返還された日章旗。左側に持ち主である松丸泰介さんの名前が大きく記されている=16日、千葉県市川市(前島沙紀撮影)
旧日本兵の日章旗、千葉・市川市が遺族に返還 米で発見される
2022/8/16 20:07
千葉県市川市は16日、同市から先の大戦に出征し、令和2年12月に老衰で亡くなった松丸泰介さんの日章旗を長男の裕一さん(71)に返還した。返還式には裕一さんやその家族、田中甲市長らが参加。日章旗は17日と23~31日、同市役所第1庁舎1階で行われる戦没者追悼行事と平和展で展示される。
泰介さんの日章旗は、国による戦没者の遺留品調査で米マサチューセッツ州で見つかり、今年1月に日本に届いたという。同州のビル・ブシーさんが1993年に父の遺品の中から発見し、保管していた。ブシーさんからは、「泰介様が第二次世界大戦から生還され、その後も長生きされたと知り、ほっとし喜んでいる。この先二度と同じことが繰り返されないよう願う」とメッセージが送られた。
裕一さんは日章旗が見つかったことについて、「ただただ驚いた。父が日章旗を携えていたと知らなかった」と話した。泰介さんはガダルカナル島やペリリュー島で米軍と戦ったという。裕一さんは、「99歳になる1週間前に亡くなった父は、戦争以外は本当に幸せな人生だったと思う。優しく運の強い人だった」と感慨深げに話した。
田中市長は、「幸せな国をつくるんだという思いが日章旗に込められていると思う」と指摘した。
裕一さんは「日章旗は大戦の遺物だと思うので、一家庭にとどめておくよりも皆さまの目にとまるところに置いてもらいたい」と、市に日章旗を寄贈する意向で、市歴史博物館で保存される予定だ。
https://www.sankei.com/article/20220816-YT2KJKWCVFKBPKMZ55GBMLD474/photo/GOUBK6FYB5LDNBRC6NJHX2FE24/
泰介さんの息子の裕一さん(71)右
太平洋戦争で日本兵が持って行った日章旗 家族のもとに返還
2022年8月16日 16時21分
太平洋戦争で日本兵が戦地に持って行った日章旗がその後、アメリカで発見され、終戦から77年を経て、16日、千葉県市川市の家族のもとに返還されました。
返還されたのは、市川市出身で、船舶工兵としてニューギニアなどで戦い、おととし、98歳で亡くなった松丸泰介さんの日章旗です。
この旗は、29年前に亡くなったアメリカ軍の元海兵隊員、オリバー・ブッシーさんの息子でマサチューセッツ州に住むビル・ブッシーさん(75)が保管していたもので、遺留品の返還に取り組むアメリカのNPO「OBONソサエティ」(オボン)を通して市川市役所に届けられていました。
16日は泰介さんの息子の裕一さん(71)らが田中甲市長から旗を受け取りました。
旗は縦66センチ、横83センチで、破れたり色がにじんだりしていますが、勝利を祈ることばや泰介さんの妻など家族や地域の人とみられる名前が寄せ書きされています。
返還式では、「この旗を家族のもとへ戻せることを大変うれしく思います」というビルさんからのメッセージも紹介されました。
裕一さんは「父の苦労のあとが伺える旗で、アメリカから戻ってきて本当によかったです。より多くの人の目に触れ平和の大切さを考える機会にしてもらうため市に寄贈したい」と話していました。
“戦うよりも生きるために食糧を探す日常だった”
松丸泰介さんの息子の裕一さんによりますと、泰介さんは大正10年生まれで、宮城県の石巻市から南太平洋のニューギニアなどに向けて出征し、船舶工兵として戦ったと聞いているということです。
泰介さんはおととし98歳で亡くなり、裕一さんは「前向きで地域のためにいろいろやる人でした。戦争については、戦うというよりも生きるために食糧を探すのが日常だったと聞いたことがある。あとは、足をやられたら置いていかれるからダメだと話していた」と振り返っていました。
16日に返還された旗は、破れや色あせ、インクのにじみがあり、かなり傷んだ状態ですが、「松丸泰介君」と大きく書かれた周りには、泰介さんの妻、百合子さんなど50人以上の名前があります。
返還式のあと、裕一さんは「戦争についてほとんど語らなかった父ですが、この旗を見てどんなに悲惨な戦争だったんだろう、語ることができなかったのではないかと思いました。日の丸の赤の中に血がにじむ思いがあると分かってくれて、大事にしまってくれたのだろう。ありがたい気持ちでいっぱいです」と話していました。
ビルさん “松丸さんも父も戦争を生き抜いた”
今回、返還された旗は、太平洋戦争中、アメリカ軍の海兵隊員としてガダルカナル島やパラオに赴いたオリバー・ブッシーさんが長く保管していたものでした。
オリバーさんの息子、ビルさんによりますと、オリバーさんが1993年8月に亡くなったあと10年以上たって家を売ることになった際、クローゼットから軍服や勲章などの記念品とともに箱の中に入っているのを見つけたということです。
今回、オンラインで取材に応じたビルさんは、旗を見つけたときのことを「ワックス紙で包まれていて、ガーゼのように薄く、すぐに壊れそうでした。何度も広げたら壊れてしまうと思い、一度だけ開きました」と振り返り、「父がこの旗を持っていたことすら私は知らなかったんです。太平洋戦争については決して多くを語らない人でした。ただ、少なくとも捨てなかったということは、敬意を持っていたのではないでしょうか」と話していました。
ビルさんは、友人に相談したり自分で調べたりする中で、日章旗など遺留品の返還に取り組むNPO「OBONソサエティ」のことを知り、団体を通じて旗を返還することになりました。
