Taisuke's son Yuichi (71)
Japanese flag taken by Japanese soldiers during the Pacific War returned to family
2022/8/16 12:45:51
[NHK] The Japanese flag that Japanese soldiers brought to the battlefield during the Pacific War was later discovered in the United States, and on the 16th, 77 years after the end of the war, a house in Ichikawa City, Chiba Prefecture...
The Japanese flag that Japanese soldiers took to the battlefield during the Pacific War was later discovered in the United States, and was returned to his family in Ichikawa City, Chiba Prefecture on the 16th, 77 years after the end of the war.
The flag that was returned was that of Taisuke Matsumaru, who was born in Ichikawa City and died at the age of 98 after fighting in New Guinea as a ship engineer.
This flag was kept by Bill Bussey (75), who lives in Massachusetts and is the son of Oliver Bussey, a former U.S. Marine who died 29 years ago. It was delivered to Ichikawa City Hall through the NPO "OBON Society" (Obon).
On the 16th, Taisuke's son Yuichi (71) and others received the flag from Mayor Kou Tanaka.
The flag is 66 centimeters high and 83 centimeters wide, and although it is torn and the colors are blurred, it contains words of prayer for victory and the names of family members and local people, such as Taisuke's wife.
At the handover ceremony, a message from Mr. Bill was also introduced, saying, "I am very happy to be able to return this flag to my family."
Yuichi said, "I'm really glad that I came back from America with the flag that shows the traces of my father's hardships. I want to donate it to the city so that more people can see it and have an opportunity to think about the importance of peace." was
https://www.tellerreport.com/life/2022-08-16-japanese-flag-taken-by-japanese-soldiers-during-the-pacific-war-returned-to-family.Hkeug75dAq.html?fbclid=IwAR3OCdsNpX8OSKbaTFsRG0HTtmlaG0dI5jo5cnZ4spEriOEuj4GeDRHcbOE
「今も返還を待つ日章旗が多数ある」と活動を進める夫妻(米オレゴン州で)=OBONソサエティ提供
日章旗返還 紡ぐ友好
2022/08/17 05:00
「今も返還を待つ日章旗が多数ある」と活動を進める夫妻(米オレゴン州で)=OBONソサエティ提供
府出身女性ら米で活動
「生きた証し 家族に」
第2次世界大戦中、日本軍の兵士が身につけていた寄せ書き入りの日章旗を遺族に返還する取り組みを、京都ゆかりの女性らが米国で進めている。「戦争で命を落とした人たちが生きた証しを、故郷の家族に届けたい」。戦後77年の夏、時と海を越える活動に思いを新たにしている。(松田聡)
女性は京都市出身の敬子・ジークさん(54)。米オレゴン州のNPO「OBON(オボン)ソサエティ」の共同代表を務め、現地で集まった日章旗を国内の遺族会などの協力を得て返還につなげている。
敬子さんは、ビルマ(現ミャンマー)に出征した祖父を戦争で亡くした。「お墓には、戦死通知と一緒に届いた小石が一つ入っているだけなのよ」。子どもの頃から祖父の墓参りに行くたびに、母からそう聞かされていた。
2007年、カナダ人から突然の連絡を受けた。やがて届いたのは、多くの人の寄せ書きが記された日章旗。「武器も食料もなく、マラリアにやられ、ジャングルで倒れたのか」と 偲しの んでいた祖父のものだった。終戦から半世紀以上たったとは思えない状態で、「祖父の魂が奇跡を起こした」と感じた。
日章旗について、夫で歴史学者のレックス・ジークさん(68)が調べると、米国には多くが残っていることがわかった。
「日本にいる遺族に届けることで、平和と友好の心をつなぎたい」。そんな思いで返還活動を始めた。
