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NHK【戦跡】79年ぶりに帰ってきた兄ちゃん(NHKfeatured flag return in KITAMI HOKKAIDO )

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北見市に住む中股かず子さん 北見市に住む中股かず子さん 学生時代の新江繁規さん 学生時代の新江繁規さん 新江さんと許嫁 新江さんと許嫁 NHK【戦跡】79年ぶりに帰っ... 1942年のガダルカナル島 1942年のガダルカナル島 NHK【戦跡】79年ぶりに帰っ... 新江さんの戦死を伝える文書 新江さんの戦死を伝える文書 新江さんの昇進伝える文書 新江さんの昇進伝える文書 元兵士から送られてきた兄の写真... 元兵士から送られてきた兄の写真を見つめる中股さん 日章旗を返還したシェルトンさん... 日章旗を返還したシェルトンさんの写真の前で話す中股さん マーク・シェルトンさん マーク・シェルトンさん シェルトンさんからの手紙 シェルトンさんからの手紙 NHK【戦跡】79年ぶりに帰っ... シェルトンさんと孫のジョセフ君 シェルトンさんと孫のジョセフ君 戦死したジョセフ・シェルトンさ... 戦死したジョセフ・シェルトンさん 手紙を読む中股さん 手紙を読む中股さん 中股さんに別れのあいさつをする... 中股さんに別れのあいさつをするシェルトンさんとジョセフ君 NHK【戦跡】79年ぶりに帰っ...

79年ぶりに帰ってきた兄ちゃん(2022/2/2 北見局記者 徳田亮祐)

「ああ、兄ちゃんが帰ってきた」

ぼろぼろに破れて色あせた日章旗を受け取った時の気持ちを女性はそう語りました。

令和3年(2021年)11月、アメリカから北海道北見市に住む女性のもとに、突然、日章旗が届きました。79年前、太平洋戦争の激戦地ガダルカナル島で23歳の若さで戦死した兄が持っていたものでした。

日章旗を「兄ちゃん」と呼んだ女性は、戦後をどのように過ごしてきたのだろう。
そして、なぜ、旗はアメリカから突然返還されたのだろう。
多くの疑問を解くため、「79年ぶりの兄の帰還」の取材を始めました。

「兄ちゃん」のことが知りたい

日章旗を「兄ちゃん」と呼んだ女性、北見市常呂町に住む中股かず子さん93歳。
自宅を訪ねると、「兄ちゃん」の新江繁規さんのアルバムを見せてくれました。
繁規さんは9人きょうだいの長男だったそうです。



中股さん
「兄ちゃんはラッパを吹いたりスキーをしたりするのが好きでした。成績もみな「甲の上」をとっていて、すごく優秀でした。だから、お父さんも兄ちゃんの通知表だけは大事にとっていました。きょうだいみんなでお風呂に入る時、兄ちゃんに入れてもらったりしてね。本当にいい兄ちゃんだったと思います」


さらに中股さんは、繁規さんと和服姿の女性の写真を見せてくれました。
女性は繁規さんの許嫁でしたが、2人が結婚することはありませんでした。
繁規さんが今の旭川商業高校を卒業したあと、結婚前の21歳で徴兵されたからです。
そして繁規さんは、日本陸軍でも屈指の精鋭と呼ばれた旭川の一木支隊に配属されました。


中股さん
「私が13歳の時、兄ちゃんが入隊することになって網走まで送りました。それが兄ちゃんと会った最後ですね。兄ちゃんが汽車の窓からね、上半身を大きく出して『みんなで自分の分まで親孝行してくれ』と言ってくれました。戦争はだんだんひどくなる時でしたからね。もうこれで会えないんだなと思いました」



昭和17年(1942年)8月、繁規さんの部隊はわずか900人余りで、1万人のアメリカ海兵隊に占領されたハワイとオーストラリアの間にある要衝、ガダルカナル島の飛行場の奪還作戦に投入されました。
軍部の甘い見通しで10倍の兵力に挑んだ結果、隊員の8割以上が戦死し、ほぼ全滅しました。

中股さんが兄、繁規さんの戦死を知ったのは、4か月後の昭和17年12月11日でした。
父のもとに文書が届けられ、兄がガダルカナル島で頭部を撃たれて死亡したことだけがわかりました。



当時の東条英機総理大臣の名義で、繁規さんが戦死した日に陸軍中尉に昇進したと伝える文書も届きましたが、遺骨や現地で身につけていた遺品は一切届きませんでした。

前途洋々の若者の命を奪いながらも「紙」が送られてきただけだったということに、私は怒りを感じましたが、中股さんは「時代」という言葉とともに静かに「しかたがない」と、心情を語ってくれました。

中股さん
「戦死の公報を受け取った父は、兄が亡くなったと言って涙をこぼしていました。あの時はみんな亡くなったら『お国のためだから』という時代だから。『お国にご奉公した』と言っていました」


