『無鹿の里』を夢見た男!
8月
14日
キリシタンの国を実現しようとした理想郷 「無鹿(むじか)」
大友宗麟が西洋音楽に魅了され、理想郷に 「無鹿」 と名付けたが・・・
【豊後國の国主 大友宗麟公】
「大友義鎮(おおともよししげ)」 (1530年~1587年)
豊後国(今の大分県)の国主! 弱冠20歳にて大友氏21代当主に!
九州一のキリシタン戦国大名とも言われた九州の雄!
32歳で出家して大友宗麟(そうりん)と号す。
1578年(天正6年)宗麟48歳の年に洗礼を受け、洗礼名は「ドン・フランシスコ」と名乗りキリスト教徒となる。
★宗麟が21歳の年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルと引見しキリスト教と出会う。
領内の布教活動を保護することで、南蛮貿易を活発に行い莫大な利益を得る。
★1576年、ポルトガル人から大友宗麟に日本で初めて「大砲」が送られる。
この大砲の音の大きさと破壊力により「国崩し」と呼ばれた。
日本で初めて大砲を使ったのが宗麟だとされる。
★鉄砲も種子島伝来より10年も早く、豊後へ伝わったとされてる。
★宗麟は、日向国(宮崎県延岡市辺り)にキリスト教国(キリシタンの理想国)、
『むじかの里』 の建設を夢見た。
★南蛮貿易を開花させ理想の国を追い求めた、キリシタン大友宗麟。
『むじかの里』戦争のない平和な国、理想の国を作ろうと決心するが・・・
1587年、豊後国津久見にて、むじかの里を夢見ながら病死、享年58歳。
※大分駅前の広場に像があります!
今でも大分(豊後の國)を見据えています。