魂が帰ってくる盆と同じように、遺族は旗を「お帰り」と迎えてくれるはず。そう願い、NPOの名に「OBON」を入れた。
活動は当初、手探りだった。声をかけても怪しまれ、遺族捜しに難儀することもあった。それに、日章旗は苦しい戦闘の末に得た戦利品という考えで持ち帰った米国人兵士が多かった。
講演やインターネットで敬子さんらは、寄せ書きの旗が兵士の無事を願って作られた大切なお守りであることを強調した。
次第に活動の輪は広がり、国内でも遺族会や厚生労働省の協力が得られるようになった。
中には訪日し、返還式で遺族と対面する米国人もいた。ともに戦争で対立した父親を持つ者同士。互いを思い合い、涙する姿もあったという。
敬子さんは「国は違えど、返還を申し出る人は、国や家族のために戦った兵士、その子どもらという同じ立場。日本兵にも尊敬の念を抱き、返された遺族の心の一区切りになるよう願っている」と話す。
これまでに日章旗のほか、手紙や名札、帽子、軍刀など約500件の遺品を46都道府県で返還した。府内でも、沖縄戦で戦死した宮津市出身の男性の日章旗が、5月に故郷へ戻った。
遺族が見つからない場合でも、何かの手がかりや平和学習に役立ててほしいと、出身地の公民館や遺族会などに託している。
今、返還の依頼を受け、遺族を捜している遺品は1800件以上。うち府内出身の兵士のものと絞り込んだのは16件ある。
「遺品は魂が宿った『遺霊品』。過去、現在、未来をつなぐ縦の糸と、国、言語、文化の違いを乗り越えた横の糸をつなげる役割がある」と敬子さん。「一人でも多くの魂を、家族の元に戻していきたい」と力を込める。
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyoto/news/20220816-OYTNT50072/?fbclid=IwAR3OCdsNpX8OSKbaTFsRG0HTtmlaG0dI5jo5cnZ4spEriOEuj4GeDRHcbOE
太平洋戦争の激戦地だったソロモン諸島のガダルカナル島で、1942年に戦死した郡山市出身の 宇南山うなやま 民男さん(当時23歳)の所持品だった日章旗が22日、保管されていた米国から遺族に返還された。80年ぶりに古里に戻り、遺族も感慨深げだった。
郡山市遺族会や宇南山さんの遺族などによると、民男さんは1919年生まれ。42年1月、広島県の宇品港から戦地に向かい、同年11月、ガダルカナル島で腰と腕に砲弾の破片を受けて戦死したという。
日章旗は43年1月、ガダルカナル島に滞在していた米軍のチャールズ・マーコットさんが、現地の住民から受け取って持ち帰り、保管していた。受け継いだ息子のロバートさんが、日本兵の遺品返還活動を行う米オレゴン州のNPO法人「OBONソサエティ」に提供し、日本遺族会などの確認作業を経て返還が実現した。
この日は、宇南山さんのおいの妻・宇南山洋子さん(80)が郡山市役所を訪れ、市遺族会の渡辺守久・副会長から「武運長久」などの寄せ書きが入った日章旗を受け取った。洋子さんは「お墓の家族に、日章旗とともに民男さんの 御霊みたま が戻ったと報告したい。皆が喜んでいると思う」と話した。
同席した品川万里市長は「日章旗の返還は、日米の善意のリレーによって実現した。世界で戦禍が絶えない中、一日も早く平和と秩序が保たれてほしい」と語った。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220723-OYT1T50130/
戦死の祖父 手帳戻る2022/06/08 05:00
姫路の岡崎さん 「沖縄の慰霊碑に報告を
太平洋戦争末期の沖縄戦で戦死した第2野戦築城隊付の陸軍少佐・岡崎梅太郎さん(姫路市出身)の手帳が7日、姫路市に住む孫・公一さん(64)の手元に戻った。戦争終結から77年。この日、姫路護国神社で手帳を受け取った公一さんは、会ったことのない祖父に思いをはせ、「大切に保管し、いつか、沖縄の慰霊碑に『返ってきたで』と報告に行きたい」と語った。(北野浩暉)
戦後77年 米兵が保管
県遺族会姫路支部などによると、梅太郎さんは1904年に生まれ、38年に入隊。45年5月20日、戦火が激しくなった沖縄県の首里で死亡した。
手帳は沖縄戦に参戦した米兵が戦地から持ち帰ったもの。戦後、米オレゴン州で保管していたという。
戦利品として持ち帰られた日章旗や日記などの様々な遺品返還事業を行っている同州のNPO法人「OBONソサエティ」に米兵の息子が提供。今年4月、同支部が調査を行って返還されることになった。
当時、従軍者に配られていた手帳で、表紙には「従軍手 帖ちょう 」の文字。従軍履歴のほか、「軍紀風紀の維持」などの行動規範、計算式といった梅太郎さんがつづったとみられるメモなどが残されている。
公一さんの手元には梅太郎さんの写る当時の写真がある。祖父にあたる梅太郎さんについて、父親らからあまり話を聞いていないものの、公一さんは、これまでに計3回、沖縄の慰霊祭に参加したという。
77年の時を超えて〈帰国〉を果たした手帳を前に「祖父のことや(手帳が)返ってきた経緯についてもっと詳しく知りたい。この次に沖縄へ行く時には手帳を携えて行きたい」と話している。https://www.yomiuri.co.jp/local/hyogo/news/20220608-OYTNT50017/?fbclid=IwAR2dfUQ_haqvwRGOnnHTeMtoImots7XYPwFWt4uKYeJ7gaPPDmyzofTisFg
【動画/video】→→ https://www.youtube.com/watch?v=H7AOD5yxuz0
提供:与謝野郡役場CATVセンター
〜77年の時を経てお父様が帰郷を果たされました〜
令和4年5月15日
京都府宮津市与謝野郡生涯学習センター知遊館にて黄前典夫命「遺霊品返還式」が行われました。
After 77 years passed, Father finally came home in Kyoto to see his son and daughter.
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