繁規さんはガダルカナル島でどのような最期を迎えたのか。かつて、ガダルカナル島から生き延びて帰国した別の元兵士から、写真とともに、『繁規さんが戦死したのに、自分は何の役にも立たず、おめおめと生き延びてしまい申し訳ない』と書かれた手紙が届いたことがありました。中股さんは兄の最期を知りたいと思いましたが、送り主の名前も住所も書かれていませんでした。
心の傷が完全に癒えることがなかったという中股さんでしたが、そんな時に突然、アメリカから送られてきたのが、兄の日章旗でした。

中股さん
「ガダルカナル島は激戦地だったので旗が戻るとは夢にも思わなかった。きっと旗を体に巻いていたんだと思う。弾があたったりして、旗が破けちゃったんだと思って。旗を受け取った瞬間、どすっと重たかった。それで『ああ、兄ちゃんが帰ってきた』と思った。この一枚の旗がね、本当に重たかった」

この時になって初めて私は、中股さんにとっては「旗の返還」ではなく、「79年ぶりの兄ちゃんの帰還」なのだと知ることができました。

手を握ってお礼を伝えたい

中股さんの話を聞いていると、居間の目立つところに孫やひ孫の写真と一緒に、ある家族写真が飾ってあるのに気づきました。
写っていたのは、日章旗を返してくれた65歳のアメリカ人、マーク・シェルトンさんとその家族でした。

ルイジアナ州に住むシェルトンさんは8年前、父の遺品を整理していたところ、クローゼットで旗を見つけたといいます。その後、テレビ番組で日章旗のことを知り、自身で経緯を調べた結果、旗は21年前に亡くなったシェルトンさんの親戚が、戦利品としてガダルカナル島から持ち帰ったとみられることがわかりました。
シェルトンさんは、日章旗の返還に取り組むアメリカのNPO「OBONソサエティ」に相談します。そして、旗は、出征する兵士のために一人一人が心を込めて寄せ書きをしたもので、多くの遺族が見つかることを待ちわびていると知り、NPOに託したといいます。

中股さんは、旗とともに送られてきたシェルトンさんの手紙を大事に保管しています。

シェルトンさんが中股さんに宛てた手紙
「親愛なる中股さま。
 お兄様が生きた確かな証である日章旗が故郷にかえってくることで、あなたやご家族、そして私自身にも、喜び、平和、そしてある意味、心の平穏がもたらされることを願っております。マーク・シェルトンより」

取材中、中股さんは、「年も年だし、アメリカに行くことは難しいが、本当はシェルトンさんの手を直接握ってお礼を伝えたい」と、たびたび話してくれました。
しかし、新型コロナウイルスの感染拡大もあり容易にアメリカには行けない状況です。私は繁規さんの遺影を見ながら、「何かできることはないか」と考えるようになりました。

それと同時に、私はシェルトンさんの手紙に「アメリカ軍人として自国のために誇りをもって戦った私の親族のことをあなたに知って頂ければ幸いです」、「旗のことを一生懸命に調べていると、私の心の中でたくさんの疑問や感情が混ざり合いました」とも書かれていたことが気になりました。
シェルトンさんは、どうしてかつての敵国である日本にわざわざ旗を送り返したのだろうと。

私にできることは・・・
中股さんの話を聞いた私は、NPOを通じてシェルトンさんと連絡を取り合い、2人がオンラインで話す場を設けることを提案しました。
シェルトンさんも「ぜひ中股さんと話がしたい」と応じてくれ、令和3年12月に実現しました。
私は、2人が対話する中で、シェルトンさんが日章旗を送る決断をした背景もわかるのではないかと思いました。


ひらがなで「こんにちは」と書かれたフリップを片手に持ち、笑顔であいさつをしたシェルトンさん。隣にいた孫を、中股さんに紹介しました。

シェルトンさんの孫
「僕の名前はジョセフです」

シェルトンさん
「孫のジョセフの名前は、私の叔父ジョセフ・シェルトンにちなんでいます。
 あなたのお兄さんと同じように戦争から帰ってきませんでした」

シェルトンさんには旗を持っていた親戚とは別に、戦争に参加したジョセフ・シェルトンさんという叔父がいました。昭和20年(1945年)に名古屋の空襲に参加した際に撃墜されて捕虜となり、その後、処刑されたといいます。

シェルトンさんの手紙に書かれていたのは、このことだったのです。

しかし、シェルトンさんはかつての敵国である日本に旗を返すことに、全くためらいはなかったといいます。
国は違えど、家族や親戚を戦争で失った遺族の悲しみは同じだと考えたからです。

シェルトンさん
「戦争に巻き込まれたのは『人間』なのです。私よりも前の世代が日本に対して厳しい感情を持っていることは知っていますが、私の世代や若い世代は、過去に何があったのかを受けとめ、次に進む準備が出来ています」