ビルさんは「松丸さんも父も戦争を生き抜き、それぞれ家庭を築くことができました。本当によかったです」と話していました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220816/k10013773061000.html?fbclid=IwAR2T2oQPg6G032oJFdJRSJ9HvaCslQgBjZhoDcZdO9dQmt3FzDUQs2ll0pw
Taisuke's son Yuichi (71)
Japanese flag taken by Japanese soldiers during the Pacific War returned to family
2022/8/16 12:45:51
[NHK] The Japanese flag that Japanese soldiers brought to the battlefield during the Pacific War was later discovered in the United States, and on the 16th, 77 years after the end of the war, a house in Ichikawa City, Chiba Prefecture...
The Japanese flag that Japanese soldiers took to the battlefield during the Pacific War was later discovered in the United States, and was returned to his family in Ichikawa City, Chiba Prefecture on the 16th, 77 years after the end of the war.
The flag that was returned was that of Taisuke Matsumaru, who was born in Ichikawa City and died at the age of 98 after fighting in New Guinea as a ship engineer.
This flag was kept by Bill Bussey (75), who lives in Massachusetts and is the son of Oliver Bussey, a former U.S. Marine who died 29 years ago. It was delivered to Ichikawa City Hall through the NPO "OBON Society" (Obon).
On the 16th, Taisuke's son Yuichi (71) and others received the flag from Mayor Kou Tanaka.
The flag is 66 centimeters high and 83 centimeters wide, and although it is torn and the colors are blurred, it contains words of prayer for victory and the names of family members and local people, such as Taisuke's wife.
At the handover ceremony, a message from Mr. Bill was also introduced, saying, "I am very happy to be able to return this flag to my family."
Yuichi said, "I'm really glad that I came back from America with the flag that shows the traces of my father's hardships. I want to donate it to the city so that more people can see it and have an opportunity to think about the importance of peace." was
https://www.tellerreport.com/life/2022-08-16-japanese-flag-taken-by-japanese-soldiers-during-the-pacific-war-returned-to-family.Hkeug75dAq.html?fbclid=IwAR3OCdsNpX8OSKbaTFsRG0HTtmlaG0dI5jo5cnZ4spEriOEuj4GeDRHcbOE
WWII soldier's good-luck flag returned from US to grandson in southwest Japan
OITA -- A Japanese flag thought to have been taken to battle by a soldier who died fighting in Okinawa Prefecture during the Pacific War's last days was returned to his grandson in the southwest Japan city of Oita on Jan. 16.
