

シェルトンさんには旗を持っていた親戚とは別に、戦争に参加したジョセフ・シェルトンさんという叔父がいました。昭和20年(1945年)に名古屋の空襲に参加した際に撃墜されて捕虜となり、その後、処刑されたといいます。

シェルトンさんの手紙に書かれていたのは、このことだったのです。

しかし、シェルトンさんはかつての敵国である日本に旗を返すことに、全くためらいはなかったといいます。
国は違えど、家族や親戚を戦争で失った遺族の悲しみは同じだと考えたからです。

シェルトンさん
「戦争に巻き込まれたのは『人間』なのです。私よりも前の世代が日本に対して厳しい感情を持っていることは知っていますが、私の世代や若い世代は、過去に何があったのかを受けとめ、次に進む準備が出来ています」

「思いはみんな一緒」

中股さんはこの日のために用意した手紙をシェルトンさんに読み上げました。

シェルトンさんに宛てた中股さんの手紙
「親愛なるマーク・シェルトン様へ
シェルトンさんのご家族の写真をいただき、毎朝『おはようございます』と声をかけています。私は1人暮らしの93歳という年寄りです。おかげさまで元気です。
日章旗は兄が身につけていたもので、兄が帰ってきてくれたのと同じです。これからは仏前で毎日兄と会えるのです。兄との昔の思い出を思い出しながら暮らしていきたいと思います。長生きしてよかったなとつくづく思います。
捨てられてもしかたないほどにぼろぼろな旗なのに、捨てずに返して下さいましたシェルトン様に心よりお礼申し上げます」

手紙を読んでもらったシェルトンさんは「とてもうれしく光栄です」と応じ、中股さんがアメリカに来たらアメリカンフットボールの観戦に案内したいと笑顔で話していました。中股さんも涙をぬぐいながら「いつか北海道に来て下さい。私が生きている間にお会いしたい」と、別れのあいさつをしました。

マスク越しでも、中股さんがほほえんでいたのがわかりました。

中股さん
「戦争中、アメリカのことはただ、敵国だという気持ちでした。だけど、終戦になって、こうやってじかにシェルトンさんのお話を聞かせてもらい、お互いにたくさんの方が亡くなっているんだから、思いはみんな一緒だと思いますね。だから戦争だけはもう2度とないように、ない世界になってほしいです」

取材を終えて
中股さんは「今の時代とは違い、当時は戦死したら『おめでとう』という人もいた。家族は涙を流しても外では誰にも言えないような時代でした」と話していました。だからこそ、そのような「時代」に後戻りしないよう、戦争だけはやめてほしいという訴えは、胸に響きました。

そして、中股さんは、旗がどれぐらい大事なものなのか、私に教えてくれました。今にもちぎれそうな旗が、「どすっと重たかった」こと、そして中股さんが毎日仏壇の前で優しかった「兄ちゃん」に会っていることを。

一方で中股さんは「兄ちゃん以外にも戦死した人はたくさんいる。1人でも多くの人に遺品が届いてほしい。私ばかりよくしてもらって申し訳ない」とも話していました。
中股さんのように遺品が返ってくるのを待っている方々は今も全国にいます。遺族が高齢化する中、1つでも多くの遺品が早く見つかり、遺族の手元に返されてほしいと思います。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_139.html?fbclid=IwAR2yEr8J8H-I9lbSf3yqRg_IC20a2GCewSUMYZZLtvvARmlHNhC3A-6Qv4Q
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【STARS AND STRIPES】 Navy vet’s daughter returns Japanese flag taken as war trophy from Battle of Okinawa.

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【STARS AND STRI...
Navy vet’s daughter returns Japanese flag taken as war trophy from Battle of Okinawa.

TOKYO — A Japanese flag, brought to America by a U.S. Navy sailor from the Battle of Okinawa, has been returned to the family of the soldier who carried it into battle more than three quarters of a century ago.

The signature-covered flag, brought home from the war by James Ellis Mercer, was returned by his daughter Linda Hahn, 72, of Concord, Calif.

Many Japanese soldiers carried the red and white flags inscribed with names and messages from family and friends for good luck.

The flag was accepted by Yoshinori Goto, 45, of Oita city, the grandson of Kesaji Goto, a Japanese Imperial Army soldier who carried the flag and died July 1, 1945, on Okinawa. The ceremony, which Hahn didn’t attend, took place Jan. 16 at the Gokoku Shrine in Oita.