「思いはみんな一緒」

中股さんはこの日のために用意した手紙をシェルトンさんに読み上げました。

シェルトンさんに宛てた中股さんの手紙
「親愛なるマーク・シェルトン様へ
シェルトンさんのご家族の写真をいただき、毎朝『おはようございます』と声をかけています。私は1人暮らしの93歳という年寄りです。おかげさまで元気です。
日章旗は兄が身につけていたもので、兄が帰ってきてくれたのと同じです。これからは仏前で毎日兄と会えるのです。兄との昔の思い出を思い出しながら暮らしていきたいと思います。長生きしてよかったなとつくづく思います。
捨てられてもしかたないほどにぼろぼろな旗なのに、捨てずに返して下さいましたシェルトン様に心よりお礼申し上げます」

手紙を読んでもらったシェルトンさんは「とてもうれしく光栄です」と応じ、中股さんがアメリカに来たらアメリカンフットボールの観戦に案内したいと笑顔で話していました。中股さんも涙をぬぐいながら「いつか北海道に来て下さい。私が生きている間にお会いしたい」と、別れのあいさつをしました。

マスク越しでも、中股さんがほほえんでいたのがわかりました。

中股さん
「戦争中、アメリカのことはただ、敵国だという気持ちでした。だけど、終戦になって、こうやってじかにシェルトンさんのお話を聞かせてもらい、お互いにたくさんの方が亡くなっているんだから、思いはみんな一緒だと思いますね。だから戦争だけはもう2度とないように、ない世界になってほしいです」

取材を終えて
中股さんは「今の時代とは違い、当時は戦死したら『おめでとう』という人もいた。家族は涙を流しても外では誰にも言えないような時代でした」と話していました。だからこそ、そのような「時代」に後戻りしないよう、戦争だけはやめてほしいという訴えは、胸に響きました。

そして、中股さんは、旗がどれぐらい大事なものなのか、私に教えてくれました。今にもちぎれそうな旗が、「どすっと重たかった」こと、そして中股さんが毎日仏壇の前で優しかった「兄ちゃん」に会っていることを。

一方で中股さんは「兄ちゃん以外にも戦死した人はたくさんいる。1人でも多くの人に遺品が届いてほしい。私ばかりよくしてもらって申し訳ない」とも話していました。
中股さんのように遺品が返ってくるのを待っている方々は今も全国にいます。遺族が高齢化する中、1つでも多くの遺品が早く見つかり、遺族の手元に返されてほしいと思います。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_139.html?fbclid=IwAR2yEr8J8H-I9lbSf3yqRg_IC20a2GCewSUMYZZLtvvARmlHNhC3A-6Qv4Q
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【STARS AND STRIPES】 Navy vet’s daughter returns Japanese flag taken as war trophy from Battle of Okinawa.

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【STARS AND STRI...
Navy vet’s daughter returns Japanese flag taken as war trophy from Battle of Okinawa.

TOKYO — A Japanese flag, brought to America by a U.S. Navy sailor from the Battle of Okinawa, has been returned to the family of the soldier who carried it into battle more than three quarters of a century ago.

The signature-covered flag, brought home from the war by James Ellis Mercer, was returned by his daughter Linda Hahn, 72, of Concord, Calif.

Many Japanese soldiers carried the red and white flags inscribed with names and messages from family and friends for good luck.

The flag was accepted by Yoshinori Goto, 45, of Oita city, the grandson of Kesaji Goto, a Japanese Imperial Army soldier who carried the flag and died July 1, 1945, on Okinawa. The ceremony, which Hahn didn’t attend, took place Jan. 16 at the Gokoku Shrine in Oita.

Mercer, a machinist’s mate from Goodland, Kan., served aboard the seaplane tender USS Bering Strait. The warship supported aircraft that rescued dozens of downed airmen and sailors from stricken vessels during the Battle of Okinawa from April to June 1945.

The flag was folded inside an album of war photographs left by Mercer, who died in 2003 at age 83, Hahn said in a telephone interview Wednesday.

The family knew he served on Okinawa but not many other details of his wartime experience.

“He never talked about it,” Hahn said. “I don’t think it was a real happy time for him.”

After the war, Mercer set up a machine shop and worked on heavy vehicles such as forklifts and trucks, she said.

A retired bank employee and mother of one, Hahn contacted the Obon Society in September after hearing about their work from a friend. The nonprofit group helps veterans and their families return old war trophies like flags and swords.

“I thought in my heart that if the situation were reversed and it was my son who was getting something from my father, I would want that,” she said.

The society tracked down Kesaji Goto’s relatives within a couple of months. Goto was from Fujiwara village in Oita prefecture. His name is written on the flag in kanji characters.

“I am thankful that they had kept it until now and even decided to return it,” Yoshinori Goto, an employee of the Oita prefectural government, told Stars and Stripes by phone.

Kesaji Goto died in his early 30s and left behind a wife and 1-year-old son, his grandson said.