Upon receiving his grandfather's flag over 70 years after the war, Yoshinori Goto, 45, an Oita Prefectural Government employee, renewed his determination for peace, saying, "We have to pass down the horror of war."
According to Yoshinori, his grandfather Kesaji Goto left his village of Fujiwara -- now part of the town of Hiji -- in Oita Prefecture for the front. Kesaji is known to have belonged to the 12th Independent Infantry Battalion of the 44th Independent Mixed Brigade, but details including exactly when he went off to war are reportedly unknown. He is believed to have died in his 30s on July 1, 1945.
On the good-luck flag are messages to Kesaji including the word "Buunchokyu (long-lasting good luck in battle)." It is thought to have been taken to the U.S. by then Marine James Ellis Mercer, and was kept by his daughter Linda Hahn.
The Obon Society, an American nonprofit organization whose activities include returning Japanese flags, inquired with Oita Prefecture's association of war-bereaved families about the flag. Kesaji's family was then identified.
The flag's handover ceremony was held at Gokoku Shrine in Oita Prefecture on Jan. 16. With the flag in his hands, Goto said, "I'd like to say, 'Welcome back,' to my grandfather," and solemnly added that he felt the weight of history.
(Japanese original by Nao Ishii, Oita Bureau)
https://mainichi.jp/english/articles/20220120/p2a/00m/0na/025000c?fbclid=IwAR0YV5UtY0U7GJzqpsoUi8Nhnw5TVraDqscP6tfwYh6PWedClv-QHbi4q-k
【千葉県】昨年の10月に千葉県流山市赤城神社に返還されました日章旗が同年末に神社氏子衆や参拝者に公開されました。県内3新聞社「読売・産経・朝日新聞社」と市の広報誌が取り上げて下さいました。
妙高市出身で戦争で亡くなった人たちの追悼法要が30日、妙高市で行われました。これにあわせ、沖縄の地上戦で亡くなった男性の遺留品として、日章旗がアメリカから遺族に返還されました。
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追悼法要には妙高市遺族会や社会福祉協議会の役員など約40人が参列しました。妙高市では第二次世界大戦などで1691人が亡くなっています。法要では、社会福祉協議会の三浦了好会長が追悼文を読み上げました。
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三浦会長は「平和で豊かな社会は、戦火に散った多くの尊い犠牲の上に築かれたことを忘れてはならない。我が国では戦争を知らない世代が8割を占める。戦争の記憶の風化が危惧されている。改めて戦争の悲惨さと平和の尊さを、後世に引き継がなければならない」。
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入村市長は「悲しい歴史を繰り返さないよう、我々には次の世代に引き継ぐ使命がある」と述べました。
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この後、昭和20年6月15日、沖縄の地上戦で亡くなった古川學さんの日章旗が遺留品として、遺族の古川行雄さんに返還されました。學さんは矢代地区の出身、当時30歳でした。 日章旗はアメリカ兵が戦利品として持ち帰りましたが、アメリカの非営利団体、OBON(オボン)ソサエティや日本遺族会などを通じて返還されました。
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縦70センチ、横100センチの旗には、學さんを含む9人の名前と無事を祈る「武運長久」の文字が書かれています。
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日章旗は出征する人に対し、家族などが寄せ書きしますが、遺族会によりますと、學さんの旗にある寄せ書きは地元には無い名字であることから、戦地で戦友が書いた可能性があるということです。遺族に日章旗が返還されるのは妙高市内では初めて、県内でも2例目ではないかということです。
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古川さんは「自宅に(學さんの)石碑があり、お盆にお参りしていたが偉大さを痛感した。国のためにとはいえ命を捨てた。戦争はあってはならない」と話しました。
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妙高市遺族会は、市内にある戦没者の遺品などを探し当て、登録する取り組みを進めています。この日章旗も古川さんの理解を得て、活用させてもらえたらと話しています。
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遺族会の間島英夫会長は「語り部として(市内の中学校に)戦争の話をしている。(日章旗は)生きた教材として、切実に訴えることができる」としています。
https://www.joetsu.ne.jp/148686?fbclid=IwAR1uwTtTfiFotAY6ApPyFqPdHWWHWrfMnB2PbuB5YZ2FazChU67KQZkhmCo
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