Mercer, a machinist’s mate from Goodland, Kan., served aboard the seaplane tender USS Bering Strait. The warship supported aircraft that rescued dozens of downed airmen and sailors from stricken vessels during the Battle of Okinawa from April to June 1945.

The flag was folded inside an album of war photographs left by Mercer, who died in 2003 at age 83, Hahn said in a telephone interview Wednesday.

The family knew he served on Okinawa but not many other details of his wartime experience.

“He never talked about it,” Hahn said. “I don’t think it was a real happy time for him.”

After the war, Mercer set up a machine shop and worked on heavy vehicles such as forklifts and trucks, she said.

A retired bank employee and mother of one, Hahn contacted the Obon Society in September after hearing about their work from a friend. The nonprofit group helps veterans and their families return old war trophies like flags and swords.

“I thought in my heart that if the situation were reversed and it was my son who was getting something from my father, I would want that,” she said.

The society tracked down Kesaji Goto’s relatives within a couple of months. Goto was from Fujiwara village in Oita prefecture. His name is written on the flag in kanji characters.

“I am thankful that they had kept it until now and even decided to return it,” Yoshinori Goto, an employee of the Oita prefectural government, told Stars and Stripes by phone.

Kesaji Goto died in his early 30s and left behind a wife and 1-year-old son, his grandson said.

The family tomb includes an engraving of Kesaji Goto’s name. So does a monument at the Peace Memorial Park on Okinawa, Yoshinori Goto said.

The family kept a photo of their fallen relative but didn’t talk about him a lot. It was a surprise when the War-Bereaved Families Association contacted them about the flag, he said.

Some Japanese relatives of war dead, citing little or no connection with the original owners, decline to receive returned flags, but Goto had no hesitation accepting it, he said.

The news was “a bolt out of the blue,” he said. “I definitely wanted to receive it.”

The flag includes his father’s name, Shoji Goto, between his grandparents’ names.

“This shows that my father was either born or at least his name was picked when my grandfather went to war,” he said.

The flag’s return gave him a chance to talk about his grandfather with his children, he said.

“I hope people will take an opportunity to think about peace,” Yoshinori Goto said.

Although he had seen a photograph of the flag before receiving it, it felt different touching it, he said. “It tells a story,” he said. “I felt the soul of my grandfather.”

HANA KUSUMOTO - https://www.stripes.com/theaters/asia_pacific/2022-02-03/japanese-flag-return-battle-of-okinawa-us-navy-world-war-ii-4571775.html?fbclid=IwAR1dUu7qKMExYMkOPGvNQ-942W0H0sBxP2GlkzKJWCpC51-HDNxiWbmycwI
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Mainichi Newspaper featured recent successful personal remain "Yosegaki Hinomaru" return in Oita..

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WWII soldier's good-luck flag returned from US to grandson in southwest Japan

OITA -- A Japanese flag thought to have been taken to battle by a soldier who died fighting in Okinawa Prefecture during the Pacific War's last days was returned to his grandson in the southwest Japan city of Oita on Jan. 16.

Upon receiving his grandfather's flag over 70 years after the war, Yoshinori Goto, 45, an Oita Prefectural Government employee, renewed his determination for peace, saying, "We have to pass down the horror of war."

According to Yoshinori, his grandfather Kesaji Goto left his village of Fujiwara -- now part of the town of Hiji -- in Oita Prefecture for the front. Kesaji is known to have belonged to the 12th Independent Infantry Battalion of the 44th Independent Mixed Brigade, but details including exactly when he went off to war are reportedly unknown. He is believed to have died in his 30s on July 1, 1945.

On the good-luck flag are messages to Kesaji including the word "Buunchokyu (long-lasting good luck in battle)." It is thought to have been taken to the U.S. by then Marine James Ellis Mercer, and was kept by his daughter Linda Hahn.

The Obon Society, an American nonprofit organization whose activities include returning Japanese flags, inquired with Oita Prefecture's association of war-bereaved families about the flag. Kesaji's family was then identified.

The flag's handover ceremony was held at Gokoku Shrine in Oita Prefecture on Jan. 16. With the flag in his hands, Goto said, "I'd like to say, 'Welcome back,' to my grandfather," and solemnly added that he felt the weight of history.

(Japanese original by Nao Ishii, Oita Bureau)

https://mainichi.jp/english/articles/20220120/p2a/00m/0na/025000c?fbclid=IwAR0YV5UtY0U7GJzqpsoUi8Nhnw5TVraDqscP6tfwYh6PWedClv-QHbi4q-k
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