The family tomb includes an engraving of Kesaji Goto’s name. So does a monument at the Peace Memorial Park on Okinawa, Yoshinori Goto said.

The family kept a photo of their fallen relative but didn’t talk about him a lot. It was a surprise when the War-Bereaved Families Association contacted them about the flag, he said.

Some Japanese relatives of war dead, citing little or no connection with the original owners, decline to receive returned flags, but Goto had no hesitation accepting it, he said.

The news was “a bolt out of the blue,” he said. “I definitely wanted to receive it.”

The flag includes his father’s name, Shoji Goto, between his grandparents’ names.

“This shows that my father was either born or at least his name was picked when my grandfather went to war,” he said.

The flag’s return gave him a chance to talk about his grandfather with his children, he said.

“I hope people will take an opportunity to think about peace,” Yoshinori Goto said.

Although he had seen a photograph of the flag before receiving it, it felt different touching it, he said. “It tells a story,” he said. “I felt the soul of my grandfather.”

HANA KUSUMOTO - https://www.stripes.com/theaters/asia_pacific/2022-02-03/japanese-flag-return-battle-of-okinawa-us-navy-world-war-ii-4571775.html?fbclid=IwAR1dUu7qKMExYMkOPGvNQ-942W0H0sBxP2GlkzKJWCpC51-HDNxiWbmycwI
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NHK world Japan featured backstories (NHKワールドJapan で記事が取り上げられました)

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Bethany Glenn and her late gr... Bethany Glenn and her late grandfather, John C. England
"Families on both sides of Pacific War find closure"
Dated Dec. 27, 2021 Yotsumoto Jun: NHK World Correspondent:

The families of people who die at war often find their grief is compounded by lack of closure. One American woman recently gave her grandfather a fitting sendoff decades after he was killed in the attack on Pearl Harbor. She's now helping families on the other side of that conflict find the same sense of release.

For more article, please click link below:
https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/news/backstories/1845/
#BethanyGlenn #JohnCEngland #PearlHarbor #closure #flagreturn #navy #obonsociety #obonソサエティ #pacificwar #ww2 #大東亜戦争 #太平洋戦争 #寄せ書き日の丸 #日章旗返還

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神戸新聞NEXT/「五郎さんが帰ってきたよ」日章旗78年ぶり故郷へ 三田から22歳で出兵、ソロモン諸島で戦死(Japanese Newspaper featured flag return in Kobe)

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神戸新聞NEXT/「五郎さんが... 神戸新聞NEXT/「五郎さんが...
「五郎さんが帰ってきたよ」。太平洋戦争中の1943年、旧有馬郡三田町から出兵し、パプアニューギニアで命を落とした男性の日章旗が、78年ぶりに米国から兵庫・三田の地に戻った。旗を受け取った甥(おい)っ子は、男性の帰りを願った亡き親きょうだいに届くよう、笑顔で墓前に掲げた。(喜田美咲)

黄土色と茶色が混ざり、手で広げると破れてしまうほどもろくなった布。四つ折りのまま水にぬれたのか、「祈武運長久」といった文字は、所々反転して写っている。

日章旗の持ち主だったのは故・杉尾五郎さん。兄2人、姉2人の末っ子として生まれた。2人の兄は軍事産業に携わっていたため、会社勤めだった五郎さんだけが43年3月24日、22歳で出征。翌年、戦地で亡くなった。遺骨は戻ってこなかった。

日章旗は米ニューヨーク州の男性家族から日本遺族会や兵庫県遺族会などを経由して、今春、三田市の遺族会へと託された。市遺族会の女性部長竹内ハルミさん(79)が、同級生や地域のつながりをたどり、甥の典一さん(77)=大阪府豊中市=を見つけ出した。

典一さんは五郎さんの長兄賢一さん(故人)の息子。五郎さんが出征した翌年に生まれたため、会ったことはなく、母親から「五郎さんは(終戦直前に出兵させられ)かわいそうやった」とだけ聞かされていた。無口な父は何も語ろうとしなかったが、精悍(せいかん)な遺影を見て、「父に似てまじめな人だったんだろう」と思っていた。

県遺族会の遺留品調査票によると、所属は陸軍上等兵南海派遣沖第六〇九四部隊。輸送船に乗っていた際、魚雷に襲撃されたと聞いていたが、死亡場所はソロモン諸島ブーゲンビル島とあった。そこは日本軍が占領した地で、43年11月から停戦の45年8月21日まで米軍との激戦地となった。

「どのように散ったのか、今となっては分からない」と典一さん。墓に刻まれた死亡日とこのほど知らされた日も、10日のずれがあった。

肌身離さず持ち歩いていたであろう旗は、オークションなどで巡り巡って、米国の男性宅にあった。男性が亡くなり、家族が遺品整理中に旗を見つけ「本来あるべき場所に返してあげたい」と申し出た。

「(戦争)当時、日章旗を持ち帰ることが米軍にとって手柄の印だった」と市遺族会の竹内さん。戦後、収集家の間で出回ったが、次の世代が持ち主に返したいと望むようになり、返却される事例は少なくないという。

今年7月20日、典一さんの元へ日章旗が届いた。「お盆前に帰ってきてくれた」と早速、三田市内にある墓へあいさつ。11月末、再び旗を持参し、竹内さんと一緒に撮った写真を、米国の男性家族に送るという。破れないよう額に入れて大切に保管し、「五郎さんの生きた証し。家宝にしようと思っている」と墓標を見つめた。
https://www.kobe-np.co.jp/news/sanda/202112/0014893642.shtml


#army #flagreturn #japanesflag #media #navy #obonsociety #obonソサエティ #pacificwar #soldier #ww2 #メディア #兵庫県 #大東亜戦争 #太平洋戦争 #戦没者 #新聞 #日章旗返還 #神戸市 #英霊 #陸軍

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【Pine Knot News】Photos long tucked away create somber intrigue

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These photographs are part of... These photographs are part of a collection long held by World War II veteran Wiekko Seppo, a Marine from Duluth who fought in the Pacific Theater in 1944 and 1945. Part of the challenge in the ph... Part of the challenge in the photo mystery is deciphering the Japanese writing on the back of the photos. Dick Jessor turned 97 this we... Dick Jessor turned 97 this week and is a veteran of World War II who fought at Iwo Jima, in the 25th Marine Regiment. Weikko Seppo served in the 24th. Jessor said taking photos off ... Jessor said taking photos off dead enemy soldiers wasn't common, unlike collecting flags the Japanese wore signed by family members wishing them good luck on the battlefield. 【Pine Knot News... Dick Jessor Dick Jessor
The sepia-toned photographs, slightly larger than a business card, tumble out of a browning, mottled envelope. For what is known of the six photos, and also what is enticingly unknown, the sight of them is breathtaking.

Keiko Satomi punctuates the moment.

"It's just," she pauses. "It has a weight."

From what can be pieced together across nearly eight decades, the photographs were found on the bodies of dead Japanese soldiers during a Pacific Theater battle in World War II. There are pictures of three women in formal dress. Sisters? A mother? A girlfriend? There is a family photo. Two pictures of soldiers. There is some identifying writing on the back of them, in columns of scribbled Japanese forms.

Keiko Satomi has been charged with finding more about the photos, and to perhaps get them back to families in Japan.

"It's such history," she said from a table in the children's section of the Cloquet Public Library where she works. "These were passed hand to hand with so much emotion. You think of how much they meant" to the soldiers.

We know the hands from which the photos passed since the end of the war in 1945. It was a Finlander from Duluth, to a German-born wife in Cloquet and, now, to a librarian, born in Japan.

The Marine

Weikko Seppo was too short. Five feet and 4 inches tall, he somehow got accepted for the Marine Corps after being drafted into the Army. He left Duluth and trained in California as part of the then novel amphibious Marine divisions created to bolster the U.S. presence in the Pacific.

They were trained for beach landings and fighting the enemy on established enemy turf on remote islands needed for aircraft staging.

Seppo fought on Tinian in August of 1944 and Iwo Jima in February and March of 1945, among others. In those two battles, he was injured, and received a Purple Heart medal and Gold Star.

Seppo died in 2001 at age 77. What is known about the photographs comes from his wife of 26 years, Susanne Stiefel Seppo.

On her mind

Susanne is among thousands of people across the country who have found themselves clearing things from their homes during the pandemic. The photographs have been on her mind for some time, especially since meeting Keiko Satomi as a frequent Cloquet library user. Satomi was born in Japan, and maybe she could find something out about the photographs.

Born in Germany and raised in Duluth, Susanne was a generation younger than Weikko. They married in the mid-1970s. He told tales of the war, and certainly had nightmares, but she never could piece it all together. She said he suffered from Alzheimer's disease in his 50s, likely the result of his war injuries. Before he died, he had been in a care facility for some time.

"I didn't want to do anything (with Weikko's war relics) while he was living," Susanne said. "The pictures have been in a box for years. I thought it was time to find them a home, and I thought of Keiko."

Resources

Keiko Satomi is using family and friends in Japan to try to piece together information on the six photographs. She put the images on Facebook and asked for help in deciphering the writing. She saw that one picture showed a military member wearing a hat saying "Sasebo Navy" on it. Sasebo was a large seaport in western Japan in the Nagasaki Prefecture. It was an important base for the Japanese and was on a list of 17 sites designated by the U.S. for an atomic bomb drop.

Satomi heard back from people at City Hall in Sasebo. They identified the name and address of the man in the photo and confirmed that he was a casualty. They are looking for any possible family members.

Satomi also contacted the Obon Society in Oregon, which helps Americans in returning war relics to Japan. Its director said she would take on the photograph project. Most commonly, Obon deals with the "good luck" flags the Japanese wore before going off to service. They are deeply personal objects, signed by family and friends with messages. They became common bounty for American soldiers.

Survivor

Dick Jessor was the same age as Weiko Seppo when he fought in a neighboring division of the Marines at Iwo Jima. He was planning on celebrating his 97th birthday on Wednesday. The Pine Knot News came across his name on a search for Iwo Jima veterans because he was in the news the past year, retiring from the University of Colorado Boulder as the longest-serving professor in the school's history: 70 years. He taught behavioral sciences and psychology.

Jessor said it was unusual for photographs to be taken from enemy soldiers. He recalled coming across a body outside his foxhole one morning and looking for one of those flags. He ended up finding letters on the soldier. The inhumanity of war hit home as he saw a commonality with his enemy.

"I didn't touch those," he said of the letters. "It was an epiphany. I had letters from home in my pocket. It really gave a whole sense of how crazy it was."

He said the fighting on Iwo Jima was so fierce, with the enemy hidden in bunkers underground, that it drove men to extremes when it came to how they reacted when coming across a Japanese body. Unspeakable things, Jessor said. "The anger and hostility just came out after being continually shot at by people you couldn't see. Being assaulted by an unseen enemy."

There were an estimated 20,000 Japanese on Iwo Jima when the Marines landed in February of 1945. Most of them died there. More than 7,000 U.S. soldiers died as well.

Jessor eventually did handle one of those Japanese flags. He has a hand grenade from the island sitting on his desk at home.

He said he couldn't say what may have been in Weikko Seppo's mind when he obtained the photographs. It remains a question if he got them from Iwo Jima or someplace else. "You do get a sense of how much the enemy is just like you," Jessor said. "Pawns in a battle. The sense throughout became an abstraction."

Seppo was a sharpshooter and "he killed a lot of Japanese," Susanne said. Perhaps he found in the photographs a moment to reflect.

Passing down

Satomi has studied the writing on the photographs and believes some of them may have been collected by a Japanese soldier before coming to Seppo. Some have two sets of handwriting on them, the original information a soldier may have written on them and then a different hand perhaps noting when the pictures were obtained from a dead soldier.

It could be that Seppo got the photos from one man who had been collecting the momentos in hopes of surviving and returning them to families.

"I hope I can find them a home," Satomi said.

She had a grandfather from Japan who survived the war after being captured by Russians and spending four years in Siberia.

Susanne Seppo said she's glad she has Satomi working on the mystery of the photographs. It really is a twist of fates: a native German finding a native of Japan to work out a Pacific island mystery sparked by a Finn nearly 80 years ago.

Susanne will take it. "What are my choices? Throw them out?"

If they find a home with family members in Japan, that will be more than she could imagine, she said. "It will have some meaning to them."

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If you have war relics from Japan


Contributed Photo

OBON SOCIETY, headquartered in Astoria, Oregon, is an international humanitarian organization that manages the largest and most experienced independent network in the world for returning personal heirlooms to families in Japan. With more than a decade of experience, their team of archivists, researchers and scholars receive, search and return personal items that were taken from the battlefields of WWII.

If you are in possession of personal item from WWII you want returned to the brothers, sisters, sons and daughters of missing Japanese soldiers, please do not hesitate to contact OBON SOCIETY.

OBON SOCIETY is a 501(C)(3) non-profit; they do not charge for this service.

The website has complete details at obonsociety.org or you visit their channel on YouTube to see interviews with veterans and their families by searching OBON SOCIETY.

https://www.pineknotnews.com/story/2021/11/26/people/photos-long-tucked-away-create-somber-intrigue/6285.html?fbclid=IwAR1ZtUZlKla4jf2jEsdar4UhVS-YtwAtgtn1WgWZ9oCJuQ5x7lB87n9VGfs
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Japanese Newspaper '' The Mainichi '' featured flag return in Kitami City-Hokkaido Japan

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Japanese Newspaper '' The M...
79 years on, WWII Japanese soldier's good-luck flag returns from US to his bereaved family

KITAMI, Hokkaido -- After 79 years, a Japanese flag thought to have been taken to battle by a soldier killed in the Pacific War has finally returned to his hometown, the city of Kitami in Hokkaido. Upon receiving it, his sister said through tears: "My brother has finally managed to come home."

On the flag were messages addressed to Shigenori Arae, who died in 1942 aged 23 on Guadalcanal in the Solomon Islands. Arae was the eldest son of nine siblings. His 93-year-old sister Kazuko Nakamata, who lives near the family home, said that because his remains were never returned, the flag meant her brother could finally come home.

Arae was assigned from the Imperial Army reserve officers' academy in Morioka, Iwate Prefecture, to Colonel Kiyonao Ichiki's detachment of the Imperial Japanese Army's 7th division in the Hokkaido city of Asahikawa. He was killed in combat against U.S. forces on Guadalcanal on Aug. 21, 1942, one of some 20,000 Japanese who died in the battle.

Arae was 21 when he left the Tokoro-cho neighborhood, now part of Kitami. His sister, Nakamata, then 13, recalled the day: "I went with him to Abashiri Station and saw him go. He leaned out the window and waved to me." Her big brother apparently asked her to "be good to our parents for me, too." "He was a kind brother," she said.

The flag, which has the words "presented to Shigenori Arae" written in its upper right corner, was found among the belongings of Louis Sowers, a U.S. military pilot who died in 2001. His nephew Mark Shelton was taking care of it when he learned about the movement to return Japanese flags. Shelton entrusted it to the Obon Society, an American non-profit organization. Eventually, they contacted the bereaved family association in Kitami, who took about two years to reach Arae's family including Nakamata.

The flag is quite damaged, as if telling of a fierce battle.
The inscriptions on it include "Buunchokyu (long-lasting good luck in battle)," "Fushakushinmyo (unsparing devotion to Buddhism)" and "Ganbare (do your best)." "They were probably written by his colleagues at work or at the military academy," Nakamata said.

A handover ceremony in Kitami on Nov. 6 was also attended by Arae's other siblings, Noriko Watanabe, 85, and Sanae Kudo, 80, who both live in Hokkaido. It was the first time the sisters had seen their brother's belongings in 79 years. They plan to display the flag along with his portrait in front of the Buddhist altar at the family home.

Nakamata thanked the involved parties including the Obon Society and Shelton, saying, "His remains were never returned. This is the only memento of him. I'm glad I lived long enough to see it." Obon Society staff member Kosuke Kudo, 47, said about 400 of the around 2,000 flags entrusted to it so far have been returned to bereaved families. This is the fourth case in Hokkaido, following others in Sapporo, Chitose, and Uryu. 
https://mainichi.jp/english/articles/20211113/p2a/00m/0na/004000d?fbclid=IwAR3p5yrc_R1mYwPCixB9oPz_SVAe3QSmd_NK4710dj1GQYZZwv-Q8kKJjXA
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オホーツク地区新聞【伝書鳩】/兄ちゃん、お帰り(Japanese Newspaper featured flag return in Hokkaido)

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オホーツク地区新聞【伝書鳩】/...
兄ちゃん、お帰り 2021-11-10 掲載(北見市/社会)

北見市常呂の新江繁規さん遺品

太平洋戦争で旭川の陸軍支隊に所属し、激戦地ガダルカナル島で1942(昭和17)年に戦死した、北見市常呂の新江(あらえ)繁規さんが戦地で持っていた日章旗が6日、同市在住の妹ら遺族のもとに返還された。旧日本兵の遺品返還を進める米国の非営利団体OBON(オボン)ソサエティが日本の遺族会の協力を得て実現。81年を経て故郷に帰ってきた兄の生きた証を握りしめ、妹達は「兄ちゃんに会えた」と涙を流し、受け取った。

約80年経て日章旗が妹らの元へ
激戦地ガダルカナルで戦死
米国OBONソサエティの仲介で返還

当時の常呂村豊浜の新江家に生まれた繁規さんは20歳で徴兵検査に合格し、21歳で旭川の部隊に入営するため、働いていた夕張炭鉱を出征。その際に同僚らが寄せ書きした日章旗と思われる。武運長久、七生報國など気持ちを高ぶらせる言葉が並ぶ。

そのとき13歳だった三女の中股かず子さん(93、北見市常呂)は、いったん故郷・常呂に帰ってからの出征を網走駅まで見送りに行った。五女の渡部規子さん(85、江別市)は6歳で「お風呂に入れてくれたり、いい人でした」、六女の工藤早苗さん(80、札幌市)は「市松人形を買ってくれました」とそれぞれ思い出を語る。

新江さんは旭川で一木支隊に配属。OBONソサエティと日本遺族会常呂支部によると「一木支隊には、この地方からかなり配属になり、熊部隊と呼ばれ強健で、畏れられた」という。42(昭和17)年8月に空港奪還の命令でガダルカナル島に上陸侵攻したが、まちぶせに遭い、先発隊の多数が壊滅した。

元米軍パイロットの米ルイジアナ州に住む親族がテレビで遺品返還の活動を知り2019年に同団体に連絡。札幌在住の同団体日本スタッフ・工藤公督さんが「新江という珍しい名前を頼りに」探し出したそう。道内では4例目の返還となった。親族は米国から遺族宛に「心のくぎりとなりますように」とビデオメッセージを寄せた。

6日、市常呂老人いこいの家に妹ら家族3人が集まり、辻直孝市長を通じて返還された。同遺族会の土本勝昭常呂支部長が「お兄さんが帰って来たね」と声を掛けると、中股さんは涙を旗で隠した。そして「兄の形見であり宝ものです。仏壇に供え、みんなで兄ちゃんをしのびたい」とお礼の言葉を述べた。 https://denshobato.com/BD/N/page.php?id=124771&fbclid=IwAR0VY33UrjaDDMkpQgPdJ5-o-dSw7jb7sWU_iMhwosLJ00CssV_isoSdI6M
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毎日新聞・読売新聞・北海道新聞/北海道北見市常呂町での日章旗返還式を報じる(Japanese Newspapers featured flag return in Hokkaido)

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毎日新聞紙面 毎日新聞紙面 読売新聞紙面 読売新聞紙面 北海道新聞紙面 北海道新聞紙面
毎日新聞・読売新聞・北海道新聞がそれぞれ紙面で北見市常呂町で行われた日章旗返還式について記事を掲載して下さいました。
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北海道 NEWS WEB /北見市出身の男性 日章旗が79年ぶり 遺族に返還(Japanese TV News featured flag return in Hokkaido)

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北海道 NEWS WEB /北...
太平洋戦争で戦死した北見市出身の男性が戦地へ持って行った日章旗が
6日、79年ぶりに遺族のもとに返還されました。

北見市常呂町出身の新江繁規さんは、1942年8月、太平洋戦争で出征していたガダルカナル島で戦死しました。当時23歳でした。

その後、新江さんが戦地に持って行った日章旗を元アメリカ兵のパイロットの男性が保管していたことから、遺族への返還が実現することになり、6日、返還式が行われました。
式には、遺族を代表して妹の中股かず子さんや遺品の返還を行っているアメリカの団体の職員などが出席しました。

ビデオメッセージで、団体の代表が保管していた男性のおい、マーク・シェルトンさんの手紙として、「新江さんが生きた証である日章旗の返還で心に区切りがもたらされれば」と読み上げたあと、旗が返されました。

日章旗には、戦地へ行く際、当時の勤務先の人などから贈られたとみられる寄せ書きが書かれています。

受け取った中股さんたちは「やっと返ってきた」などと話しながら涙を拭っていました。
中股さんは「島は激戦地だったので旗が戻るとは夢にも思わず、当時戻らなかった兄の遺骨が帰ってきた気がします」と話していました。

https://www.youtube.com/watch?v=655lVmjokk0



https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20211106/7000039955.html?fbclid=IwAR1V3L8CdxIa_Y4jiMpSNllblcpooqSzJLh13BtIsQGyWwsomGdJhRwsThU
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長崎新聞/「お帰りなさい」 米で保管の日章旗が遺族の元へ  旧満州で戦死した長崎出身の松尾さん(Japanese Newspaper featured flag return in Nagasaki)

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長崎新聞/「お帰りなさい」 米...
米国で長年保管されていた日章旗が1945年8月に中国北東部(旧満州)で戦死した長崎市出身の松尾昇さん(享年29)のものと分かり5日、同市城栄町の県護国神社で遺族に返還された。おいの松尾豊彦さん(84)=諫早市馬渡町=は戦後76年をへて手にした日章旗に「お帰りなさい」と声を掛けた。

旧陸軍の歩兵隊員だった昇さんは終戦間際、旧ソ連軍との戦闘で死亡した。昇さんの日章旗が米国に渡った経緯は不明で、米モンタナ州の米国人が知人から譲り受けて保管し、今年になって返還活動を続ける米国の非営利団体「OBON(オボン)ソサエティ」に提供。
同団体の日本人スタッフが持ち主を捜し、日本遺族会県連合遺族会が遺族を探し出した。

返還式で同遺族会の山下裕子会長(79)は「古里に帰られてお喜びと思います」と日章旗を遺族代表の豊彦さんに手渡した。豊彦さんは「叔父の記憶はないが『俺が帰ってくるまで元気でいてくれて、ありがとう』と声を掛けてもらったような気がした」と話した。
大戦中、出征した日本兵のほとんどが「寄せ書き日の丸」と呼ばれる日章旗をお守りのように携えた。その多くが戦場から戦利品として米兵らに持ち去られたという。

今回、日章旗には長崎高商(長崎大経済学部の前身)の柔道部の後輩たちが武運の祈りを込めて寄せ書きをしていた。「OBONソサエティ」スタッフで同学部卒業生の山本貴久さん(61)=熊本市=が大学の先輩と気づき、力が入ったという。
「贈松尾」と名字しか書かれておらず、山本さんは同窓会の協力を得て、寄せ書きした後輩の名前や柔道部の対戦表などから昇さんと特定した。返還式に駆け付けた山本さんは「先輩はとても柔道が強かったようだ。柔道部の後輩もきっと喜んでくれるはず」と安堵(あんど)の表情を浮かべた。
https://nordot.app/829523868699082752?c=174761113988793844&fbclid=IwAR0V7XFU2bFkTWj0wC0wJafpdnK8PQDG3CucQXyRUxn8R4G6DPr8z7cL1IE
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